43.栄

 酒は一滴も飲んでいない。完全に素面の状態でベッドに入るのは二人にとっては珍しいことだ。

 今の栄は、いっそのこと前後不覚なほど酔っ払っていれば良かったのにと悔やまずにはいられなかった。いや――強烈な感覚が下半身から全身を貫けば、そんなことを考える余裕すらなくす。

「……っ、ああ」

 柔らかいような、締めつけるような。冷たいような、生温いような。体の中で一番といっていいほど敏感な場所を異様な感触に包み込まれて、思わず吐息まじりの声がこぼれる。

 決して見たいわけではないのだが、自分のそこがどうなっているか確かめずにはいられなくて、ちらりと視線を下に向ける。羽多野の手によりすでに昂ぶりかかっていた場所は完全に角度をつけていて、先端部分はプラスティック製のおもちゃに飲み込まれていた。

「待って、これ」

 こういうとき口からこぼれる「待って」が正確には何を意味するのか、自分でもよくわからない。意に沿わない行為だからやめてほしい。急な展開に心が付いていかないから、ちょっとペースを緩めて欲しい。でも心と裏腹に体は快楽に引きずられたがっている。いくつものバラバラな思考がすべてぐちゃぐちゃに混ざり合う。

「反応いいじゃないか。どう? この手のおもちゃ初めて使う気分は」

 羽多野は右手に握った筒をじりじりと動かす。ぬぷっといやらしい音を立てて、栄のペニスがさらにほんの数センチ深くおもちゃの中に沈み込んだ。

「あ……あ……」

 音だけではない。事前にたっぷりすぎるほど注ぎ込まれていたラブローションがこぼれ出て、ぽたぽたとシーツに染みを作る。すぐには奥まで挿入はさせない、すぐには激しく動かさない。目の前の男が栄を焦らそうとしているのは明らかだった。

「どうした、言葉も出ないほどか」

 その声に笑いが混じるのが悔しくて、栄は触れている裸の肩にぎゅっと爪を立てた。

 羽多野は、いまや栄のベッドでも我が物顔で王者のように振る舞っている。ベッドヘッドに背をもたれ、脚を伸ばして、まるで軽く一杯引っ掛けた後であるかのように機嫌良さそうだ。もちろん栄同様に素面なのだが、酒がなくとも恋人の痴態だけで羽多野を酔わせるには十分なのかもしれない。

「痛いな、爪はあんまり立てないでくれよ」

 羽多野は空いている方の左手で、栄の指先を肩から剥がそうとする。力を入れる場所を失った栄はぐらりと体勢を崩しそうになり、慌てた。

 両手を羽多野の肩に置き、彼の両脚をまたぐようにベッドに膝立ちする姿勢は実に不安定だ。手を離しても膝の力を緩めても、きっと栄はみっともなく倒れ込んでしまう。組み敷かれているわけではないのに、栄は羽多野に拘束されているも同然だった。

 爪を立てたことへの報復のように羽多野は右手の動きを止めたままで、栄はまたもや敗北する。キスをして、裸でバスルームで触れ合って、でもここに至るまで羽多野は今日は一度も栄の特に敏感な場所――乳首にもペニスにも後ろにも触れなかった。何度も興奮と冷却を繰り返した体は自分でも意外なほどに熱を溜めていたらしい。栄だってここのところ悩み多くて自慰する気にもなれなかったのだ。

「じ、焦らすな。さっさと動かせよ」

 爪を立てることも引っ掻くことも許されないから、代わりに栄は恥をしのんで言葉で続きを督促した。ここまでくれば抵抗したところで羽多野が聞く耳を持たないことはわかっている。このおもちゃで栄が達することが彼の言うところの「お仕置き」であるなら甘んじて受け入れるから、さっさと終わらせて欲しい。

 羽多野はまだ腰にバスタオルを巻いたままだが、股間の部分は明らかに欲情を示している。風呂場で一度出したくらいで終わらない相手だということはわかっている。羽多野だって本心では次の段階――栄の中に入りたくてうずうずしているはずだ。だから直接的な要求は何より効果的なはずだったのだ。

 案の定、羽多野は左手を持ち上げて愛おしそうに栄の頬をくすぐった。

「参ったな、こんなに簡単に君のおねだりが聞けるとは思わなかった」

 焦らすな、動かせという命令調を「おねだり」と受け取るとはどこまでめでたい頭をしているのか。呆れつつも計算どおりにことが進みつつあることに安堵する栄だったが、思惑はすぐに裏切られた。

「……ただ、今日俺が見たいのは、残念ながら別のものだ。言っただろ? 君の〈こっちを使いたい〉欲望を満たしてやりたいって。ついでに、君のやり方を見てみたかったっていう俺の希望も叶う」

 お仕置きのつもりだったけど、よく考えると君にも俺にもメリットがある。そんなことを言いつつわざとらしく首をかしげて、慈悲ぶって見せるのが憎たらしい。

「は……? そ、それって」

 さっきから亀頭の半分ほどを飲み込んだ場所で、例のおもちゃの動きは止められたまま。すでにもどかしさに栄の腰はかすかに揺れている。そして羽多野の言うことを言葉通りに受け止めるのだとすれば、彼がやらせようとしていることは、つまり。

「ほら、自分で腰を使ってみろよ。谷口くんがリードするセックスでは、どう動くんだ?」

 前回のセックスで羽多野を落胆させたことがずっと心に引っかかっていた。だからといって、ジェレミーと親しくなりすぎたことも、よりによって今日羽多野に嘘をついて彼と会っていたことも悪いと思った。だから特段の抵抗もせずに彼のものを口に咥えてやったし、顔に精液をかけたことも許してやった。だからといって、こんな格好で、こんなおもちゃ相手に腰を振れとはあんまりだ。

「できませんっ……そんな……」

 そうする間にも、こぼれ落ちる滴でシーツがどんどん湿っていく。ペニスの先端は今もまだ、ぬるりとした感触に包まれたまま。ぐっと腰を前に進めれば目が眩むほどの快感が待っているのはあまりにも明白で、栄の自尊心はぐらぐらと揺らぐ。

 羽多野に挿入された状態で腰を動かしてしまうことはある。だが、つながった状態で二人して高い場所に向かうための行為と、じっと痴態を観察されながらオナホ相手に腰を振るのとは大違いだ。

「やめましょう。こういうの、羽多野さん相手には必要ないでしょ」

 確かに栄は、ことあるごとに「自分は本来抱く側の人間だ」と往生際の悪いことを口にしてきた。だが、今となってはそれはただの、口先だけの負け惜しみであることは互いに了解しているのだと思っていた。

 羽多野は栄に尻を差し出すつもりはないだろうし、栄だって羽多野相手にそういう欲望を感じることはない。少なくともこの男に対しては、栄は押し倒されることもリードされることも、挿入されて揺さぶられて達することも受け入れているのだから、十分ではないか。

 懇願に近い声を漏らす栄の頬を撫でる手は優しいまま。しかし羽多野は首をゆっくりと左右に振る。

「必要あるさ。俺は君の全部が知りたいって、いつも言ってるだろ?」

 栄と尚人のセックスを一度見てみたかった――それは栄のセックスのつたなさや、尚人との青くさい恋愛を揶揄するための冗談であるはずだった。まさか羽多野が本気だったなんて。

 誘うように微かに右手を動かす羽多野。今にも理性を裏切って動きだしそうな腰を押しとどめようとして力を入れると、栄の膝はがくがくと震えた。

「駄目です。これ以上は」

 自分に言い聞かせるように栄はつぶやく。しかし同時に胸の奥は奇妙にうずく。

 ずっと、羽多野が栄と尚人の過去を面白がってばかりで嫉妬の色を見せないことに納得がいかなかった。過去を責められれば苛立つのは確実だが、一方であまりにあっさりされても自分だけが羽多野の過去を気にしているようで寂しかった。

 でも羽多野が本当は、栄が他の人間を相手にしたときのことを、ずっと気にしていたのだとすれば?

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