「はー……」
自分の口からこぼれたため息の大きさに自分で驚いて、はっと顔を上げると同室の久保村とトーマスがこちらを見ていた。
「あ、いや何でもないです」
気まずさから愛想笑いを浮かべて再びPCに目を落とす。ため息ばかりついているがどうかしたのか? ため息をつくたび心配の声をかけられて、そのたび適当な答えでごまかしてきた。もうこれ以上の新しい言い訳はでてこない。
幸いなことに物わかりのいい同僚たちは栄が不調の理由を探られるのを嫌がっていることを察したようで、何も言ってこなくなった。それでも、これだけ大きなため息が聞こえれば思わず視線を向けてしまうのは無理もないことだ。
あっという間に、金曜がやってきた。
しかももう、午後。
時計を見るたびに発狂しそうになる。
半ば強引に「今週末は久々に抱き合う」という約束を取り付けられて以降、羽多野は特に栄を煽るようなことも、プレッシャーをかけるようなこともしなかった。
もしかしてあれはただの口からでまかせで、週末になれば羽多野は約束のことなど忘れているかもしれない。そんな期待を抱くと同時に、長引くセックスレスに不安を募らせる不安定な心情でいた栄だが、今朝の羽多野はいつもより早く起きてきた。しかもわざわざ早めに家を出る栄を玄関まで追いかけて、「今日は早く帰る?」と問いかけた。
からかい混じりの露骨な言葉ではなく、控えめに帰宅予定をたずねるだけというのがむしろ真剣味を感じさせて、栄はたじろいだ。
栄はもう三十路、つまりセックスを恥ずかしがるような年齢とは程遠い。しかも羽多野とはもう回数もわからないくらい抱き合ってきた。セックスのたびに身構える方がよっぽど滑稽なのに、どうしてこんなに思い悩んでしまうのだろう。
いつだってこうだ。ちょっとしたことで意地を張っては折れる機会を失って、どんどん「次」のハードルをあげていく。わかりきった欠点。一歩外に出れば簡単に取り繕うことのできる欠点を、一番嫌われたくない相手の前だけは隠しきれなくなる。
せめて、あと一週間の猶予があれば心の準備が――ここに至ってあきらめの悪い考えが頭をよぎり、栄は椅子から立ち上がる。仕事は手に着かないし思考は袋小路。今の自分に必要なのは間違いなく気分転換だ。業務時間中なので理由もなく外の空気を吸いに行くわけにもいかないが、廊下を歩き回るだけでも頭はいくらかすっきりするはずだ。
ぐるりと自分のオフィスのあるフロアを回り、足りないので非常階段で一つ下の階に降りる。エレベーターホールにさしかかったところで、知った人影が目に入った。栄は思わず声をあげる。
「あれ、ジェレミー……」
今日は一人ではなく、隣には上司らしき女性が一緒だ。先日大使館で会ったときに言っていた日本映画イベントの打ち合わせの続きだろうか。
こちらへ振り向いたジェレミーの淡いブラウンの瞳に一瞬動揺が浮かび、消える。そういえば前回会ったときはジェレミーに告白され、栄が振ったのだった。それに、これまで公私関わらずひた隠しにしてきた同性愛者であるという事実を彼には知られてしまったのだ。お互い気まずくて当然なのに、羽多野とのことで頭がいっぱいだった栄はそこまで考えが及ばなかった。
ジェレミーは普段通りの穏やかな表情で「こんにちは、栄さん」と答え、続けて上司に栄を紹介する。完全に大人の、ビジネスの対応。
「こちら経済部の谷口さんです。偶然同じジムに通っていて」
「谷口です」
あわてて栄もビジネスの顔をして、ポケットから名刺入れを取り出した。
少しのあいだジェレミーとその上司と立ち話をした。彼らの現在取り組んでいるプロジェクトについて、以前ジェレミーからもらったレポートについて。そして――話も一区切りついて彼らがそろそろ立ち去ろうとしたとき、ふと奇妙な発想が浮かんだ。
いや、その瞬間は自分の考えが奇妙だという自覚すらなかった。外向きの顔で仕事の話をしながらも頭の中はあと数時間後に迫った羽多野との約束でいっぱいだったのだ。求められたのにできなかった行為。体の中で萎えてしまった性器。二度と味わいたくない最悪の雰囲気。
そういえばジェレミーは、栄にとっては唯一の「自分の性的志向を知られている友人」。告白されて振った相手を友人と呼んでいいのかはわからないが、とにかく今の栄は藁にもすがりたい気分だった。
「そうだ……ジェレミー、ちょっとだけ、一分だけ見て欲しいものがあって」
小さな声でささやくと、当然ながらジェレミーは怪訝な顔をする。
前回のやりとりを気まずく思っているからか、それとも栄が職場で声をかけられることを迷惑がっていたことに気づいてか、彼は今日大使館にやってくることを連絡してこなかった。偶然ここで出くわさなかったら、栄に会うこともなく帰っていただろう。それだけの配慮を見せてくれた相手を引き留めることに申し訳なさはあるが、背に腹は代えられない。
「え? 一分って、栄さん」
栄の顔と上司の顔を見比べて、困惑した様子のジェレミーだが、上司は「どうぞ。じゃあロビーで待ってるわ」と言い残し先にエレベーターに乗ってしまった。
「あの、栄さん?」
「いいからちょっと、来てくれ」
そのままジェレミーの腕を引っ張って、空いている会議室に連れ込む。そして栄は彼に背を向けると自らのシャツの襟をぐいと押し下げた。
「見て。あれ、消えてるか?」
早口でまくしたてるように問う。
「あれって……」
「あれだよ。この間ジムで君が見つけた!」
急に薄暗い会議室に連れ込まれて明らかに狼狽しているジェレミーだが、栄は構わず口調を強くした。
さっき頭に浮かんだ「あと一週間あれば」という考え。羽多野が今週末のセックスを約束させた根拠は「首筋のキスマークがその頃には消えているだろうから」というもの。つまり栄の首筋にあの薄赤い印が残ったままなら、少なくとも数日は猶予が生まれるのではないか。根本的な解決からはほど遠い考えだが、少なくとも目の前の問題から逃げることができるのは追い詰められた栄にとって魅力的だ。
ジェレミーはすでに栄の首筋のキスマークのことを知っているから、いまさら気まずいも何もない。自分で見ることのできないうなじを確認してもらうには適任だった。
だが、淡い期待はあっけなく裏切られる。ジェレミーはじっと栄の首に目を凝らして残酷な返事をする。
「消えていますよ、完全に」
「……そう」
栄は落胆した、と同時に正気に戻る。自分がどれほど馬鹿馬鹿しいことをジェレミーに頼んだかに気づいて恥ずかしさにいたたまれなくなる。
「ごめん、引き留めた上に変なことを頼んで。何でもない、もう行ってくれ。さっきの上司の女性も下で待ってるだろう」
だがジェレミーは立ち去ろうとしない。むしろ心配そうに栄を見つめる。
「栄さん、どうかしたんですか? なんだか様子が普段と違いますよ」
この間はあんなに見られることを嫌がっていた――いや、そもそもキスマークをつけられたことに嫌悪感をむき出しにしていた栄が、今度は自ら首筋を確かめさせた。しかも跡が消えていたことに落胆しているのだから、妙に思うのは当然だ。
栄はシャツの襟首を整えながら、そっけなく答える。
「いや、本当に何でもない。ただ、プライベートでちょっとした問題が」
「プライベートって、それは」
それが栄と「恋人」の話だということに、ジェレミーも気づいたようだった。彼は胸ポケットからスマートフォンを取り出して、電話をかける。
「すみません、ちょっとこの間のレポートの件で話をしていて。もう少しだけ時間がかかりそうなんです」
相手は上司。先に帰ってもらうことにしたらしい。
電話を切って、ジェレミーは栄を見た。憧れと尊敬が入り交じった視線とは違う、親しみと気やすさが混じったまなざしだった。
「栄さん、困っていることがあるなら、話を聞きますよ」
今度は栄がうろたえる番だ。
いくらなんでも今抱えている悩みを他人に話すのは難しい。栄の中でも恥部中の恥部なのだ。だが、いくら奥手とはいえジェレミーは栄よりは経験が豊富かもしれない。なんせ栄はこれまでに経験人数は二人、しかも「受け身」で交わった相手といえば羽多野ひとりなのだから。
経験者であれば、もしかしたら何か役に立つ情報を――。
追い詰められた栄の心は揺れた。