ここまでどうにかして維持してきた笑顔がこわばるのを感じた。
男は駄目ですか? 質問に正直に答えるならばイエスだ。栄は一度だって男以外を好きになったことはない。だが、なぜジェレミーがそんなことをきく。
「え……っと?」
会話の流れを反芻して、質問の意図を汲み取ろうと試みた。昨日のカミングアウトは栄を試そうとしていたからで、それがどういう意味かといえば……。
察しの悪い栄がもどかしいのか、これまでのおっとりとした物腰が嘘のように、ジェレミーは勢い任せに身を乗り出した。
「最初から素敵な人だって思ってたんです。別に、上でも下でもどっちでもいいです、栄さんが望む方でいいですから」
ここまで直接的に言われれば、さすがに栄も事態を理解する。ジェレミーは最初から栄のことを好みの相手だと思って距離を詰めてきたこと。そして「上でも下でも」というのがつまり、肉体関係への誘いに他ならないことも。
「ジェレミー……」
とんでもない勘違いをしていた。人懐っこい日本びいきの男。好みのタイプだと一方的に目の保養にしているつもりが、相手は栄以上に生々しい欲望を抱いていたというのだ。
鼻先まで近づいた顔は確かに可愛らしくて好みど真ん中だ。万事において控えめな振る舞いも、決して栄の自尊心を傷つけることない〈程よく劣った〉スペックだって好ましい。栄が抱きたいと言えば素直に尻を差し出してくるだろう。
本来、好きなのはこういうタイプだった。
自分より背が高い男も、学歴が高い男も、いちいち偉そうでこちらを下に見るような男も大嫌いだったし、抱かれる側に回ることなんてこれっぽっちも想像したことはなかったし。――十ヶ月ほど前に突然羽多野が大使館に電話をかけてきて、栄を無理やり呼び出すまでは。
栄は潤んだ瞳で見つめてくるジェレミーの肩に手を伸ばし、そっと体を遠ざける。
「ちょっと待って。俺、そういうのは」
「やっぱりゲイは駄目ですか」
どう返事すべきだろう。これまでストレートを装ってきた以上、「自分は男をそういう対象に見られない」と返事するのが自然だろうか。しかし自分自身も同性愛者であるゆえに、栄は「同性である」というだけで恋愛対象にならないと明言することを残酷だと感じた。
「そういうんじゃなくて……いや、そうなんだけど。でも問題はそこじゃなくて……つまり、俺には相手が」
しどろもどろになってなんとか絞り出したのは結局、穏便な拒絶の定番である「他に恋人がいるから」という台詞。ともかく断りの意思を示すことができ、栄は安堵した。
「そうなんですね。栄さんが親切だから勘違いしそうになりました、すみません」
ジェレミーの表情がふっと緩んで、体からも力が抜けたようだった。消沈した様子に気が咎めないわけではないが、彼の気持ちに答えることはできない。
わざわざ呼び出して「話したいこと」がこれだったなら、もう十分だ。栄は握りしめていた紙コップを持ち上げると中身をぐっと飲み干した。冷え切ったコーヒーの強い苦味が口いっぱいに広がった。
しかし、「じゃあ」と立ち上がろうとしたところで、ジェレミーが再び栄に顔を向ける。さっきのような情熱を秘めた瞳ではないが、食い入るように首の当たりを見つめている。視線の先は、シャツに隠れたうなじ。
「その〈相手〉って――栄さんが私に泳ぎを教えてくれていることを知っていたんですか?」
「え?」
「首の後ろについてたキスマーク、もしかしたら牽制されていたのかもしれないなって」
「ジェレミー……」
ひやりと、ジェレミーの言葉は鋭い刃物のように栄の首筋をかすめた気がした。もし彼が栄をストレートの男だと思っているのなら「牽制」などという言葉を使うだろうか。
もしかしたら栄こそ勘違いしていたのかもしれない。ジェレミーを素朴で奥手な青年だと思っていたことも、彼に自分の下心がばれていないと思っていたことも。
いつからかわからないが、ジェレミーは栄を〈お仲間〉と見なしていたのではないか。だとすれば「試した」という言葉の意味も、もしかしたら。
居心地が悪い。こんなふうに性志向について指摘されるのは初めてだ。尚人のときは長い時間をかけて相手もそうだと確信した上で、告白と同時にカミングアウトした。羽多野には、偶然尚人と恋人同士の会話をしているところを聞かれてしまったから、言い逃れる余地もなかった。
「ジェレミー、ごめん。俺は」
ノーと言っても信じてもらえないだろう。でも、はっきりと言葉で認めたくはない。だから栄はあいまいな謝罪を口にした。
「いいんです、わかってます。日本はここ以上に保守的です。栄さんは社会的立場がある人だから、なおさらうかつなことは言えないでしょう」
要するに「わかったから皆まで言うな」ということだ。
あきらめなのか安堵なのか自分でもわからないままに、栄はおおきなため息を吐いた。昨晩以降もやもやした気分でいたことも、さっき誘いをどう断るか悩んだのも、何もかも無駄だった。
「ジェレミー、気づかなかった。君は意外と意地悪なところがあるんだな」
悔し紛れの当て擦りも、少しくらいは許して欲しい。
尚人とちょっと似ている、なんて勘違いもいいところだった。尚人だったら他人の性志向を知るために鎌をかけるようなことはしないし、「上でも下でも」などという露骨な言葉で人を誘ったりしない。栄は、自分に人を見る目がないことを認めざるを得ない。
結果的に勘違いさせるような態度をとったこちらにも非はあるが――栄は本当に、これっぽっちも、ジェレミーが自分を色恋の眼差しで見ていることに気づいていなかったのだ。
「すみません。こちらこそ栄さんのプライベートに踏み込むような真似をして。直接確かめないとあきらめがつかなくて」
さっきまでの落ち込んだ態度が嘘のようにさっぱりとした笑顔を見せると、ジェレミーは地面に落ちたままだったカフェラテのカップを拾い上げて、ベンチの隣にあるゴミ箱に投げ込んだ。
とうとう性志向を明かしてしまった。大きな秘密を明かした後の不安はあるが、栄もまたジェレミーへの後ろめたさが晴れた安堵を感じる。これで嘘をつくことなしに、はっきりと彼の誘いを断ることができる。
「ジェレミー、悪いけどこの話は誰にも。仕事仲間はおろか、親兄弟も知らないことなんだ」
「わかっています。でもそれを言うなら栄さんも、その気もない相手に思わせぶりな態度を取らないほうがいいですよ。私みたいに勘違いする人間が他にも現れないとは限りません」
冗談じゃない。栄は思わず吹き出す。
「そんな物好き滅多にいないよ。自慢じゃないけど俺は女性にはすごくもてるんだ。でもお仲間には好まれるタイプじゃないし、これまでもまったく気づかれずにやってきた」
弱気になっていたときに元恋人と雰囲気の似た相手に出会い、しかもその人物も同性愛者だった。こんな偶然そうそう起こらない。普段の栄は完璧に擬態しているから、男に言い寄られるなんてありえない。
だが、ジェレミーは疑わしそうに首を傾げた。
「そうですか? 栄さんは十分魅力的です。こんなこと言ったら叱られるかもしれないけど、プールでもチラチラ見てる人、たまにいますよ。それに、あんな独占欲丸出しの跡をつける恋人もいるんですから」
「……いや、それは」
脳裏にぱっと羽多野の姿が浮かぶ。あの男もまた栄にとっては「世にも珍しい物好き」だ。