目を覚ました羽多野は枕元に置いた時計で時間を確かめる。アラームをセットしてある時刻よりはまだ早い。ここ数日、覚醒が早い気がするのは酒量を抑えているからだろうか。
ベッドの隣には、人ひとり横たわれるスペースがすっぽり空いている。
離婚して以来の長い年月をひとりで過ごした。日本ではダブルベッド、ここに転がり込んでからは貸し与えられたクイーンサイズのベッドの真ん中かで贅沢なスペースを独占することに慣れていた。今も、恋人がここに来るのは多くたって週に二度を超えることはない。
なのに、気まぐれな彼がいつその気になってもいいように常に枕はふたつ並べているから、ひとりで寝る夜であっても体をベッドの片方に寄せるのが癖になりつつある。
目下は「待て」の身。決して来るはずのない相手の場所を空けて眠っていた自分がおかしくて、苦笑いがこぼれた。
浮気疑惑――というのは大袈裟だが、栄が例の男とプールで逢瀬を重ねていたことを責めた後で一応ふたりは和解して、久しぶりに甘いキスを交わした。そのまま仲直りのセックスになだれこむのが定石に思えるが、一筋縄でいかないのが谷口栄だ。
たった一度の気まずいセックスを引きずって、そのままずるずる拒んでしまう。生真面目で意地っ張りな彼らしいし、きっと以前の恋人とも似たような感じでセックスレスに突入していったのだろう。
「でも俺は、踏んできた場数が違うからな」
本人を前にして口にすれば激怒間違いないが、偽らざる本心だ。
あいにく羽多野は、栄のめんどくさくい葛藤に付き合ってやるほどお上品なタイプではないし、たった一度くらいセックスが盛り下がったくらいで絶望したりもしない。
場数、というのはセックスの回数や経験人数の多寡のみについてではない。見下され、恥をかき、何度も自尊心をへし折られてきた羽多野にとって、この程度の失態はいくらだって挽回可能なもので、落ち込む必要は感じない。本人なりの努力も苦労も認めるが、恵まれた家に生まれほとんど挫折せずに生きてきた栄とは、耐性が違うのだ。
お育ちが良くプライドが高くて失敗を過度に恐れる。器用だけど、それ以上に不器用。そんなところもまあ、栄の魅力の一部ではあるのだが。
とはいえ、こっちも何度もああいうことを繰り返すつもりはない。そのための準備だって万端に整えているつもりだ。ここ数日は毎晩酒は一杯にとどめているし、もちろん肉体的にも……。
羽多野は上体を起こすとスウェットの前を開き、下着を硬く持ち上げる「それ」を確かめた。規則正しい生活に適量の飲酒。息子のコンディションもばっちりだ。
数週間触れていない恋人の肌を思い浮かべると、それだけで腰の辺りが甘くざわめく。今夜触れたら栄はどんな顔をして、どんな声で啼いて、どんなふうに乱れるのか。またご機嫌をそこねてはいけないから優しくしてやるつもりではいるが、どこまで理性が保てるかはわからない。
大人の余裕を見せてやるには、溜め込みすぎるより少しくらい出しておいたほうが良いだろうか。迷いから一度はスウェットの中に右手を差し入れ――やっぱりやめておくことにした。
せっかくここ数日がまんしているのに、ここでティッシュに出してしまうのはもったいない。今夜こそ溜め込んだ濃いものをたっぷり、あの硬く締まった尻の奥に注ぎ込んでやる。
「……やべ」
これ以上セックスのことを考えていたら朝勃ちではすまなくなりそうだ。アラームはまだ鳴らないが、とりあえず放尿で勃起をおさめようと羽多野はベッドを降りた。
トイレと洗面を済ませてリビングダイニングに行くと、栄はすでに起きてコーヒーの準備を始めていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いな」
「そうですか? いつもと変わりませんよ」
さりげない普段の朝を演じてはいるが、栄が今夜の約束を意識しているのはあまりにあからさまだ。食事のあいだもほとんど視線を合わせず、そわそわと早く家を出ようとする栄を玄関まで追いかけて、一応釘を差しておいた。
「今日は早く帰る?」
「……そんなの仕事次第だから、わかんないですよ」
反射的に棘のある言葉で返し、しまったと思ったのかドアをすり抜ける瞬間栄は付け加える。
「遅くなりそうなら、ちゃんと連絡いれます」
どうやら約束を守る気はあるらしい。羽多野は満足した。
アラフォーにして、夜のセックスが楽しみで仕事が上の空というのもどうかと思うが、幸いにして今日は金曜日。ランチを終えれば同僚たちもほとんど週末気分だ。仕事の進捗がゼロであっても誰も責めはしない。
資料を読んでいるふりをしながら今夜のプレイについて思いを巡らせていると内線電話が鳴る。
「もしもし」
「タカ、アントニオの部屋でアペリティーボしないかって。良かったら君も来いよ」
「またか? あいつは金曜の午後をなんだと思ってるんだ」
同僚のアントニオはイタリア人で、ときおり自分のオフィスに同僚を招く。アペリティーボ自体はイタリアの習慣で、夕食開始の遅い彼らはディナー前に食前酒と軽いスナックを楽しむのだという。しかし今はまだディナー前どころか日のさんさんと照る勤務時間中だ。
「いいスプマンテを持ってきたらしい。興味ないなら真面目な日本人は抜きでやるけど」
茶化してくる同僚に、笑いながら首を振る。
「いや、ご馳走になるよ。彼女にも声をかける」
「ああ、そうしてくれ」
悶々とセックスを夢想する午後を送るよりは、同僚たちと雑談しつつうまい酒を飲むほうがよっぽど生産的だ。もちろん酒は飲みすぎないようにするとして――。羽多野は立ち上がりオフィスを出ると、隣の部屋のドアをノックした。
「おい、聞こえてたか? イタリア人がうまいスプマンテをふるまってくれるらしいぞ」
個室とはいえ壁は薄く、電話の声など筒抜けだ。スパークリングワイン好きの神野小巻は準備万端でお声がかかるのを待っていると思いきや、彼女はデスクに向かって俯いている。
「アペリティーボだって。アントニオのオフィスで」
集中して作業でもしているのかと思い、今度はいくらか控えめに声をかけて羽多野はその場を去ろうとする。が、ドアを閉める前に神野が顔を上げ、どんよりと暗い声を出した。
「また、駄目でした」
「……こないだインタビュー行ったとこ?」
「そこもです。あとここに来る前に応募書類送ってたインターンも、他の人に決まったそうです」
しまった、まずいタイミングで声を掛けてしまった。後悔するが、どうやら手遅れだったようだ。
ヨーロッパに固執する神野の就職活動は引き続き苦戦している。この職場でのインターン残り期間が短くなるにつれて、彼女の精神状態は不安定さを増し、羽多野が一身にその被害を受ける羽目になっている。
「インターンって、君さ……」
適当になだめすかして、自分は楽しくアペリティーボに向かいたいと思わなくもないが、さすがに人生の先輩として彼女の迷走は気にかかる。
日本以上に即戦力であることが求められがちな欧米の就職市場では、同業種同職種でのキャリアなしでは、なかなか仕事にありつけない。
まずはインターンで経験とコネを培って就職につなげるというのは定番の方法であるが――人気の業界だとインターンのまま三十半ばというのもよく聞く話だ。もちろん圧倒的に待遇は悪く、経済的にも独り立ちはできないまま。日本の非正規問題、ポスドク問題と似たようなものはどこにでも転がっている。
どこぞの社長令嬢だか知らないが、離婚で傷ついたプライドを回復する目的としては勝率の悪すぎる賭けだ。
「わかってます! インターンで時間浪費するより、仕事探すなら正社員でって言いたいんでしょう。それが簡単にいかないから困ってるんですよ」
ふてくされたように呟いて、神野は机の上の紙の束をひとまとめに握りつぶすとゴミ箱に投げた。