おまけ2:土曜日の小話

 社会人にとってはこの世でもっとも幸せな曜日である土曜日。

 一週間の労働からは解き放たれ、しかも日曜のように迫り来る月曜の影に怯えることもない。今の仕事にさしたる負担を感じていない羽多野にとってすら、この日の解放感は格別に思える。

 今日も、特別ことは何も起こらない週末の一日を過ごした。

 遅い時間に起きてブランチを食べてから、昼過ぎに栄と連れだってジムに出かけた。「連れだって」というのは多分に羽多野の主観に立った表現で、客観的には「ジムに泳ぎに行くという栄に半ばむりやり羽多野がついていった」というのが適当かもしれない。まあ、取るに足らない差異だろう。

 羽多野がロンドンにやってきた直後、栄と同じジムに通おうとして強硬に反対された。その抵抗は実に激しいもので、せっかくの新生活の当初から諍いの種を増やしたくなかった羽多野は、不本意ながら栄の言い分を受け入れた。

 それからしばらくの時間が経ち、ちょっとしたごたごた――そのきっかけのひとつは、栄がジムのプールで出会った男と羽多野の知らないうちに交流を深めたことだった――の結果、栄は渡英以来通っていたジムを退会した。そして、羽多野もどさくさにまぎれて栄が新しく通いはじめた自宅近くのジムに入会することにしたのだ。

 今回も栄は反対したが、本人なりに例の騒動への後ろめたさを感じているのか、抵抗は以前ほど強硬ではなかった。今では「栄はプール、羽多野はトレーニングルーム」という縄張りを設定した上で、同じ施設に通うことを許されている。

 羽多野はもともとスイミングを好まないし、一方の栄はマシントレーニングを「ナルシストっぽい」という偏見以外の何ものでもない理由で毛嫌いしている。

 細身のスタイルを好む栄は筋肉を肥大させるタイプのトレーニングを好まないが、かといって彼がこの世の大抵の男と比べてもナルシストであることに疑いはない。だが、せっかく一緒にジム通いできるようになったところで、あえて怒りっぽい彼を刺激するようなことを口にするほど馬鹿ではない。羽多野は言葉を飲み込むことを選んだ。

 更衣室でわざとらしく他人の振りをされるのは面白くないが、羽多野はとりあえずのところは新しいルーティンに満足している。

 健康的に汗を流しした帰りはビールの一杯でも引っかけたい気分にもなるが、アルコールは夜のお楽しみにとっておくことにした。週末に出店される野外マーケットや近所の商店をぶらぶらして、食品や生活用品を買い足して帰宅すれば夕食の用意をはじめるのに適当な時間になっている。

 夕食のメニューをどうするかとか、どっちがどの作業を担当するかとか、他愛のない会話。ときには食材の切り方や火の通し具合で小さな口論を挟みつつ、やがてテーブルの上には、品数は多くないものの男ふたり暮らしには十分すぎる晩餐の支度が整った。

 どうせ食後にゆっくり飲み直すから、ディナーに合わせるのはワイン一杯のみ。羽多野は洗い物を溜めることが気にならないタイプだが、神経質で潔癖な栄にはテーブルやシンクに汚れた食器が置きっぱなしにされていることは我慢ならない。実際、予洗いして食洗機に投入するだけの片付けは、さしたる面倒というほどでもない。

 特別なことなど何も起こらない夜。

 乾き物を少し、蒸留酒のボトルと氷、そしてグラスを準備してリビングに移る。テレビをつけるとフットボールの試合、賑やかなクイズ番組、料理ショー、紀行番組。チャンネルを次々変えて、どれもお気に召さない栄はテレビ画面を配信サービスに切り替えると隣に座る羽多野に声をかける。

「羽多野さん、何か観たいのあります?」

「君は?」

 日本にいる頃は仕事一色の生活を送っていた栄も、最近では時間のあるときは人並みにエンタメ作品を楽しむことも増えた。

 大使館自体が日本の中央省庁ほど多忙ではなく、同僚との間で人気のドラマや映画が話題にのぼることもあるようだ。「周囲とのコミュニケーションのため」と言いつつ、ときにはドラマの続きが気になって夜更かしし、翌朝眠そうに目を擦っている。

 栄は新着ドラマの一覧をスクロールしながら首をかしげる。

「なんだっけ、この間トーマスが何とかってドラマが面白いって言ってたんだけど、タイトルが思い出せない……」

「何系? 新しいのかそうでもないのか、ミステリか恋愛かSFか」

 何かしらヒントがあれば候補を絞り込めるかもしれない。羽多野の問いかけに、ぐっと眉間にしわを寄せる栄だが、抜群の記憶力も今回は及ばなかったようだ。やがて力なく首をふって白旗をあげた。

「いや、全然思い出せないです。……ど忘れしたままじゃ気持ち悪いから、ちょっと聞いてみようかな」

 そう言って栄はスマートフォンを手に取りメッセンジャーアプリをタップするが、羽多野はすかさず押しとどめる。

「やめとけよ。今頃トーマスだって、アリスと甘い週末を楽しんでるかもしれないんだから。そのドラマはまた今度でいいだろ」

 週末は、誰にだって平等に週末だ。たとえ仕事の内容ではないにしたって、せっかくの休日に職場の人間からのメッセージなど受け取りたくないに決まっている。

「……そうですね」

 羽多野の言葉に珍しく素直にうなずく栄の耳たぶが少しだけ赤いのは、野暮なことを言ってしまったことを恥じているのか、もしくは「甘い週末」という単語に反応しているのかもしれない。

 結局、キューに溜めてあった未視聴の中から、少し前に話題になったミステリー映画を再生することにした。

 恋愛物やコメディよりは、ミステリーやドラマを好むという点において、ふたりの趣味は合致している。栄は何かと自分たちは正反対だと文句をいうが、食事と映画の好みで体の相性が良いのだから、羽多野からすれば十分に思える。

 大画面テレビの臨場感を楽しむため、部屋の照明は落とす。カウチの上で並んで、それぞれの手には琥珀色の液体が入ったロックグラス。

 映画がはじまると、ときおり映画の内容に関してちょっとした言葉を交わすものの、ふたりはほぼ黙って画面に集中した。序盤はテンポが遅く退屈で「ハズレ」を覚悟したが、中盤で一気に物語が加速する。そして映画にのめりこんでいた羽多野はしばらくのあいだ、自分の左肩が重たくなっていることに気づかなかった。

 柔らかな重みと温かさにはっと視線をやると、目を閉じた栄が頭をもたせかけている。今朝の遅寝でも一週間分の疲れをとりきれなかったのか。それとも、プールで隣のレーンにペースを乱されて普段より速く泳いでしまったといっていたから、そのせいか。

 いずれにせよ、この重みは、心地良い。羽多野は栄を起こさないように細心の注意を払いながら映画の続きを観つづけた。

 

(終)
2021.09.07