46.羽多野

「……ったく、いい年して大人げないんですよあなたは」

 ベッドに横たわったままサイドテーブルに置いたフィンガーフードに手を伸ばす栄を、羽多野は微笑ましい気持ちで見つめる。

 普段の彼なら「ベッドでものを食べるなんて行儀が悪い」と断固拒否するに違いないが、長い時間をかけてたっぷりと睦み合った後では、さすがに空腹と疲労に負けたようだ。さんざん臀部を酷使した後だから、リビングまで行ったところで座るのも辛いだろう。

 早急に中に入って達して、しかしそれだけでは終わらなかった。二度出した後であるにも関わらずまた硬くする羽多野に栄は驚いているようだったが、蹴飛ばそうと伸ばされたつま先にキスすれば抵抗は止んだ。

 事後、ぐちゃぐちゃに乱れて汚れた自分のベッドを見て栄はがっくりと肩を落としたが、羽多野がすべて後始末をすると約束して何とか許しを得ることができた。汗とローションと精液がたっぷり染みこんだ寝具一式は今、洗濯機の中で洗われているところだ。

 

 シャワーを浴びてさっぱりして、ひとまず今夜は羽多野の寝室へ。そしてようやく遅い夕食を開始した。

「大人げない? むしろ若々しいって褒めて欲しいくらいだけど」

「……セックスで若さを主張する、そういうとこがおっさんの証」

 憎まれ口を叩きながら栄はワインをひと口。しかし決して本気で怒っている風ではない。

「でもまあ、いつかはできなくなるんだから、やれるうちにやっといた方が後悔がない」

「あなたは八十の年寄りになっても鼻息荒そうですけど」

 羽多野もトレーに手を伸ばし、串に刺したつまみを一つ取る。ガーリックと香草と生ハムを細かくしたものを詰めて焼いたマッシュルーム。どうやら詰め物にはドライフルーツも混ざっているようで、甘みがいいアクセントになっている。

 文句を言っていた割には栄も次々に手を伸ばしているところを見ると、神野の店選びは正しかったようだ。

「せっかく仲直りの夜だし、何か美味いものでも買って帰ろうと思って。そうしたら彼女がいいデリを知ってるっていうからさ」

 羽多野が告げると、右手にワイングラス、左手に一口サイズのタルティーヌを持ったまま栄が顔を上げる。

「そういうの、どうして後出しするんですか。性格が悪い」

 まるで、知っていたら嫉妬することも責め立てることもしなかったと言わんばかりの態度には苦笑いがこみ上げる。羽多野の愛情をさんざん体に思い知らされた後だから冷静だが、頭に血が上っているときの栄に経緯を説明したところで聞く耳を持たなかったに違いない。

 神野が話題にでたついでに、羽多野はふと思い出す。久しぶりのセックスは素晴らしいものだったが、ひとつだけ不満がないわけでもない。

「そういえば、今日は谷口くんに名前を呼ばれながらのエクスタシーを期待したんだけどな」

 そもそも神野が羽多野を「タカ」と呼んだことが、栄を激怒させたトリガーであることにすら羽多野は気づいていなかった。これまでだって、例えばアリスは羽多野を同じように呼ぶが、栄は特に気にする素振りは見せなかった。まあ、彼女とトーマスが仲睦まじいカップルであることを知っているからなのかもしれないが。そういえば出会い頭は羽多野とアリスが親しく会話することを面白くなさそうにしていたこともあったっけ。

 いずれにせよ嫉妬を素直に表現する栄を見るのは悪い気はしないし、これをきっかけに彼の口から自分の名前を呼ばせることができるなら、望むところだと思っていた。だが、促しても結局栄は羽多野の名を呼ばなかったのだ。

「あなたって本当にそういうポルノみたいなシチュエーション好きですよね。エロ動画の見過ぎで認知が歪んでるんじゃないですか?」

 口でしろとか、顔に出すとか、くだらないおもちゃとか。今日だけでも羽多野が実行した「ポルノみたいなシチュエーション」を指折り数える栄が、照れくささから話を逸らそうとしているのは明らかだ。

「でも、君だって人のことは言えないじゃないか。俺が名前を呼ぶと、すぐにいく」

「はあ? それ、勘違い……っ」

 少しだけ意地悪したくて羽多野が指摘すると、栄は盛大にワインをむせて、慌ててグラスをテーブルに戻した。

 ほとんど意識が飛びかけている状態でも照れが勝ってしまう。いい年をしてセックス中に恋人を名前で呼ぶことにすら躊躇してしまうのが栄だ。今日ひとつ野望を叶えた羽多野だが、またひとつ新しい項目をTo Doリストに付け加えた。

「無理は言わないし、普段の呼び名は今のままで構わないと思ってる」

「頼まれたって、名前でなんて呼びたくも呼ばれたくないですよ」

 人目を気にする栄は、人前でうっかり羽多野を名前で呼んだり呼ばれたりすることを気にするだろうから、危ない習慣は身につけないに越したことはない。

 それに、普段はお互いちょっとした距離感と敬意を持って相手を呼んで、ときどきベッドの中でだけ特別な呼び名を口にするアイデアを羽多野は気に入っていた。

 

 適切な運動、満腹、アルコール。じきに睡魔に襲われながら、二人はなんとか互いを叱咤しながら洗面所に行き歯を磨いた。ベッドに戻ると並んで横たわり、灯りを落とす。

 仲直りの夜はひどく甘く、このまま眠ってしまうことがもったいないようにも思えて、羽多野は目を閉じずに、数十センチの距離を置いて横たわる栄の背中を見つめていた。

 会話が途絶えてしばらく。眠ってしまっただろうかと思ったところで栄が半分独り言のようにつぶやく。

「俺は、どこかでやっぱりこだわっちゃうんです。自分がどうあるべきかとか、男らしさとか。そういうこだわりの方がよっぽど男らしくないってわかってるんですけど……」

 微妙に芯を外した言い回しだが、羽多野には栄が何を言いたいのか理解できた。羽多野との関係に心底の不満を抱いているわけではないし、本心から自分がリードできる恋愛を望んでいるわけでもない。なのに、長い間培ってきたセルフイメージが、どうしても栄を縛る。

 そして、しばらくためらってから栄は羽多野に問いかけた。

「……もしも、子どもが作れたらどうします? 男性不妊の治療技術は日進月歩らしいって記事を最近読みました」

「え、子ども……?」

 思わず声を出してしまい、羽多野はそこでやっと、栄が抱えていた不安に自分が無知でいたことを知った。

 わがままで、気まぐれで、プライドの高い男だから、ちょっとでも羽多野の目が他を向くことは許せないのだと思っていた。だが、男しか愛せず、それゆえに本来の彼が志向していたであろう「親の期待に応えた理想的な人生」を捨てた栄は――羽多野が女を抱くことができることやかつて結婚していたこと、子どもに恵まれたならばきっと一生そのままの生活を続けていたであろうことを、ずっと気にしていたのだ。

 傲慢である以上に、何より繊細で傷つきやすい相手だとわかっていながら、なんて鈍感だったのだろう。勘がいいつもりで、一番肝心なことに気づけなかった。

 神野小巻という、若かりし羽多野ならばターゲットに選んだかもしれない女が現れたことに動揺して、だからこそ栄は柄にもなく「して欲しいことを何でもしてやる」などと言いだしたのだ。

「……俺は、子どもが欲しかったわけじゃない」

 確かに自分が子を作れない体であることを知ったときにはショックを受けた。それを理由に婚姻の終了を求められたときは傷ついて、リラが今では新しい夫との間に娘をもうけていることを知りひどく動揺した。ただそれが、自分の血を引く子を持ちたかったからかといえば答えは否だ。

 恵まれない少年時代への復讐がようやく成就しかかったところで駄目になった。何より男として当たり前だと思っていた能力が自分には備わっていない屈辱。でも、本当に羽多野が求めていたものは、社会的な成功でも理想的な家庭でもなくて――。

「その〈もしも〉に意味はない。二度も過ちを犯せばもう十分だ。俺はもう、ちゃんと自分が欲しいものをわかっているから」

 手を伸ばして、栄の肩に触れる。

 振り払われるか、無視されるかと覚悟していたが、意外にも栄はゆっくりと寝返りを打ってこちらを向いた。

「変なこと疑って、ごめんなさい」

 彼が謝るのは、珍しい。

「でも、俺は、そういう気持ちが魔法みたいに解けてしまう瞬間を経験してるから」

 栄にとっての完璧すぎる最初の恋。だがそれは長い時間を経て失われた。本気の恋をすることなく打算で生きてきた羽多野に、栄の抱える喪失感や不安は完全には理解できないものだ。だが、理解できないことと理解する努力をしないことは、まったく違っている。

 羽多野はふと、以前、神野小巻と交わした会話を思い出した。

「こま……神野さんが似たようなこと言ってたよ。恋はうたかた。シェイクスピアの『夏の夜の夢』みたいに、どっかのいたずらな妖精が媚薬をまぶたにひとしずく垂らせば恋の相手なんてころっと変わっちゃうんだって」

「あの馬鹿っぽい女、そんな文学的なこと言えるんですね」

 栄は神野の名前を出しても怒らなかった。手厳しい皮肉を吐きはするが、その表情も声色も柔らかいのはただ眠いからだけではないはずだ。

「そっか、妖精の媚薬か……」

 まぶたに垂らせば、目覚めて最初に見た相手に恋してしまう、花の蜜から作った特別な薬。物語の中では、妖精パックが媚薬を間違えた相手に垂らしてしまったことから恋の糸があべこべになってしまう。

 ではその話は最終的にどうなっただろうか。

「俺だったら、もしそんな妖精がいるならば、買収でも脅迫でもして思うとおりに動かすな」

 羽多野の言葉に栄は眠気が飛んだかのように目を丸くして、それから吹き出した。

「最低ですね。あなたらしいけど」

 物語の終盤で、妖精パックは再び媚薬を用いて正しいカップルを作り直す。だって、恋の魔法は一度きりで終わりじゃない。

「覚悟しとけ、君の気持ちが変わりそうになったら、そのたびに俺は新しい魔法をかけるから。何度でも」

 くすくすと笑って、最後栄は疲れたように息を吐いた。

「そんな風にうまくいくもんですかね?」

 大丈夫、俺が粘着質な男だって知ってるだろ? 羽多野が囁くと栄はしばらく笑い続け、安堵したようにそっと目を閉じた。

 

 真夜中、ベッドのスプリングが沈み込む感覚に羽多野の意識は浮かび上がる。栄がトイレにでも行こうとしているのだろうか。満足のいくセックスの後の眠りは心地良くて、目を閉じ眠ったふりをしたまま隣にいるはずの栄の挙動に注意を集中する。

 ぎしりと音がして、より近い場所でスプリングがきしむと同時にまぶたの裏が暗くなる。常夜灯を遮る影は、きっと。

 そっとそっと、鳥の羽でくすぐるような軽さでまぶたに落とされるキスはほんの一瞬だった。そして影は去り、再び隣で寝入る気配。恋の媚薬を何度だってまぶたに落とす――どうやらそれは羽多野ひとりのもくろみではなかったようだ。

 魔法はまだ、消えそうにない。

 

(終)
2020.07.27-2021.05.05