36.羽多野

「え……?」

 ぎょっとしたように栄が顔を上げた。冷房が必要な季節、バスルームに裸で立っていたって寒いわけはないのに顔はわずかにあおざめたようだった。

「何を驚く必要がある? 第三者に相談するほど克服への意欲はあるんだろう? だったらちょうどいい機会じゃないか」

「いや、だから。それは」

 羽多野の突然の提案、そして触れている重みに戸惑うように栄は一度羽多野の性器から手を離し、後ずさる。とはいえふたりとも立っているのはバスタブの中だ。手が届かない距離まで逃げることは叶わない。

「か、覚悟ができないから困ってたわけで。だから、別に今日やりたいとかそういうのは。まだ、ちょっと」

 もごもごと言い訳をする可愛くて憎らしい唇をもう一度塞いでやるか迷い、今はやめておく。代わりに羽多野は困った様子の恋人の裸体を頭の先から爪先まで眺め回した。

 ひときわ引き締まったように見えるのは羽多野を避けて普段よりプールに行く回数を増やしていたからだと思うと多少複雑な気分ではあるが、久しぶりに見る一矢まとわぬ体は相変わらず美しい。

 胸、腹、腰すべて無駄な肉は見当たらず、薄くしなやかな筋肉が覆っている。ごてごてといかにも鍛えていますといった姿を好まないのは、いつも優雅に品良い姿を気取って努力を隠したがる彼らしい。数年前にストレスで激痩せして倒れた時期より多少は戻しているが、かつてより細身の姿を維持しているのは本人曰く「どうせ中年になると太りやすくなるんで」とバッファーを設けているつもりなのだという。

 確かに栄の好む細身のスーツはこういう体の方が似合う。ロンドンに来て以来好んでスリーピースを着るようになったので、なおさらだ。

「見惚れるな。うらやましくなるくらい、きれいな体だ」

 羽多野の言葉に、栄は恥ずかしそうに視線をそらした。

「だったら羽多野さんも泳げばいいんですよ。……まあ、あなたはそういうわざとらしい見え筋つけて満足するタイプなんでしょうけど」

 どちらかといえば着痩せするタイプの羽多野だが、栄と違って脱げば胸や腹のあたりには見栄えのする筋肉がついている。

「失礼だな。こっちは有酸素と無酸素でバランスいい運動を心がけてるつもりなんだけど」

 議員秘書で忙しくしているときも、時間を作ってジムには通っていた。秘書をやめてからは暇になったので、気分転換もかねて運動量は増えた。特に栄と付き合うようになってからは、十近くも若い恋人に年寄りと思われたくない気持ちもあって自分なりに努力をしているつもりだ。

「こういう体は嫌いか?」

 直接的な質問をぶつけられて、栄は困ったように眉をひそめる。

「別に、嫌いとまでは言ってませんけど……」

 こういうときの栄の言葉からは「けど」を削除して受け取るべきであることを、羽多野は知っている。

 栄だってこの体をまんざらでもないと思っているはずだ。確かめるように手を取ると自分の腹に触れさせる。

「けっこうちゃんと、頑張ってるつもりだけどな。ビール腹にも中年太りにも、程遠いだろ?」

「がんばってないとは言ってません。ただ、好きなもの食ってあれだけがばがば酒飲んでるのに、ちょっと割り切れない」

 食事や健康に気を遣う栄からすると、もともと燃費が悪く暴飲暴食の結果が体に出ない羽多野はうらやましく気に食わない存在でもあるようだ。うらみがましい言葉を口にするが、確かめるように羽多野の腹筋を撫でる手は裏腹に熱い。

 しばらく禁欲していたところに恋人の裸体。そして触れてくる手。それだけで羽多野の欲情には火が灯る。ぴくりと震えるペニスに気づいたのか栄は照れたように、咎めるように言った。

「……まだ、ちょっと腹を触っただけですよ」

「ここのところ、今日のためにと思ってオナニーも控えてたんだ」

 秘密を告白するようにわざとらしく声を潜めた羽多野に、栄は呆れたように息を吐いた。

「そういう、ガキみたいなこと言わないでください」

「ガキもなにも、本当のことだ」

 羽多野も手を伸ばして、そっと栄の裸の肩に触れる。そのまま手のひらをゆっくりと二の腕、前腕へと掌を滑らせて――さらに腰まで動かすと、栄もくすぐったそうに身をよじった。

 羽多野のものとは違ってまだ勃ちあがっていないペニス。キスをしているときには少し硬くなっている気がしたが、熱はいったんおさまったようだ。

 栄の性器の根本のあたりは薄く柔らかな陰毛に覆われている。そういえば、いたずら半分にここをつるつるに剃ってやったのはまだ冬の頃。調子にのっていやらしい下着を履かせて行為に及んだところ、セックス自体は盛り上がったが、王子はその後いたく機嫌を損ね、すぐに元どおりに毛を生やしてしまった。

「そうやって隠れてるのも奥ゆかしくていいけど、またそのうち剃りたいな。全部丸見えなのも色っぽくて俺は好きだ」

「それだけは絶対に嫌です」

 栄の顔が赤くなるのは、何を思い出しているのだろうか。まさしくこのバスルームで、羽多野に下半身を剃毛されているときのことなのか。それとも旅先のホテルでいやらしい下着をつけたままで揺さぶられているときのことなのか。

 少しずつ気分を高めるように、羽多野は栄の腰骨を何度も優しくさすってから手を股間に近づけ、まだ乾いてさらさらしている陰毛の中に指を入れる。剃りたてのつるんとした肌も懐かしいが、こうして陰毛をかき分ける感触や、毛を引っ張ったときに栄が見せる、痛みと快感の入り混じったような表情も実は嫌いではない。

 隠毛をまさぐりながら、誘うようにちらほらと陰茎の根本をくすぐる。栄がくっと息を飲み、羽多野の腹筋を撫でていた手が止まる。だが、敏感な恋人を可愛がるのは後からのお楽しみ。羽多野は愛撫の手をあっさりと止める。

 ――今日はまずは「教育的措置」からだ。

 軽く性感を高めてやったところで栄の手をとって、そこにボディソープをワンプッシュ乗せてやると、自らのペニスに再び導いた。ぬるりとした感触に羽多野のそこもドクンとわかりやすい反応を見せる。

「さあ、洗ってくれるんだろ?」

 まだ戸惑っている様子の手に自らの手のひらを重ねて、導くように何度か茎を擦ってみせた。だが栄はまだ動かない。羽多野は言葉でもうひと押しすることにした。

「それとも、洗わずこのまま咥えたいか? 俺はそれでも大歓迎だが」

「い、嫌に決まってる」

 栄はさっと顔色を変えた。もしかしたらいままでは「今日こそ口でやってもらおうか」という言葉が冗談なのではと疑っていたのかもしれない。

 真剣な顔で、羽多野が栄を見つめる。ようやく恋人の本気を理解した栄は、小さなため息を吐いた。羽多野が本気になっているときは、いくら泣き言や言い訳を重ねたところで逃げ場がないことを、彼はもう嫌というほど学んでいるはずなのだ。

「じゃあ、洗ってくれよ。俺が適当にやるより君が納得いくようにやったほうが、ましだろ?」

「……それは、まあ」

 咥えるのは確定事項。だったら少しでもましな選択は――不承不承といった様子で栄はぬるつく手で羽多野のペニスを撫ではじめた。

 最初は触れることすら嫌そうだったから、羽多野なりに遠慮して服や下着越しに擦り付けるだけにしていた。初めて栄を抱いたときに我慢できず直接触れさせると、嫌そうな様子ではあったが従ったし、その後回数を重ねるうちに羽多野のペニスを愛撫すること自体は栄にとっても普通の行為になった。口だって「慣れ」というのはジェレミーの言う通り。ただあんなおもちゃも、第三者のアドバイスもいらない。自分たちには自分たちのやり方がある。

 ぬるぬると生々しい快感に、禁欲を続けていた欲望は簡単に硬度をます。お上品で、そのくせ憎まれ口ばかり叩く可愛い口に突っ込む前に暴発してはまずいなと、羽多野は意識的に腹筋に力を入れた。

 幸いなことにボディソープはすぐにふわふわの泡になり、刺激は少し弱くなる。恋人の性器を洗うとなれば普通はもっと色っぽい、前戯の香りが濃厚になるところだが、栄は至って真剣に、陰茎から陰嚢、狭い範囲に短く整えた陰毛までぴかぴかに洗い上げようとしている。滑稽な光景であると同時に、その姿は健気で愛おしく思えた。