おまけ2のおまけ

 目を開けると、奇妙なことに視界が90度傾いていた。

 今はいつだ? 起床して仕事に行く準備をしなくていいんだっけ? いや、確か今は週末の――そうだ、朝ですらない。

 うっかり変な時間に眠り込んでしまったとき特有の混乱に襲われながら、やがて栄はここが自宅のリビングで、自分は配信サービスで映画を観ながら居眠りしていたのだと気づく。

 主人公の恋人が実は敵対組織と繋がっていた、という定番ではあるがハラハラさせられる場面を映していたはずの大画面テレビはすでに暗転し、白い文字のスタッフロールがだらだらと流れている。そして横たわる頭から肩にかけて感じるのは、カウチの座面よりもずっと温かい、人間の肉体特有の弾力。

 これは、いわゆるところの「膝枕」だ。

「……」

 ひどく気まずい状況からどう体を起こすべきか。幸か不幸か栄の懊悩は長くは続かなかった。

「あれ、お目覚めか?」

 頭上から降ってくるのはすっかり聞き慣れた低い声。そして指先はさらりと、横たわったままの栄の髪をかすめるように撫でる。

 起き上がるきっかけを得たのは幸いだが、この男の膝で眠り込んでいた気まずさは変わらない。栄は羽多野の視線を避けるように背中を丸めながら、もそもそと体を起こした。と同時に肩までかかっていたブランケットがはだける。

 こういう、いかにも余裕と理解があるのだと言いたげなわざとらしい気づかいが、栄を居たたまれなくさせる。八つ当たり半分に腕で払うと、ばさりと音を立てて床に落ちた布に目をやり羽多野がぼやいた。

「……何だよ、怖い顔して。自分から寄りかかってきたくせに。言っておくが、俺は親切に肩を貸してやっただけだからな」

「肩?」

「最初は肩で、そのうちずるずる膝まで落っこちてきたんだよ。間違いなく君の方からな」

 この男の言うことを栄はほとんど信用していない。うとうとして肩に寄りかかったくらいはありうるが、その後は手練手管で膝枕に誘導したのではないか――とはいえ状況証拠はどこまでも栄に不利だ。いたずらにこの話題を長引かせるのも得策とは思えなかった。

「肩でも膝でも関係ないです。観てたのに、なんで起こしてくれなかったんですか」

 拾い上げたブランケットをたたみながらの恨み言は、羽多野の機嫌を損ねたようだ。

「展開がかったるいとかハズレだとか、ぶつくさ言ってたじゃないか。退屈だから寝たと思ったんだ」

「でも、ちょうど盛り上がってきたとこだったのに。あんな中途半端じゃ気になるじゃないですか」

 しばしの沈黙。それから羽多野は予想外の和解案を提示した。

「……じゃあ、あれからどうなったか話してやろうか?」

「はあ? 余計なお世話です!」

 途中で寝落ちした映画のネタバレを口頭で聞く、冗談ではない。最低最悪の提案を即座に却下して栄は時計に目をやった。日付は少し前に変わっている。

 今日――いや、もう昨日になったか――だってうっかり遅寝してしまった。これから映画の続きを観るとなれば終わるのは丑三つ時近くだ。もともと不眠ぎみだった栄はできるだけ睡眠のパターンを一定にするよう心がけている。週末だからといって連日の夜更かし、遅寝は体に良くないだろう。。

「俺ひとりのときにでも観ます。絶対ネタバレしないでくださいね」

 そう言って大きく伸びをして、カウチから立ち上がる。

 体はまだほんのりだるく、眠気の残滓が残っている。このままベッドに入って眠ってしまうのが一番に思えた。

 

 羽多野は栄を引き留めなかった。

 栄と違って羽多野は好きな時間に寝て、好きな時間に起きて、いつも元気そうにしている。

 羽多野が不健康になるのも、醜く体型を崩すのも自分にとってデメリットしかないとわかっているのに、夜更かしや奔放な食生活、過剰ともいえる飲酒習慣を間近に見ていると、どこかでこの男にバチが当たればいいと祈ってしまうのは我ながらアンビバレンスだ。

 バスルームで用を足して、廊下に出たところでもう一度だけリビングに目をやる。灯りはついたまま。

 それもそうだ。セックスなら昨夜した。昼近くまで寝てしまったのも、長い時間をかけて抱き合ったからだ。こういう場合、栄の側が連日の行為にはストップをかけることが多い。羽多野はそれを学んでいるから、先に寝ると言いだした栄をあっさりリリースしたに違いない。

 セックスしたかったわけではない。数時間前までは「誘われても今夜はなし」と心に決めていた。ただ、栄の頬や肩は、ほどよい硬さを持つ羽多野の太ももの感触と温度をまだ引きずっていた。

 ――こんなのすぐに忘れる。

 自室に入り、ベッドに横たわって目を閉じる。さっきの心地良い眠り、ぐっと意識が深い水の底に沈んでいくような、夢も見ない眠りを取り戻そうと頭を空にしようと試みる。だが、眠ろうと意識を集中すればするほど頭は冴えはじめた。

 みっともない。なんで羽多野の膝で眠ってしまったんだろう。そもそもカウチで居眠りなんて自分らしくもない。仕事もそこまで忙しかったわけじゃないし、今日のジムでもむしろペースはゆっくりだった。

 以前より住宅街に近いジムに変えたせいで、プールの利用者にも年寄りや女子どもが多い気がする。自業自得でもあるので仕方ないが、客層的には前に通っていたところの方が泳ぎやすくて良かった。やっぱり他のジムを探した方が良いかもしれない。

 頭の中をとりとめのない考えがぐるぐると巡り、やがて栄は完全に覚醒した。いくら目を閉じていたところで無意味な考え事に時間を費やすばかりで、このままでは決して眠りに落ちることはない。悔しいがそれを認めないわけにはいかなかった。

 

 先に寝ると宣言した栄が再びリビングに現れたのを見て、羽多野は少し眉を動かしただけで何も言わなかった。手元にはもう何杯目かわからないウイスキーのグラス。腹立たしい。自分だけ映画も結末まで観て、ひとりのんびりと晩酌の続き。

 栄は冷蔵庫から水のボトルを取ると、封を切りながらカウチに歩み寄る。それから羽多野の隣に荒っぽく腰を下ろして、テーブルのリモコンを手に取った。

「目が冴えてきた。やっぱりさっきの続き観ます」

 テレビ画面には二十四時間の国際ニュースが映っているが、羽多野の了解を求めることなしに栄は配信サービスにチャンネルを変える。履歴から、さっきまで観ていた映画のタイトルを探していると、羽多野が栄の肩をぐいと抱き寄せる。

「目が冴えてきたなら、他にやることがあるんじゃないか?」

 耳元に熱いささやき。一瞬遅れて鼻孔に届くアルコールのにおい。

 何を、いまさら。

「……さっきは引き留めなかったくせに」

 だから栄は、自室に戻って半時間以上もひとりで眠る努力を続けていたというのに。

「てっきり今日は、ご機嫌斜めかと思って」

「いちいちそういうこと言うから、本当に機嫌が悪くなるんですよ」

 機嫌が悪かったわけではない。ただ、どうもああいうのは――膝枕で眠るなんて――慣れなくて、気恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくなるだけ。

 人の気持ちを読むのが上手くて、巧みに行動を操ってくる。こういうときの羽多野が、珍しく栄の思考を読み違えているだけなのか、それとも栄をやきもきさせたくてわざと鈍感な振りをしているのかはわからない。

 ともかく、今日は特別なことなど何もない週末の夜。遅寝して、ジムで汗を流して、近所で買い出しをして、のんびり夕食を食べてリビングでくつろぐ。

 そんな普通の週末の夜の続きにやることなんて、確かにひとつしかないのかもしれない。

 

(終)
2021.09.12