34.羽多野

 万事において往生際の悪い栄だが、さすがに逃げ出すようなことはせず、苦虫を噛みつぶしたような顔をして羽多野についてきた。せっかくの美男子が台なしだとからかってやろうと思ったところで、他人の目がないところでの栄などそもそも機嫌の良さそうな顔をしている方が少ないことに気づいた。

 栄が不機嫌そうなのはともかく、羽多野も複雑な心境だ。

 夕食を買うためだけに寄ったデリカテッセンに栄が突然現れて、やたらと好戦的な言葉を投げかけてきた。バツが悪い気分になったのは、栄が神野小巻の存在を良く思っていないことを知っているからだ。いくら色恋の感情は皆無だとはいえ、職場以外で彼女と二人きりになっている場面を押さえられたのは正直失策だった。

 羽多野に結婚歴があり、結婚が破綻して自棄になるまでは女しか抱いたことのないストレートだったこと――栄がそれを気にしていることなどわかっている。自信家かつナルシストである一方で、同じくらい気が小さく心配性な男だ。何かのきっかけに羽多野がまた女に惹かれるのではないか、きっと彼は常にそんな疑いをくすぶらせているのだろう。

 栄から万全の信頼を寄せられているわけではないという事実はちくちくと羽多野を苛む棘であると同時に、二人の関係に常に小さな刺激を与え続けるスパイスでもある。それに、いくら安心させるような言葉をささやいたところで栄の不安が消えるはずもない。だったらあえて話題に出さないのが一番平和な手段であるように思えた。

 羽多野が女と親しげにしている場面を目の当たりにすれば、栄は動揺し傷つくだろう。その程度は覚悟していたが、あんな露骨な口撃を仕掛けてくるのは予想外だった。

 ――うらやましいですよ。恋人がいるのにこんなきれいな女性ともデートだなんて。

 普段はほとんど口にしない「恋人」という単語を聞くことができたのは嬉しい誤算。神野が栄を紹介してくれと言い出したのにも驚いたが、おかげで羽多野の浮気疑惑が瞬時に晴れた。

 と、ここまでならば結果オーライで、待ちに待った「週末の約束」を盛り上げる甘い要素になったに違いない。

 問題はその先だ。

 羽多野がここのところ抱いてきた不安は的中して、案の定、栄はジムで出会ったというあの英国人につけこまれている。

 栄さん、と柔らかい口調で名前を呼ぶ姿は奥ゆかしげで、確かに栄の元恋人にして理想である相良尚人と雰囲気が似ていないともいえない。どうせあの外見、あの物腰で「大使館勤務なんてすごい」とか「すごく泳ぐのが上手なんですね」とかうまいことおだてて栄に取り入ったのだろう。

 羽多野がいくら会うのをやめて欲しいと言ったところで、露骨に自尊心をくすぐってくる好みの相手を簡単には手放せない――もちろんそれが、いわゆる「浮気」を指すのではないことは理解しているつもりだが――であろうことは、栄の性格的に理解できる。

 問題は、栄がおだてに弱く、自分を持ち上げてくる人間の本質を見誤りがちだというところにある。もちろん羽多野だって栄のそんな部分につけこむことで、少しずつ彼の中に居場所を作っていったのだが、だからといって後続の侵入を許す気などさらさらない。

 

 見当違いの嫉妬でけんかを売ってしまったこと、そして残業だと嘘をついてジェレミーと会っていたことがばれてしまったこと。失態をふたつ重ねた栄はいたたまれない様子で店を出て行き、神野が後を追った。

 生粋のゲイである栄が神野に何を言われようとなびかないのはわかっている。羽多野は二人に続くのではなく、ジェレミーを観察することを選んだ。

「お噂はかねがね、って、どういう〈お噂〉を?」

 軽いジャブを打つと、ジェレミーは英語で応じる。

「すごく嫌がっていましたよ。首にあんな跡をつけるなんて信じられない、って」

 不慣れな日本語で話すときの素朴な雰囲気が一変した。栄の前ではあえて完璧でない日本語で通すのも、気を惹くための狡猾な手段だったのではないかとうがちたくなる。

「あんな跡? ああ、そういえば」

 羽多野が気まぐれに栄の首筋につけたキスマークを見つけたのはこの男だったか。それにしても栄の姿がなくなったとたんにあからさまに色事の話題を出してくるとは、この男、思った以上の曲者だ。

「彼は素直じゃない。口に出す言葉だけがすべてだと思ってるなら、君はまだまだ谷口くんの外側しか知らないってことだな」

「だからって、黙って跡をつけるなんて品の良い行為には見えませんね。気づいたのが私だったから良かったですが、栄さんが思わぬところで恥をかく可能性だってあった」

 羽多野はむっとする。確かにあれは勢いと焦燥にかられての行為で、上品とは言い難い。計算尽くでやったわけではないからこそ、咎められると不愉快な気分になった。それに第一、キスマークなんて羽多野と栄、二人の間の問題だ。なぜこんな奴に物申される必要がある。

「……ジェレミー君っていったっけ? 日本語で君みたいな奴にかける言葉を教えてやろうか」

 羽多野はもう敵意を隠さない。怪訝そうに眉をひそめるジェレミーに向かってひとこと、日本語で言い放った

「馬に蹴られろ」

 幸いここロンドンには、日本と比べても圧倒的に多くの馬がいる。蹴られて死ぬにも不足はないはずだ。

「うま……?」

 さすがに慣用句にまでは通じていないようで、羽多野の言葉の意味がわからない――とはいえ罵倒されたことだけは理解している様子のジェレミーが何か言い返そうとしたとき、がっかりした顔で神野小巻が戻ってきた。

「残念~。谷口さんに飲み会断られちゃいました」

 男同士の醜い争いがこれ以上泥沼化するのを防いだという意味では、今日の神野はいい働きをした。月曜には就職活動のサポートだけでなくコーヒーくらいはおごってやろうと心に決めて、羽多野は二人の邪魔者に別れを告げた。

 

 栄の足取りは家に近づくにつれて重くなり、エレベーターに乗り込む頃には聞こえよがしにため息を繰り返す。哀れぶって同情を引こうとしているのかもしれないが、羽多野にそんな小細工はきかない。

 羽多野は玄関の鍵を開けると栄を部屋に押し込み、後ろ手にドアを閉める。次の瞬間靴を脱ぐ間も与えずに栄の腕を引くと、体を壁に押しつけた。

「羽多野さん……っ」

 残業という嘘をついてジェレミーと会っていたことがばれたこと。羽多野がそれなりに怒っていること。帰宅後に「ゆっくり話を聞く」というのが言葉と言葉の応酬だけを意味するわけではないこと。栄はすべて理解していたはずだが、それでも玄関で突然自由を奪われることまでは想像していなかったのか、声は戸惑ったように震えた。

 ぞくりと背中を這い上がる寒気にも似た感覚。

 決して愉快な状況ではないはずなのに、上品に整った顔が羽多野を見つめ、みっともなく動揺している姿にはどうしようもなく興奮する。羽多野にしか見せない、羽多野にしか暴けない顔。ここ最近は優しくしようと心がけてきたが、甘やかすだけというのはやはり自分には似合わない。

「残業するんじゃなかったのか?」

 額と額がくっつくほどの距離に顔を寄せて、羽多野は低い声で尋問を開始する。圧迫感に耐えかねたように栄が何度も目をしばたかせ、そのたびに長いまつげが上下するのをやたらと官能的だと思った。

「……残業でした」

 しばしの沈黙の後で、栄は苦し紛れの言い訳を紡いだ。

「へえ、あんな雰囲気のいいカフェで、どう見ても君に気がある男と残業?」

「……資料を……マーケティング調査の資料について少し話を……」

 こんな嘘でだまされるような人間がどこにいるというのか。笑い飛ばす気にもなれないが、もしかしたら栄の周囲のお育ちの良い人々ならなんだって言葉のままに受け入れるのだろうか。だとしても羽多野はそういう面々とは違うし、上品を装うつもりなどない。

「へえ、どんなマーケティング調査? また資料をもらってきたのか? 見せてみろよ」

「そ、それは守秘義務が……」

 苦しい攻防――というよりは、なかなか負けを認めようとしない栄を追い詰めることに嗜虐的な楽しみすら見いだす羽多野の足下で、ごとりと鈍い音がする。

 思わず視線を落とすと、黒いビニールバッグが横倒しになっていた。栄が普段から使っているビジネスバッグの他にもうひとつ持っていた見慣れない袋。その中からころころと転がり出てきたのは……まずはラブローションの小瓶だった。袋の口から飛び出している箱には男性器を模したアダルトグッズの写真が印刷されているようで、ちょうど亀頭の部分だけがのぞいている。

「それは……っ!」

 栄の顔面が蒼白になり、劣勢ながらも抵抗しようとしていた体からぐったりと力が抜けるのがわかった。

 羽多野は腰をかがめてビニール袋とそこから出てきたものを拾い上げると、検分を開始する。

「舐めても平気なオーガニック・ラブローション。チョコレートフレーバーのコンドーム。温感機能つきディルド。……ふうん、ずいぶん変わったマーケティング資料だな」

 ひとつひとつ栄の鼻先までつきつけながら商品名を読み上げた。潔癖な栄がこんなもの自ら買い求めるはずはないのだから、入手先はあの男に間違いはない

「要らないって、返そうとしたんです」

 栄は弱々しく言った。

「なのに、急にあなたの声がして……しかもあの女と一緒にいるから、びっくりして思わずかばんと一緒に……」

 どうやら動揺しっぱなしの栄は今の今まで、自分がそれを持ち帰っていたことに気づいていなかったらしい。それにしたって、どう見ても自分を狙っているであろう相手からセックストイをもらうなんて理解に苦しむ。

「谷口くん、君は相変わらず単純なんだか複雑なんだかわからない思考回路をしてるよな。こんなもの一体どうして……」

「だって、羽多野さんが!」

「また俺のせいにするのか!?」

 栄がまるで逆ギレのように声を荒げ、羽多野も同じテンションで応じる。これではまた険悪な口喧嘩か、と思われたが続きを口にするにつれて栄は勢いをなくしていった。

「羽多野さんが、口でしろなんて言うから! やろうと努力はしたんですよ。でもどうしても抵抗があって……そうしたらあんな……」

 ジェレミーにいかがわしいおもちゃをもらった理由が羽多野とどう関係があるのか。しかも「口でしろなんて言うから」だって? そもそも何でもしてやると言い出したのは栄の方だし、羽多野も無理強いはしないまま、フェラチオを巡る話はひとまず終わったはずだった。

「それとこれとが、どういう関係があるんだよ」

 どうやら栄には栄の理屈があるらしい。ここに至って観念したのか、ぽつぽつと言葉を続ける。

「ジェレミーはそういうの慣れてるみたいだから、うまくやれるコツを知ってるんじゃないかって相談したんですよ。あなたがキスマークなんかつけるから、いろいろばれちゃってたから、もうやぶれかぶれな気分で」

「で……これを?」

 栄は小さくうなずいた。

「そういうので練習して、慣らせばできるようになるって」

 つまり栄は、前回のセックスの失敗の理由が、彼がフェラチオを拒否したことにあると認識し、それを克服することを至上命題だと考えていた。ジェレミーと会っていたのも、口淫の方法を教えてもらおうとしていたからだと言っているのだ。

 耳まで真っ赤にして、顔を見られるのが恥ずかしいのかうつむいて爪先を見つめながら恥辱に小さく震えている。とんでもなく愚かで、とんでもなく扇情的な恋人の姿を見ながら羽多野は改めてため息をついた。

「谷口くん、君って奴は」

 そして有無をいわさずあごを持ち上げると、噛み付くように口づけた。