狙いは甘く、紙屑はこつんと縁にぶつかってゴミ箱を揺らしてそのまま床に落ちた。
このまま小娘の癇癪に付き合うか、それとも無視してアペリティーボへ向かうか。本心は後者だが、インターン指導役としての保身が頭をちらつく。
「そんなに焦らなくたって、何なら一度帰国して日本から仕事を探すって方法もある。俺だって……」
羽多野だってロンドンでの職を探しはじめた頃は観光ビザで滞在する身だった。その後、予想外の出来事により日本に帰国したため途中からは就職活動もオンラインで進めた。
だが神野は気の乗らない様子で首を振る。
「そういうのって、既に十分なキャリアがあるから言えることですよ。ただでさえ私みたいなのは不利なのに、ヨーロッパ離れたらどこの会社にも相手にされません。タカだってどうせ、日本に戻ればそのうちあきらめるって思ってるんでしょう」
短絡的ではあるが馬鹿ではない彼女は、羽多野の真意などお見通しというわけだ。
実際、彼女が外国での就職にこだわっている理由が元夫や、周囲の人たちへの意趣返しならば、きっと時間が解決する。見目も悪くない、家柄だっていい、まだやり直すには若すぎるくらいの年齢なのだから日本にいたってきっとまた良い出会いが――というのがきっと、本人からすれば余計なお世話なのだろうが。
「本当に、うらやましい。どこでだって仕事に困らないキャリアがあって、結婚なんて厄介なことせず彼女と優雅に海外生活。そんな恵まれた人に、わたしの気持ちなんてわかるはずないんですよね」
思わずため息を飲み込んだ。
羽多野は自分の過去やプライベートについて語ることを好まない。
不妊を理由に離婚されたこと、政治家の資金スキャンダルに巻き込まれマスコミのおもちゃにされた挙句に詰め腹を切る羽目になったこと。どれもあえて公言したい話ではない。同性に入れあげて一緒に暮らしている点については――羽多野本人にはさして抵抗はないが、神経質で世間体を気にする栄は嫌がるに決まっている。
どうやら自分は黙っていれば苦労を知らないエリートだと思われるらしい。頭では理解しているのだが、他人の羨望の視線は羽多野にとって愉快なものであると同時に微妙な違和感をもたらす。若い頃にさんざん悩まされたコンプレックスが、今も抜けきっていないのだろう。
「こっちだって、傍目ほど楽じゃないんだ」
羨まれるのは嫌いではないが、他人のバックグラウンドへの想像力が欠如している自分本意な小娘にはチクリと嫌味のひとつくらいお見舞いしたくなる。
「へえ、例えば? 面倒くさいインターンシップの世話役を押し付けられているとか?」
赤く塗った唇を尖らせて言い返してくる彼女に、羽多野は神妙にうなずいた。
「それもある」
「それも? 他には?」
「第一、君は誤解してるみたいだけど、俺は優雅な遊び人なんかじゃない。それどころかクソわがままな恋人の尻に敷かれっぱなしだ」
ぽろりとこぼした言葉に、黒く濡れた瞳がキラリと光った。全員がそうだとは言い切るのは偏見だが、若い女性の多くは恋愛の話が好き。それも順風満帆なのろけ話ではなく、他人の苦労話に目がないのだと羽多野は経験上知っている。
「へえ、全然そういうタイプには見えないけど。そういえば彼女ってどんな人なんですか?」
「内緒」
「自分で話を振ったくせに」
神野は不服そうだが、羽多野からすれば就職活動の愚痴を止めるためにちょっとした餌を撒いたに過ぎない。栄とのあれこれをわざわざ話してやるつもりはさらさらなかった。
しばらく羽多野の私生活を聞き出そうと粘った神野だが、最終的には諦観の表情で「やっぱりタカって性格悪い」とつぶやく。
「なんとでも言え。金曜の午後に恨みがましい顔で愚痴聞かせようとする奴よりましだろう。話があるなら来週だ」
「はあい、すいませんでした」
神野が鬱陶しいのはもちろんだが、羽多野にそれを聞いてやる余裕がないのは、栄との喧嘩やセックスのお預けが大きな原因だ。ため込んだ鬱憤をこの週末にたっぷり晴らせば、週明けには親切な就活指導をしてやる程度の親切さは取り戻しているだろう。
羽多野は神野のオフィスを出て、今度こそアペリティーボ会場へと向かった。
イタリア人おすすめのスプマンテに上質なチーズにハム。午後のひとときはそれなりに楽しかったし、少量のアルコールを体に入れたことで、夜に向けてのエンジンもかかってきたような気がする。
上機嫌の羽多野だったが、いざ定時になろうという頃にスマートフォンが不穏な音を立てた。
――少しだけ、残業します。
画面に表示されたメッセージの短さは、そのまま栄の罪悪感をあらわしている。「少しだけ」というのが一体どのくらいなのか。三十分なのか一時間なのか、はたまた官庁の激務に慣れきった栄にとっては日付が変わらなければ「少しだけ」なのか。はっきりしない言葉に苛立つのは落胆ゆえだ。
だが、今このタイミングで険悪になるわけにはいかない。羽多野はできるだけ穏便な返信をすることに決める。
――わかった。早く帰って楽しみに待ってる。
何を〈楽しみに〉待っているのかは言わずもがな。大使館の執務室で、このメッセージに否が応でも今晩の行為を思い浮かべているだろう栄を想像すると、羽多野の気持ちは和らいだ。
アペリティーボがお開きになると早々とオフィスは空になっていく。急ぎの用事もないのに金曜に残業するような物好きは、ここにはいない。
もちろん羽多野も今日は時間になったら家に直行するつもりでいたのだが、肝心の栄が残業と聞くと計算が狂ってしまう。早く帰って待っていると宣言はしたが、家に帰っても手持ち無沙汰だ。今夜までは節酒と決めているから酒を飲んで待つわけにもいかないし、本やドラマにもきっと集中できない。
ちょっと走るか、それともジムにでも行くか。いや、そういえば食事をどうするか考えていなかった。今夜はセックスがメインだから、準備や片付けに手間のかからないものがいい。どこかで惣菜でも買うか。
そんなことを考えながらかばんを手に自室を出る。
ハロッズまで行けば仕事を終えた栄と合流できるだろうか。いや、以前近くまで迎えに行って怒られたことがあるから、あまりいいアイデアではない。考え事をしながらエレベーターに乗り込んだところで、神野小巻も小走りでやってきた。
「あ、お疲れさまです」
就業時間中は雑談であろうと英語、代わりに仕事が終われば、二人で話すときは日本語解禁。それが神野の英語力向上のために決めたルールで、彼女は今のところ生真面目に守っている。
結局、神野はアペリティーボの場には来なかった。部屋であのまま応募資料の見直しを続けていたのだろう。
「……月曜にもう一回CV見せろ。あと、失敗したインタビューの話も。俺からでもフィードバックできることがあるかもしれないし」
昼間の態度は同胞の教育係としてちょっと冷たすぎたかもしれない。埋め合わせのように羽多野が週明けの話をすると、神野も体裁悪そうに笑う。
「すいません、こっちこそ愚痴ばかり。悩んでもどうしようもないってわかってるのに焦っちゃって。もともと父はこの年齢での留学にいい顔してなかったから、帰国して海外就活続けてたらまた揉めるんだろうなあとか、考えちゃって」
「お嬢様もたいへんなんだな」
羽多野からすれば本音の感想だったが、お嬢様と言われて照れくさいのか神野は「からかわないでください」と言い返して話を変えようとした。
「タカは、今日はまっすぐ帰るんですか?」
エレベーターを降りて、流れで二人は並んで歩き出す。オフィスの入っているビルを出て、地下鉄も途中まで同じ方向だ。
「ああ、どっかで飯でも買ってから帰る」
「彼女と一緒に暮らしてるのに?」
恋人と一緒に暮らしているのに金曜の夕食がテイクアウェイであることに神野は違和感を抱いたようだが、相手が残業なのだと告げると納得したようにうなずいた。
「パワーカップルもたいへんですね。そういえば結婚してるときはうちも、外食やデリバリー多かったな。今日は何にするんですか?」
「考えてるとこ」
羽多野ひとりならばカレーやケバブでいいのだが、栄はその手のファストフードはたまにしか口にしない。嫌っているわけではなく、健康や体型へのこだわりゆえだ。それに今夜は一応は特別な晩なので、色気のない食事で機嫌を損ねるリスクは避けたい。
「……君は普段どういうとこで買ったり食ったりしてるの?」
食べ物の話なら、自分よりむしろ美容意識の高い若い女性の方が栄の好みに寄り添えそうな気がする。羽多野は神野から情報収集を試みることにした。
「えー、普通ですよ。太らない程度にはカレーもバーガーもピザも食べるし」
そこで羽多野の質問の意図を察したのか、神野ははっと口をつぐむ。それから少し考える様子を見せた。
「うーん。そうだ、こないだ友達が買ってきてくれたデリ、すごく良かったです。野菜もお肉も全部オーガニックで、ヘルシーなんだけど味気ない感じじゃないっていうか……一品一品手がかかってて、すごく美味しかった。持ち帰り容器もおしゃれで、あれ、女性は絶対好きだと思います」
女性ではない、ということはここでは問題ではない。健康に良さそうで、手のかかった美味しい料理。きっと栄は喜ぶだろう。
「へえ、気になるな。その店どこ?」
「ベルグレービア。ちょうど私も今夜のご飯に買いに行こうと思ってたんですよね。よかったら案内しましょうか?」