気分転換するつもりでオフィスを出たのに、自席に戻った栄はさっき以上に落ち込んでいた。
いくら追い詰められた状況にあるとはいえ、性生活の問題を他人に明かしてしまうなんて、どうかしていたとしか思えない。次にジェレミーに会ったとき、どんな顔をすればいいのだろう。
二度と会わない、という選択肢はある。そうだ、羽多野だって栄がジェレミーと会うことを嫌がっていたのだから、いい機会かもしれない。あのジムも退会しよう。職場と家の間のちょうど良い場所にあるから便利ではあったが、フィットネスジムなど他にもいくらでもある。
最初は控えめに切り出したのだ。恋人との間でちょっと問題が生じている、と。しかし栄がキスマークに固執していた様子から、ジェレミーは「問題」がセックスに関係するものだと察した。
穏やかで聞き上手な彼に促されて栄は、極力生々しい表現は控えつつも、自分が羽多野とのセックスで求められた行為を上手くやれなかったと告白した。せめてものプライドで抱かれる側であることは明言しなかったし、ごまかしきれたつもりだ。
「つまり、栄さんはフェラチオが苦手だと」
清楚そうな顔をして、ジェレミーの言葉はストレートだ。
「……嘔吐反射が強い方で」
いたたまれない栄は、何の意味もなさない言い訳を付け加えた。潔癖ぎみだから――、男のモノをくわえるのは自尊心が傷つけられる気がするから――、本当はいくつもの理由が複雑に絡まり合っている。しかし、鷹揚とした人物を気取っている手前、神経質な姿を知られたくないという意地が勝つ。
「無理して喉まで加えようとしなくたって、舌で舐めたり、先を吸ったりするだけでも喜ばれますよ。手も使えば物足りないってことはないでしょうし。相手からしてもらうことはあるんでしょう?」
淡々と、それこそビジネスレポートの話をしているときのように平然としたジェレミーの顔や口調からは、一切の照れもからかいも感じられなかった。だからつい栄も口をすべらせる。
「た、たまには」
本当はほぼ毎回だし、口に出そうが他の場所に出そうが羽多野は栄の精液を一滴も漏らさず舐めすすり飲み下す。もちろんそんなこと、言えない。
「男って単純なんで、自分がされて気持ちいいことを相手にしてしまうものなんですよ。されてるときのこと思い出して、真似できそうなことから少しずつやっていけばすぐに慣れますよ。最初から喉まで入れる必要ないですよ」
「ジェレミー……」
こんなにすらすらとアドバイスが出てくるということは、やはりジェレミーはそれなりに手練れなのだろうか。少し前まで彼に抱いていた夢や理想ががらがらと崩れる寂しさと、経験者からの実践的なアドバイスをもらえたありがたさ、栄は複雑な気分だった。
喉奥まで入れなくたって構わない、というのはそれなりに有益な情報だ。ちょっと唇をつけるだけ――いや、前回はそれすらできなかったではないか。栄は書類を読んでいるふりをして、悶々と思い悩む。
日本にいた頃の自分は、もっと真面目だった。業務量が多く余裕がなかったせいもあるが、基本的に職場にいるときは仕事以外のことは頭の片隅にもなかった。なのにこちらにきてから、とりわけ羽多野と暮らすようになってからというもの、オフィスでもあの男のことを思い出しては気を散らしてばかりだ。
先端を吸うだけ。側面を舐めるだけ。ジェレミーの言葉を頭の中で反芻するうちに、羽多野の勃起したペニスのことを思い出す。たくましい大きさ、硬さ。生々しい想像に、腹の下の方がずくんとうずく。
やばい、これ以上想像を膨らませようものならオフィスで昂りかねない。栄は再び立ち上がり、今度は顔を洗うためにトイレへ向かった。
定時が近づき、いよいよプレッシャーが大きくなってきたところで、スマートフォンが震える。羽多野だろうかと緊張して画面を開くと、ジェレミーからのメッセージだった。
――ちょっと渡したいものがあるんですけど、夕方会えますか?
栄はすぐに、それは難しいと返事をする。
今日は早く帰ってこいと羽多野からは暗にプレッシャーをかけられている。よりによってこんな日に、ジェレミーと会って帰りが遅れたことが羽多野にばれようものなら、とんでもないことになる。
だが、それに対する返事は栄の心を揺さぶった。
――栄さんの悩みを解決するのに役立つかもしれないものです。渡すだけなので時間はかかりません。
栄はたっぷり三分ほど、ジェレミーのメッセージを見つめながら悩んだ。一体何を渡そうとしているのかわからないし、自分のフェラチオに対する苦手意識がそう簡単に解消するとは思えない。だが、ジェレミーはそういった行為に慣れているようだし、もしかしたらという期待も捨てきれない。結局、仕事が終わった後ジムの近くで待ち合わせる約束をした。
物の受け渡しだけならば三十分もあれば十分すぎるだろうが、念のため羽多野には少しだけ残業をすることになりそうだとメッセージを打った。それに対する羽多野の返事は「早く帰って待ってる」。今朝と同様、遠回しにプレッシャーをかけてくる言葉に胃が痛んだ。
「栄さん!」
待ち合わせ場所に到着すると、すでにジェレミーは店内にいた。栄の姿を見るなり笑顔で右手を上げる姿は妙に楽しそうに見えた。
ジムから歩いて数分の距離にあるカフェは、初めて訪れる店だった。ボタニカルショップとデリを兼ねていて、緑豊かな店内は広々として気持ち良い。こんな慌ただしい用事でなく、休日にのんびりとお茶を飲みながら読書でもしたくなるような店だ。裏通りにあるのでこれまで存在に気づかなかった。
「ジェレミー、今日はごめん」
昼間に恥ずかしい話をしてしまったこと。今待ち合わせた用件もその延長であることが気まずくて栄は彼の顔を正面から見ることができない。椅子に座るとすぐにメニューに視線を落とし、一番上に書かれているコーヒーを注文した。どうせ荷物を受け取って帰るだけだが、座席を占有する以上何も注文しないわけにもいかない。
「いいえ。栄さんにはずいぶんご迷惑をかけてしまったので、ちょっとでもお役に立てるなら嬉しいです」
「で、その……」
役に立つかもしれないものって……と、妙に気恥ずかしくて栄は声を潜める。
「ああ、これです。どうぞ」
ジェレミーはビジネスバッグの中からビニールのバッグを取り出すと無造作に差し出してきた。栄は手を伸ばして受け取る。
どこかで買ってきたのだろうが、ショップロゴなど入っていない袋は真っ黒く、外からは中身が伺えない。とりあえずビニール越しにも、水筒ほどの大きさの箱が入っていることはわかる。
深く考えず中身を取り出そうとしたところで、ジェレミーに制止された。
「ここでは取り出さないで、中を覗く程度にしてください。日本語がわかる人が周囲にいる人は少ないでしょうから話をする分にはあまり問題ないと思いますが、物をみたら話の内容がばれてしまいますから」
「あ、ああ」
そこで、自分の警戒心のなさを思い知る。と同時に黒い袋の重みがずしりとました気がした。そうだ、深く考えずに来てしまったが「あの行為」の克服に役立つグッズというのはもしかして、いかがわしいものなのではないか。
そっと袋の中に目を滑らせる。ローションのようなボトルと、小さめの箱は多分、避妊具。そして「水筒ほどの大きさの箱」の正体は――。
「ジェ、ジェレミー……これっ……これは」
栄は赤面して袋の口を閉じる。おしゃれなカフェのテーブルでこんなものをやりとりしていることが気づかれてはいないか不安になって、思わず周囲をきょろきょろと確かめた。もちろん誰もこちらをみてはいない。
「はい、水泳と一緒で、練習が一番ですから。私が練習相手になれればいいんですが、栄さんは真面目だからそういうの嫌でしょうし。だから〈モック〉を使うのが一番だと思って買ってきました」
さらりととんでもないことを言われた気がするが、冗談に付き合っている心の余裕はない。頭の中はそんなことより、今目にしたものでいっぱいだ。心臓がどきどきして冷や汗まで浮かんでくる。
箱のパッケージにはでかでかと男根を模した大人のおもちゃの写真が載っていた。ディルド、いや、バイブレーター? そこまでは確かめてないし、栄は違いもよくわかっていない。道具を使うのはノーマルではないプレイだと思ってきたし、自分が手にするところを想像したこともない。何しろアダルトショップにもラブホテルにも足を踏み入れたことはないし、通信販売業者に個人情報をあずけてアダルトグッズを買うなんて論外だ。
「モックって、そんな……」
声を潜める栄に、ジェレミーは相変わらずニコニコと満足げだ。
「大きさとか形とか、実物に近いもので練習すれば慣れるでしょう? それ、私も前の恋人と同じもの使ったことあるんですけど、電池入れたら温かくなるんで、かなりリアルですよ。あとは、動画でも見ながら真似してみてください」
夢のような特効薬があるなどと甘えたことを考えていたわけではないが、栄はがっくりきた。これではバスルームで〈ちょうどいいサイズ〉のボトルに唇を寄せようとしたのと変わらない。いや、実践に近いぶん、より悪い。グロテスクなおもちゃ相手に自室で練習する惨めさを想像すると気が滅入った。
「ありがとうジェレミー、気持ちは嬉しいけどこれは受け取れないよ」
こんな下品なものを隠し持つなんてプライドが許さない、という本音はオブラートに包んでプレゼントを返そうとしたところで、背後から若い女の声が飛び込んでくる。
「ほら、ここです。裏路地だから隠れ家カフェとしても使えるんです。素敵でしょう?」
女の声ごときに普段なら気を留めもしない。思わず振り返ってしまったのは、この辺りで耳にするのは珍しい日本語だったからで――振り返った栄が硬直したのは――その女と一緒にいるのが羽多野だったからだ。