突然のキスに戸惑い、その意味を警戒して強張った栄の体を羽多野は有無を言わさず抱きすくめる。緊張のせいか乾いている唇に、まずは上下まとめて噛みついてから潤いを与えるため舌で舐める。
噛み締めんばかりに力が入っていた唇が緩むのに続いて、おずおずと背中に手が回された。これも怒りの表現なのかと疑いながら、それでもキスに溺れれば羽多野の追求もおしまいになるのではないかと稚拙な計算をしているのかもしれない。
羽多野の怒りはまったく萎えていない。だが、栄の奇妙ではあるが正直な告白を聞いて、怒りの感情をどこに向ければ良いのかわからなくなった。だから、彼を問い詰めることよりもまずはこのもやもやとした、やるせない気持ちを晴らすことを優先させる。
「……っ」
滑り込ませた舌で、戸惑うように口の中で縮まっている栄の舌を捕まえ誘い出した。自分の口内に迎え入れたところで軽く噛んでやると、腕の中の体がびくりと震えた。軽い痛みは快感に直結する。そんな当たり前のことすら最初のうち栄は知らなかった。
クソがつくほど真面目で、仕事や勉学に関しては極めて優秀である一方で、栄の色恋への経験値は笑えるほど低い。過去に付き合った相手も、体の関係を持った相手もひとりだけ。しかも終盤はセックスレスで、挙句の果てに恋人はより若くてセックスの能力に長けているであろう相手に寝取られた。残酷なことを言うようだが、羽多野からすればそれは当然の帰結だ。おままごとの恋愛は、大人になれば必ず終わる。そういうものなのだ。
栄が抱く側に立ってやるセックスはきっとひどく淡白でつまらないに違いないと羽多野は確信していて、ことあるごとに羽多野はそれをネタに栄をからかってきた。
最初のうちは、他意はなかった。男同士のカップルはセックスには貪欲だという先入観を持っていた羽多野にとって、栄と相良尚人のカップルはあまりに異質だったから、単純な好奇心から詳細を聞き出そうとした。
本格的に栄への欲望を抱くようになってからは、彼のセックスへのコンプレックスを利用した。劣等感を煽って、人並みの経験がなければ今後の恋愛で恥をかくに違いないと遠回しに脅して、肌に触れる権利をもぎとった。それからは――。
舌への甘噛み。歯列の裏や口蓋への愛撫。一応舌を絡ませるポーズくらいはできたとはいえ最初のうち栄のキスはぎこちなく、羽多野はひとつずつ粘膜の敏感な場所を教えてやった。唾液を注ぎ込まれるたびに眉をひそめて耐え忍ぶ表情を見せていたことすら懐かしい。
セックスを許される関係になってからも、栄の潔癖や経験不足を指摘し続けたことにも計算があった。栄が自身のセックスが拙いものだと思っている限り、失敗を恐れて他の男に手を出したり出されたりはしないだろう。魅力的な男を自分の腕の中に閉じ込めておくためには、彼がいつまでも劣等感を持ち続けるのは好都合だった。
だが、どうやら羽多野はやりすぎたらしい。もしくは、羽多野が思っていたよりもっとずっと栄は真面目だった。そして、不幸なことに悪いタイミングでジェレミーが現れた。
深く長いキスに、栄が苦しそうに身をよじったところで一度羽多野は口を離す。
「ちょ……こんなところで……」
玄関先でのキスを咎める言葉。いや、栄が恐れているのは、ここでこのまま、どこまでするつもりなのかという点なのかもしれない。
小さなお仕置きをひとつ。唇に軽く噛み付いてから羽多野は言う。
「注文なんてつけられた立場か。あいつにセックスの悩みなんて打ち明けて、こんなもの受け取って」
床に転がった目障りな贈り物を蹴飛ばすと、それは鈍い音を立てて玄関ドアにぶつかった。その勢いでディルドの箱がビニール袋から完全に飛び出して、生々しい玩具の写真があらわになる。
「だから、返すつもりだったんです」
必死に訴える栄に、嗜虐心が再び湧き上がる。
「でも、これをくれるって言われて、俺に嘘をついてまでへらへら出向いていったんだろう。もしあいつが実技でレッスンしてくれるって言ったらついていったんじゃないのか」
「馬鹿にしないでください! ジェレミーはそんなんじゃなくて……」
キスで紅潮しかかっていた栄の顔が、今度は怒りの赤に染まる。
もちろん〈実技演習〉を申し出られたところで栄は断るだろう。断ってもらわないと困る。だがもしもジェレミーがもっとしつこくて、もっと巧妙な男だったならば?
「……下心が見え見えだ」
羽多野が呟くと、栄の瞳がゆらりと動いた。と同時に羽多野の背中に回した手をぎゅっと握りしめる。
数秒間の、沈黙。
続いての言葉は多少意外なものだった。
「確かに、ちょっとかわいいなとは思いましたよ。あなたといるといつもいいようにされてばかりだし……でも本気で彼をどうこうしようなんて思ったことはないです。誓って」
栄はどうやら「下心が見え見え」という言葉を彼自身に向けられたものだと勘違いしたようだ。この際正直にすべて話すと同時に、自分の潔白を主張しようと決めたらしい。
嘘はとことん下手な男だから、浮気心がなかったというのは本当のこと。ただ栄は一点だけ、ひどい勘違いをしているようだ。
「馬鹿だな。君は本当に自分のことも、自分に興味を持ってくる男のこともまったく理解してない」
「だから、馬鹿馬鹿ってそういうの……」
真実を告げるかどうかは、ほとんど迷わなかった。羽多野は今度は唇ではなく耳に口付けて、直接栄の耳孔に低い忠告を流し込んだ。
「馬鹿だよ。あいつがどうやって谷口くんを誘う気だったのかまでは知らないが、もしもベッドに入ったら最後、君が組み敷かれてたに決まってるのに」
そもそも欧米の男は抱く側も抱かれる側もどちらもこなすタイプが多い。その上でジェレミーはきっと栄を〈抱きたい〉という欲望を隠し持っていた。あの挑戦的な目つきや口のききかたから、羽多野は確信していた。
栄は羽多野の言葉にひどく動揺したようだった。
「は? そんなこと……あ、でも……」
やがて難しい表情をして、それからがっくりと羽多野の肩に頭を預ける。答え合わせはあまりに簡単だ。
「何か思い当たることでもあったか? まさか君もほんのちょっとくらい他の男を試してみようなんて思ってたんじゃないだろうな」
「してません。未遂すらないです。本当に俺は、ジェレミーのことは全然……」
それは真実なのだろう。栄がジェレミーといることで感じた心地よさはきっと恋愛とは異なるもの。ただ、あまりに隙を見せすぎて、そこにつけ込まれただけで。
完全に意気消沈している栄を、哀れにも思う。だが、ここで甘い顔をすれば栄はきっと同じことを繰り返すだろうという確信もあった。それに羽多野だって――。
「俺も、谷口くんのことをちょっと勘違いしてたかもしれない」
これこそが羽多野が怒りの矛先をどこにむければいいかわからなくなった理由だ。栄のコンプレックスを煽り倒して、そのくせ中途半端にも気を遣って「栄がその気がないときはやめておこう」とセックスを中断した。それがなおさら栄を不安にさせることにみじんも気づかなかったのは大きな誤算だ。
「たまには君のペースにあわせて、用心深く紳士的に振る舞おうだなんて考えたのが間違いだった」
何でもやってやる。
あんなことを言い出したのも栄なりに「セックスが下手な自分」を申し訳ないと思っていたからなのかもしれない。そこまで察してもっと彼にとって難易度の低いことをさせればよかったのに、うっかり真に受けて、栄が一番苦手とする行為を要求したのは失敗だった。
あんなタイミングじゃなくたって、フェラチオなんてもうちょっと先に、じっくりと羽多野のやり方で教えてやるつもりでいたのに。
「いつ、あなたが俺のペースに合わせました?」
「気づかなかったか?」
「全然。いつだってあなたは自分勝手ですよ」
勝手に反省をはじめた羽多野だが、栄はまったくついていけないといった様子で首をかしげる。彼にとってあの日の羽多野はいつもと同じように傍若無人に写っていたのだろう。そして、口での奉仕を断られたことによる中折れ――。
栄を壁に押し付けていた体を起こし、羽多野は靴を脱ぐ。玄関での行為はここまでだと理解したのか栄も続けて靴を脱いだ。その腕を引いて、向かう先はリビングでもベッドルームでもなく、バスルーム。
素直でない栄。意地っ張りな栄。羞恥心の強い栄。セックスの時も、快楽に没頭したい欲望と、理性を失ってはいけないという抑制の間でいつも揺れ動いている栄。
ただでさえ不安だらけの彼に紳士的な顔をして、選択肢を委ねたところで不安は増すばかりだ。キスだって挿入だって強引に教えてきて、自分たちはそれでうまくやってきた。だって、ベッドの上は羽多野のフィールドだと決めたのだから。
「本当に俺のやり方を通したらどうなるか、久しぶりに思い出してみるか?」
バスルームに入るなり、羽多野は栄のシャツのボタンに指をかける。
「ベッドの直行でも俺は構わないけど、谷口くんは嫌だろうから」
手早く脱がし、自身もさっと服を脱ぎ捨ててから羽多野は栄をバスタブに誘う。それから、自慰を我慢してきたただけあって普段よりずっしり重く感じる自らの性器を栄に握らせ、告げた。
「好きなだけ洗ってから、今日こそ口でやってもらおうか。あんなおもちゃで練習するより、俺が懇切丁寧に教えた方が上達が早いに決まってる」