それはそれとして「スケベ心」なんて言い方はひどい。
「そういうんじゃないって、何度言ったらわかるんですか」
羽多野の膝に乗り肩に頭を預けたまま栄がぼやくと、触れ合った体を通じて小さな笑い声が響いてくる。
「本当に一ミリも?」
耳元で囁かれれば乾きかけた髪が揺れてくすぐったい。栄は羽多野の顔を見ないまま、しばし逡巡した。実行に移すつもりはなかった。ただ、ちょっとくらい彼を可愛いと思っていたのは間違いない。それをほんの一ミリのスケベ心だと呼ぶのかは――多分、定義次第だ。
そして、何を不実の定義とするかが問題であるなら、こちらだって黙ってはいられない。
「だったらあなたこそ、何なんですか、あれは」
「何って?」
「あの女」
ああ、と今度は羽多野が呆れたような声を出す。「何度言ったらわかるんだ」と、栄がさっき口にしたのとまったく同じことを言おうとしているのかもしれない。でも、キスもセックスもしなくても恋人に不安や不快を与えることを不実と呼ぶのだとすれば、羽多野だって完全なる潔白とは呼べないのではないか。
「完全な誤解だってのは、十分理解してもらえたと思ってたけど。彼女はああやって、のべつまくなしに理想の再婚に邁進しているだけだから。その証拠に谷口くんのことだって、あの英国人のことだって節操なく誘ってただろ」
この男は、何も理解していない。栄はぴくりとこめかみを震わせると反射的に口を開いた。
「名前を……」
そこで一度言葉を止めたのは、こんなことを気にしている狭量で嫉妬深い自分を知られることはある種の敗北を意味するから。でも、先を続けることにしたのは――ついさっき羽多野が、一歩踏み込んで彼の内面を明かしてくれたからだ。
「名前を、あんな風に呼ばせるのはどうかと思います」
口に出してしまうと恥ずかしさが改めてこみ上げて、栄は額を羽多野の肩にぎゅっと押しつけた。汗で湿った熱い肌と肌。言葉になんてしなくたって、触れ合った場所から正直な気持ちがすべて伝わってしまえば楽なのに。
羽多野は笑わなかった。察しのいい彼だから、きっとさっきの出来事を思い出している。
嘘をついてジェレミーに会っていた栄は本当ならば羽多野に声などかけたくなかったはずなのに、どうして我慢できなくなったのか。もちろん女連れでデリにいる姿を見て誤解したというのはある。だが、最後のひと押し、決定的なトリガーとなったのは何か。
「俺の職場が日系じゃないって、わかってるだろ」
羽多野は子どもに道理を説くような口調でそう言いながら、栄の髪をぐしゃぐしゃと撫でる。ドライヤーも使わずただでさえひどい状態に違いないのに、こんなにかきまわされたら鳥の巣みたいになってしまう。栄は身をよじって拒否を示した。
「わかってます。わかってますけど……」
羽多野の職場が典型的な英国のシンクタンクであることはわかっている。職員同士ではファーストネームで呼び合うのが普通だということも。むず痒いような気持ちは今も完全にはなくならないが、栄も仕事でやりとりする英国人の多くとは名前で呼び合っている。
だが、日本人同士である羽多野も神野小巻が、オフィスの外でまで異国のマナーに従いつづける必要があるだろうか。栄の同僚の久保村やトーマスだって、英国人が混じっている場所では栄のことをファーストネームで呼ぶが、大使館内や日本人メインの場所では日本式に名字で呼ぶではないか。
羽多野の言うことは理解できるが、割り切れない。しかしこれ以上追求するのもみっともない気がして栄は黙り込んだ。
気まずい沈黙は長くは続かなかった。
続いて栄の耳に入ってきたのは、楽しそうな羽多野の声だった。
「でも、知らなかったな。谷口くんが、俺が女性に名前で呼ばれるのを聞いて、思わず喧嘩を売るほど動揺するだなんて」
どうやら栄の正直な告白は羽多野を調子づかせてしまったようだ。
「動揺なんて、していません」
今さら無駄だとわかっていながら反射的に言い返してしまう栄だが、羽多野は意外なほど柔らかい声色で続ける。
「だったら君だって、好きなように呼べばいいじゃないか」
「え……」
思わず顔を上げる。親しげな呼び名で羽多野を呼ぶ女に不愉快になることはあれど、自分が羽多野の呼び名を変えることなど、考えてもみなかった。
確かに栄だって、尚人のことは「ナオ」と呼んでいた。出会ってすぐは名字で呼んでいたが、ある程度距離が縮まったタイミングで呼び方を変えたのだ。
仕事でやり取りしていた頃と、一緒に暮らしてベッドを共にする今では羽多野の呼び名を変えたとしても……不思議はないのかもしれない。自分も彼を名前で呼べば、他の女のことなど気にならなくなるのだろうか。
でも――出会って何年も馴染んできた呼び方を急に変えるなんて、なんだか気まずいし照れくさい。栄は羽多野の申し出にどう答えるべきか迷って、再び視線を落とした。
しかし幸か不幸か、羽多野は栄の答えをせかすような真似はしなかった。代わりに手を伸ばすと栄の足首をつかみ、ゆっくりと持ち上げる。
「さ、こうして裸でくっついてるのも楽しいけど、ピロートークはやることやってからでもできるから」
相変わらず風情のかけらもないが、ようやく数週間ぶりに「普通のセックス」をするのだと思うと羽多野のこういう振る舞いすら懐かしく思えた。難しい質問への回答を先延ばしできるのは栄にとっても歓迎すべきことだし、何より体の熱は出口を失ったままくすぶっている。
前戯はそこそこに、羽多野はすぐに中に入りたがった。前への刺激だけでは達することができなかった栄もまた、彼の熱を待ち望んでいる。仰向けに寝て、導かれるままに腰を持ち上げて繋がりやすい姿勢を取った。
ブランクを気にしてか羽多野は普段よりたくさんのローションをまぶして、指でほぐしていく。入り口の襞をくすぐれば、硬く閉じていた場所は慣れた愛撫に簡単にほころんだ。
一本、二本、三本、押し入った指先は敏感な前立腺を探る。
「あ……っ、ん」
ペニスに触れられるのとはまったく違うタイプの快感。羽多野以外には決して与えられることのない――与えられることを望まない快楽に栄の脳に焼き切れるような刺激が走る。と同時にここのところずっと心に溜まっていた澱のようなものも一瞬で吹き飛んだ。
栄は羽多野の股間に手を伸ばし、つい少し前には自分の口に迎え入れていたものに触れる。熱くて硬くて反り返って、決して今日は途中で折れたりはしないだろう。勃起を手のひらで包み込んで何度か擦ると、先をねだっているのだと理解した羽多野は栄の両脚を大きく左右に割って体を押し込んだ。
「……っ、ああ」
めりめりと貫かれるような、押し開かれるような感覚。衝撃と痛みすら懐かしく、でもそれはすぐに甘い疼きに変わる。
「久しぶりだから、すごいな……」
羽多野の喉から絞り出すような声で、彼が痛みを感じているのかもしれないと思った栄は大きく息を吐いて締めつけを緩めようとした。それで楽になったのか、羽多野はすぐに激しく腰を動かしはじめた。
浅い場所と深い場所を何度も往復し、やがて一番奥まで挿入したところでピストンを止めた羽多野は栄を抱きしめキスをする。舌を絡ませて貪るようなキスをしながら、深く繋がったまま体を揺らす。ベッドのスプリングがきしみ、栄は奥の感じる場所をぐいぐいと押されてたまらなくなった。
栄のペニスも再び完全に勃起して、体が揺れるたびに羽多野の腹にこすれる。達しそうで達せないさっきのもどかしさが嘘のように、限界は急速に近づいてくる。
「あっ、羽多野さんっ……俺、今日はもたない……」
「中途半端なところで何度も止めたからな。でも……、そうじゃなくたって君はいつも早い」
それを言うなら羽多野はいつも遅すぎる――と言い返したいところだが、今日の羽多野は一度出した後にも関わらず栄と同じペースで上り詰めつつあるようだった。いずれにせよ栄には、彼のペースをのんびり待っている余裕はない。
早く達したくて、羽多野の腹にペニスを押しつけ、彼のペニスをできるだけ奥深くまで受け入れようとする。そして栄はぎゅっと目を閉じた。
「ああ、もういく。いく……」
うわごとのようなつぶやきに、羽多野の濡れた唇がぴったりと栄の耳に張りつく。
そしてかすれた声は、囁きかけた。
「だったらほら、名前を呼んでみろ」
――まさか、こんなところで?
余裕のない栄は首を左右に振るが、羽多野の唇はぴったりと張り付いて離れない。
「俺の名前、知らないわけじゃないだろ。栄?」
知っている。でも、呼びたいのかはわからない。
リラが、神野小巻が羽多野を「タカ」と呼ぶのを聞くと心臓がきしんで、我を忘れて醜い部分をさらけ出してしまった。あれはうらやましかったからなのか? わからない。もしかしたら、名前を口にすれば答えがでるのだろうか。
栄は羽多野の首にぎゅっと抱きついて、渇いた唇を開いた。
「……っ、た、……」
だが、そこまでだった。
彼の名前を呼んでしまったとき、自分はどうなってしまうのか。羽多野はどんな反応を見せるのか。それを知るのは、今日の自分にはあまりに刺激が強すぎる。
「無理……っ!」
そして次の瞬間、栄は達していた。