33.栄

 羽多野は栄を見て、ジェレミーを見て、また栄を見た。そして口の端をあげて愉快そうに微笑んだ。だが栄にはわかる、その笑みの裏側には、不快感と優越感の入り混じったなんとも恐ろしい感情が潜んでいることが。

「そういえば、谷口くんこそ?」

 形勢逆転。

 浮気もしくは浮気未遂現場を押さえてやったといい気になったところが、とんだ勘違いだった。それどころか大使館で残業をしているはずの栄がこんなところで、よりによってジェレミーと一緒にいたこともばれてしまうなんて。

「いや。それには事情が……」

 何か気の利いた言い訳を紡ぎだそうと全力で頭を回転させるも、ここにはあまりにもノイズが多すぎる。

「あら、そちらの方は?」

 栄を紹介することはできないと羽多野に釘を刺されて不満げだった神野の目に再び光が灯る。この女、本当に英国人もしくは人に自慢できそうなエリートであれば見境ないようだ。苦々しく思うが、もちろんそんな気持ちを態度に出す栄ではなかった。

「栄さん、お友達ですか?」

 ジェレミーはまだ、この男こそ例のキスマークの犯人であることに気付いていない。女を連れていることがいい目くらましになっているようだ。この気に食わない女も役に立つところがあるではないか。だったらいっそ彼女の存在を利用して――という思惑はしかし次の瞬間には羽多野によって打ち砕かれる。

「はじめまして、私は谷口くんの親しい友人で羽多野といいます。……もしかしてジムで知り合った日本通の知り合いって、あなたですか?」

 あえて付け加える「親しい」という形容詞。おまえの存在はすでに栄から聞かされているのだという遠回しな余裕アピール。

 もしもここにひと目がなければ、栄は羽多野のすねを蹴り飛ばしていたことだろう。いい年して何をみっともない牽制をしているんだ。もちろんその言葉はさっきの自分の行動にも当てはまるが、都合の悪いことは意識の外に追いやる。

 すっと、ジェレミーが目の動きだけで栄に微かなサインを送ってきた。それだけで彼が、羽多野の恥ずかしい宣戦布告を受信してしまったことが理解できる。つまりジェレミーは羽多野が何者かを知ってしまった。栄が切羽詰まった様子で相談した「フェラチオをしてやれずセックスに問題が生じている相手」であることまで含めて。

「こんにちは、私も、お噂はかねがね」

 ジェレミーはそう言って握手に応じた。「お噂」がなんであるのかについては疑念がなくもないが、彼が羽多野と栄の関係を知っており、敵意もなければ邪魔をする意図もないことをにおわせようとしているのだと信じたい。だって羽多野のような品性下劣な男と違ってジェレミーは善人だ。

 二人の男が握手して、手を離す。

 落ち着かず、この場から離れたくてしかたない栄は、ぞんざいにジェレミーと羽多野にお互いを紹介すると、わざとらしく腕時計をに目をやった。

「じゃあ、俺は今日はちょっと急いでいるので。ここで失礼します」

 羽多野とジェレミーの目が同時に栄に注目する。

 余計なことは言うな。言わないでくれ。日本語のやりとりを理解しないであろう周囲の英国人たちはこの際どうだっていいが、この場には神野小巻もいる。彼女を牽制したい気持ちもあるが、自分が同性愛者であることを日本人相手に知られるのは耐えがたい。

 他人行儀を貫く様子には戸惑いつつ、しかし羽多野もジェレミーも栄を止めなかった。それをいいことに店外に出ると、気詰まりな空間から解放された安堵から栄はひとつ深呼吸をした。

 残念だ。せっかくいい店なのに、こんな思い出ができてしまうと二度と利用しようという気にはなれない。ちらりと店を振り返って、歩き出そうとしたところで声をかけられる。

「あのう……」

 振り返るとそこにはインターン女こと神野小巻がいた。顔も見たくない口もききたくない相手なのに、栄の顔には反射的に柔和で紳士的な笑顔が浮かぶ。

「どうかしましたか?」

 いけない。こんな顔で、こんな優しげな態度で相手をしようものなら期待を持たせてしまう。羽多野に興味を持たれるのも困るが、栄に言い寄ってこられたって迷惑この上ないのに。わかっているのに身についた習性とは恐ろしい。

 神野ははにかんだ笑顔を浮かべ、もじもじと少しためらってから切り出した。

「あの、良かったら今度飲み会しませんか?」

 やっぱり、この女は栄に狙いを定めたのだ。どうしよう、恋人がいると告げるか、もっと辛辣な言葉でわざと嫌われるように仕向けるか。そんなことをぐるぐると考えながらも、口から出てくるのはあまりに曖昧な断り文句。

「いや。私はそういうのはちょっと……」

 はっきり断らない栄に、押せば勝算ありと踏んだのか、神野は思い切ったように続ける。

「初対面でこんなお願い失礼だってわかってるんですけど……あの、さっき一緒だった英国人のお友達。彼って今付き合ってる人とかいるんですか!?」

「えっ? ジェレミー?」

 どうやらエリート官僚の魅力は、国際結婚への希望に劣るらしい。どこまでも図々しく、どこまでもたくましい神野の前に栄は完全に脱力してしまった。

 

 神野小巻を振り切って歩き出す頃には、栄は強い疲労を感じていた。

 通り過ぎるダブルデッカーを見てバスに乗ろうかと迷うが、どうせ家まではたいした距離ではない。歩けば気分転換になるかもしれないと思い直した。

 だが、やがて後ろから小走りの足音が近づいてくる。

「おい」

 羽多野の声。

 栄が他人行儀に立ち去った意味を察してか、ある程度時間をおいて追いかけてきたようだ。息がほとんど乱れていないのはさすが日々ランニングで鍛えているだけのことはある。

 だが栄は振り返らず、むしろ歩くスピードを早めた。だって、どんな顔をすればいいのかわからない。

「おいってば」

 肩を引かれて、仕方なしに栄は足を止めて後ろを振り向く。と同時にさっと視線を周囲に走らせるが、神野もジェレミーもついてきている様子はなかった。

「心配するな。普通に話して、別れてきた。店の外で君と落ち合うなんて言ってない」

「別に……そんなこと気にしてません」

 あからさまな嘘で応じながら、立ち止まったのだからいいだろうと言わんばかりに肩から羽多野の手を外す。

 気まずい。何か言わなければいけないけど、何を言えばいいんだろう。どうすれば劣勢を覆せるだろう。混乱した頭に浮かぶのはわかりやすい中傷の相手――つまり、神野小巻の顔だった。

「あの女」と栄は切り出し、続ける。

「……思った以上の馬鹿女でびっくりしましたよ。俺に色目をつかったかと思えば、ジェレミーを紹介して欲しいだなんて。本当に国際結婚で頭がいっぱいなんですね。羽多野さんの会社ももうちょっとインターン採用の基準考え直した方がいいんじゃないですか? あれじゃ会社のことも婚活パーティ会場かなにかと勘違いしてそうですよね」

 羽多野の表情が変わったことで、栄は自分が失言したことに気づいた。

 神野小巻や羽多野の勤め先を悪く言ったこと自体はきっと、さしたる問題ではない。まずかったのは思わずジェレミーの名前を出したこと。

「へえ、だったら紹介してやればいいのに。あのジェレミーって奴、君の言う通り、派手さはないが素朴で誠実そうな男じゃないか。少なくとも見た感じだけは」

 言葉にはたっぷりの棘。しかも、当たっているから悔しい。ジェレミーが悪人だとは思わないが、栄が最初に感じたよりはずっと世慣れているし、ある種の計算高さも備えている。

 羽多野の言い分はわからなくもなかった。羽多野に近づく神野の存在、栄に近づくジェレミーの存在がここのところの喧嘩の原因であるのだから、あのふたりがくっついてしまえばすべての面倒は一気に解決する。だが、それには超えられない大きなハードルがあって――。

「無理ですよ、ジェレミーは女は。……あっ」

 軽率に口にして今度こそ心底後悔した。

 栄は、ジェレミーが〈お仲間〉であることを羽多野には話していない。というか話すつもりはなかった。ジェレミーが異性愛者であるという前提だから、栄が彼を尚人と重ねたりアイドル視したりすることにも、ジムで交流を深めることにも後ろめたさはないのだと主張してきたからだ。

「えっと、だからこれにはいろいろと事情があって……」

 真っ白な頭で、それでもどうにか逃げ道を探そうとする栄の肩に、羽多野が再び手を置いた。いや、置いたなどという穏やかな表現は正しくない。ぎゅっと力を入れて逃さないとばかりに肩を掴み、そして言った。

「じゃあ、その事情とやらをゆっくり聞かせてもらおうか。家に帰ってふたりきりになってから、たっぷりと」

 その目はまったく笑っていない。