32.栄

 他人の空似だったらどれほど良かったかわからない。

 だが、視界にいるのはどこからどう見ても羽多野だし、肩が触れ合うほどの距離には若い女が寄り添っている。きれいに手入れされた長い黒髪にオリエンタルなメイク。羽多野の元妻である高木リラとはタイプが違う、いかにも「欧米デビュー」した風なあざとい大和撫子風ではあるが、それなりに美人だ。

「本当だ、良さそうな店だな。で、前に食べて美味かったってのはどれだ?」

「あれ、あの鴨スモークとクレソンのサラダ。あ、あとあっちのムサカは挽肉の代わりに大豆ミートと雑穀使っててヘルシーなんだけど、全然ビーガンフードだとは思えないくらい美味しくて……」

 栄とジェレミーのいるカフェエリアと、羽多野と女がいるデリカテッセンエリアには少し距離がある。背の高い観葉植物にさえぎられていることもあり、向こうはこちらに気付いていないようだ。

「栄さん……どうかしました?」

 突然背後を見て固まった栄を奇妙に思ったのか、ジェレミーが声をかけてくる。

「い、いや。何でもない」

 栄は再びテーブルに向き直った。きょとんとした顔のジェレミーもまた、デリエリアに立つ日本人カップルの存在には気付いていないようだ。

 栄は苛立った。とんでもなく苛立っているのを自覚して、それを少しでも鎮めようとグラスを手にして一気に水をあおった。

 長尾と飲みに行くなとか、ジムのプールで泳ぐのをやめろとか、人にはさんざんうるさいことを言っておきながら、自分は女と仲良く買い物とは一体どういう了見だ。しかもさっき「少し残業する」とメッセージを送った栄に、羽多野は「先に帰って待ってる」と返事をしたではないか。それがなぜこんな場所に?

 もしかして、栄の帰宅が遅れることに怒っているのだろうか。怒って、今夜の約束のことはどうでもよくなって女と出かけることにしたのだろうか。

 とにかく今ここで羽多野に声をかけるのは良策ではない。恋人ぶって声をかけて人前でゲイの痴話喧嘩を繰り広げるなんて、いくらここが異国の地であろうとありえないことだ。それにこっちだって――いくら〈正当な目的〉があるにしても、ジェレミーと一緒にいることは知られたくない。

 でも、放っておいて羽多野がもし今夜帰ってこなかったらどうする? 帰ってきたとしても、ストレートに「女と出かけていたか」と聞く勇気が自分にあるだろうか。聞いたところでもし嘘をつかれたら……。

 とりあえず今はジェレミーどころではない。一度ここから離れて、心を落ち着けて、それから先のことを考えよう。

「ごめん、さっきも言ったけど、今日は急いでるから」

「え、ええ」

 慌ただしく荷物と伝票を手にして立ち上がる栄を、ジェレミーは呆気にとられたように見送った。

 

 仲睦まじい男女の会話など聞きたくないのに、距離があるにも関わらず母国語の会話は途切れ途切れながら栄の耳に届いてくる。英語だってこのくらい簡単に聞き取れればいいのに、なぜ聞きたくないことばかり聞こえてしまうのか。

 小銭を数えるのも面倒でカードで支払いを済ませて、栄は一刻も早くこの場から逃げ出そうとした。逃げ出すつもりだった。

 甘ったるく羽多野の名前を呼ぶ、女の声を聞くまでは。

「俺が払うから、何でも好きなの選べ」と、たかがデリの惣菜程度で格好つけたことを言う羽多野に答えて、彼女は確かに言ったのだ。

「本当? タカって気前いい! じゃあお言葉に甘えて……」

 そんな呼び方、栄だってしたことはない。

 ぷちり、と頭の中で何かが切れる音がした。何か、ではなく堪忍袋の緒。この音を聞くのは人生で二度目だ。最初は忘れもしない、寒い冬の夜に電信柱の影で長いこと張り込んで、とうとう尚人がラブホテルから出てくる現場をおさえたとき――。

 栄はくるりときびすを返すと、大きなストライドでつかつかとデリカテッセンエリアに踏み込んだ。ガラスケースを覗き込んで色とりどりの惣菜を品定めする女と、その姿を背後から微笑ましそうに見つめる年上の男。どこからどう見てもお似合いのカップルで、だからこそ耐えられなかった。

 天然木の床に、革靴につけたトゥスチールが当たってコツコツと音がする。まっすぐ近づいてくる足音に気づいたのか羽多野がふっと顔をこちらに向けて――驚いたように目を見開いた。

「……」

 羽多野が言葉を発する前に、栄は震えを抑えるように太ももの横でぐっと拳を握りしめて、精一杯の笑顔を浮かべて口を開く。

「こんにちは、羽多野さん。こんなところで会うなんて偶然ですね」

 この上なく他人行儀な言葉。自分と羽多野以外は誰も、これが同棲中の恋人から恋人に向けられた強烈な嫌味であることなど気づかないだろう。

 惣菜の注文を終えた女もこちらを振り向き、栄の顔を見てから「誰?」と言いたげな表情で羽多野へと視線を動かした。

「谷口くん……」

 あからさまにバツの悪そうな顔で羽多野は栄を呼ぶ。ぎゅっと心臓を握られているような気分で、しかし動揺を顔に出してはいけない。

「確かお勤め先はカナリーワーフでしたよね? 今日はこちらにご用でも? それともお住まいがこの辺りなんですか?」

 栄の冷たい笑顔と女の興味津々のまなざしに挟まれて、羽多野は気まずそうに胸ポケットからクレジットカードを取り出すと女に手渡した。

「注文が終わったなら、まとめてこれで払ってくれ」

「はい……」

 カードを受け取った女はこちらを気にしつつも、カウンターで支払いを待っている店員に向き直った。

 羽多野は一歩踏み出し、栄は一歩後ずさる。これ以上距離を詰められると〈仕事上の知り合い〉にしては不自然だ。

「おい、どういうつもりだ」

 羽多野は女が店員との会話に集中していることを確認してから声を潜める。

 それはこっちの台詞だ――と喉元まで出かかるが、その手には乗るものか。栄はそしらぬ顔で他人の振りを続けた。

「お連れの方、素敵じゃないですか」

 なぜあからさまに動揺するのか。後ろめたいからではないのか。少なくとも平静を装うことのできている自分と、みっともなくうろたえている羽多野。こっちが優位に立っているはずなのに、不思議なくらい気分が悪い。

「ふざけるのもいい加減に――」

 押し殺した低い声で羽多野が栄を睨むから、怒りが倍増した。もう手加減などしない。支払いを終えた女が両手に紙袋を受け取って振り向いた瞬間、彼女にも聞こえるように栄は大きめの、不必要に明るい声を出す。

「うらやましいですよ。恋人がいるのにこんなきれいな女性ともデートだなんて」

 その言葉に、羽多野は大きく肩を上下させてため息を吐いた。睨みつけてきていたはずの視線は脱力している。

「馬鹿か、君は」

「馬鹿って、どういう……」

 ストレートな罵倒の言葉に込められた意味を確かめようとしたところで邪魔が入った。たった今強烈なジャブを見舞ってやったはずの女が両目をきらきらさせて、栄に向かって身を乗り出してきたのだ。その視線は抜け目なく栄の左手薬指を確かめることも忘れない。

「もしかして、きれいって私のことですか? 嬉しい!」

「えっ?」

 今度は栄がうろたえる番だ。

 栄の見立てでは、この女は羽多野の浮気相手または浮気相手候補、最低でも羽多野に手を出そうと狙っている泥棒猫。羽多野に他に恋人がいることをにおわせれば顔色を変えるはずだった。いや、確かに顔色は変わった。栄が予想した「蒼白」ではなく期待と喜びの色へと――。

 そして、女は羽多野の手に紙袋ひとつを押し付けながら、うきうきした顔でささやきかけた。

「ねえ、こちらのイケメンどなたですか? ロンドンに住んでる方なんですよね? 紹介してくださいよ」

 いかにも「面倒なことになった」と言わんばかりに羽多野がまたひとつ大きなため息を吐く。そして何かをあきらめたかのように切り出した。

「……谷口くん、こちらはうちの会社でインターンをやってる神野小巻さん。神野さん、彼は俺の……友人で、在英の日本大使館に勤務している谷口栄くん。ずっとロンドンに住み続けるわけじゃなく任期は三年で、満了後は確実に日本に戻る人だ」

 羽多野がなぜ栄の任期まで、しかもそこだけをやたらと強調して話すのか一瞬わからなかった。だが、続く神野小巻の言葉を耳にして、栄はしばらく前に羽多野から愚痴まじりに聞かされた内容を思い出す。

「でも、大使館勤務なんて素敵! だって、外交官でしょう?」

 そうだ――確かこいつはアルバイトの女に夫を寝取られた社長令嬢で、元夫やら周囲の人間やらを見返すために海外生活もしくはエリートとの再婚を夢見ている女。

「いえ、外交官ではなくて私は産業開発省からの派遣で……」

「ええっ、でも官僚なんですよね!」

「はあ、まあ……」

 消火器を最大威力で噴射されたかのように瞬時に戦闘意欲を失う栄に「ほら見たことか」と言わんばかりの視線をよこしてから、羽多野は神野に向かって首を振って見せる。

「駄目だ、そういう意味での紹介はできない。谷口くんに迷惑をかけるな」

「ずるーい。自分は仲睦まじい彼女がいるんだから、ちょっとくらいこっちの幸せの手伝いしてくれたっていいじゃないですか」

「手伝いなら、月曜にいくらだって応募書類チェックと模擬面接に付き合ってやるから」

 もしかしたら自分はとんでもない早とちりをして、よりによって羽多野を前にとんでもなく恥ずかしい茶番を繰り広げてしまったのではないか。がっくりと肩を落とす栄に追い討ちをかけるように、タイミング悪く背後からジェレミーの声が響いてくる。

「あれ? 急いで帰るって言ってたのに、どうしたんですか栄さん?」

 羽多野の視線が栄の肩越しに、ジェレミーの姿をとらえた。

 ――最悪だ。

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