おまけ3:蝋の翼(前編)

「何度観ても良いよなあ、このノスタルジー」

 大画面テレビを流れるスタッフロールを眺めながら、羽多野がいかにも感慨深そうな様子で安っぽい言葉を吐く。

 夜のニュース番組が終わってからもつけっぱなしにしていたテレビで映画「スタンド・バイ・ミー」が始まり、流れで最後まで観てしまった。いや、正確には、羽多野が嬉しそうに見入ってしまったので栄としてはチャンネルを変えたいとは言い出せなくなったのだ。

 主題歌含めてあまりに有名なこの映画を、栄も過去に観たことはある。だが、アメリカの田舎町で冴えない子どもたちが死体捜しに出かけるというのは、栄にとっては共感を抱けるシチュエーションではない。何より作品中で主人公が語る「パイ食い競争」――あれが駄目だ。

 巨漢男が大量に食べたブルーベリー・パイを盛大に嘔吐する場面は潔癖傾向のある栄にとっては耐えがたいもので、今日もそのシーンが近づくと、さりげなくトイレに立って直視を免れた。

 それでも最後まで羽多野に付き合ってやったのは、時代や場所は違えども、ちょうどあの少年たちくらいの年頃をアトランタで過ごした羽多野にとっては栄にわからない思い入れがある映画なのだろうと理解したからだ。

「アメリカに住んだことあると、ノスタルジー感じるものですか? 駄作だとは思わないけど、俺には歴史に残るほどの作品とも思えないんですよね」

 栄はロックグラスを手にして、氷が溶けた後の、ほんのりウイスキーの匂いがまじっただけの水で唇を潤す。

 確かに曲はいいが、ストーリーとしてはいささか平凡。いや、もしかしたら公開当時としては画期的な何かがあったのだろうか。

「第一、弁護士が刺されるってのも安易というか……」

「弁護士が刺されるのを見るのは、映画でも嫌な気分?」

 栄が「アメリカ」というキーワードを羽多野と結びつけるのと同様に、羽多野は「弁護士」というワードに反応する。だが栄は首を左右に振って見せた。

「逆ですよ。仕事でさんざんくだらない紛争の仲裁してるのに、プライベートでまで他人の喧嘩に割って入ろうなんて物好きの弁護士、少なくとも俺の周囲にはいませんから」

 法曹一家で育ち、法学部出身ゆえに弁護士の友人も多い栄としては、弁護士イコール正義漢といった描かれ方はあまりに単純かつ現実とはかけ離れているように思えてならない。

 もちろん世の中には映画やドラマに出てくるような正義漢にあふれた弁護士だっているのだろうが、そういった存在がフィクションとして映えるのは、希少だからなのではないか。少なくとも栄の周囲を見回す限り、弁護士というのはもっとドライで、ビジネスライクな生き物だ。

「それに弁護士云々関係なしに、あそこでキャラクター死なせるのってなんか、あざとく感じちゃって。戻らない少年時代を強調しすぎっていうか」

 自分でもひねくれた見方だと思いながら本音をつぶやくと、羽多野は苦笑いで応じた。

「谷口くんってロマンチストなくせに、妙なところでリアリストだよな。確かに現実だったら出来すぎかもしれないが、ドラマはドラマだろ」

「フィクションの楽しみ方を知らないつまらない男ですみませんね」

「そんなこと言ってないだろ」

 羽多野に栄を貶める意図はないのかもしれないが、栄は自分が野暮な人間だと揶揄されたようで面白くない。

「ちなみに原作じゃ他の二人も若死にする」

「えっ!?」

 会話の流れが危険な方向、つまり栄の機嫌を損ねる方向に向かおうとしていることを察した羽多野がわざとらしく話をそらし、栄はまんまと驚きの声をあげる。

「……やっぱり、フィクションとしてもやりすぎですよ」

 一人だけなら「あざとい」で終わるが、三人というのは現実離れにもほどがある。いくらアメリカの治安が悪いからって、さすがに景気よく人を殺しすぎだ。栄がそう訴えると羽多野は、この映画の原作はホラー小説家によるものなのだと言った。

「この原作の連作集自体はホラーじゃないけど、濃厚な死の匂いや不穏な空気は作家性じゃないか」

「ふうん」

 栄にとってはどれも初耳だ。ただでさえ小説は読まないのにホラーなんて悪趣味な娯楽、一生手を出すことはないだろう。……と思ったところで、羽多野がわざとらしく付け加える。

「とはいえ、ホラーだって馬鹿にできないぞ。キングは家族愛やノスタルジーについては、そこらの下手な文学作家よりよっぽどいいものだって書いている」

「別に、馬鹿にしてないでしょう」

「でも君の目は、ホラーなんて時間の無駄だって言ってる」

 完全に考えを見透かされて、栄は体裁が悪い。

「……でも、主人公だけが無事に少年時代の夢を叶えるって、やっぱりご都合主義すぎません?」

 負け惜しみのように、悪く思っているわけでもない映画について批判的な言葉を重ねると、羽多野は「それはそうかもな」とつぶやいてから、さらに話題を変えた。

「そういえば、君の将来の夢はなんだった? まさか小説家ってことはないだろうが」

「俺の将来の夢?」

 羽多野は場の空気を和ませようとしているのだろうが、これはこれで楽しい話題とは思えない。

 少年時代の将来の夢――「夢」というくらいなのだから、スケールの大きな話をしたいところだが、栄の返事は名作映画のストーリーを「安易だ」と論評する資格がないくらいに、平凡なものだった。

「……弁護士」

「やっぱり」

「わかってるのに、なんできくんですか。それに俺の場合は夢なんて可愛い話じゃありません。生まれたときから親の跡を継ぐことが既定路線だったし、他の選択肢があるなんて子どもの頃は知らなかったんです」

 それどころか、「谷口家の長男」と言われ周囲を落胆させてはならないと、頭は常に一杯だった。遠い先にある夢を見たことなどない。栄はいつも、敷かれたレールを踏み外さないことだけに集中して自分の足下ばかりを見つめていたのだ。

「それ以外の選択肢を意識したのは――」

「言わせます? っていうかこの話、前にもした気がしますけど」

 思春期になって、自分が同性にしか惹かれないと気づいた。それと同時に栄は、自分がいくら真面目に勉強して一流の大学に入学し、ストレートで司法試験に上位合格したとして、決して親の望む「理想の息子」になれないことも知ってしまった。

 妻を娶って、その妻が息子を産んで、その息子がまた「谷口の長男」として弁護士を目指して――女を抱くことすら想像できないのだから、そんなの無理に決まっている。

 弁護士という職業自体に悪い印象はなかったが、下手に法曹資格を得れば親はいつまでも栄に理想を押しつけ続けるだろう、だったら明確にレールを降りて、余計な期待を打ち砕いた方が家族のためでもある。

「健気だな、谷口くんなりの最大の親孝行ってわけだ」

「両親は俺のこと、超弩級の親不孝者だと思ってますけどね」

 でも、親の期待を裏切って勝手な仕事を選んだ馬鹿息子程度ですむならば、まだましだ。保守的な両親に息子が同性愛者であると知らせること――栄にとってはそれこそが最大の親不孝だ。

 ごく自然に羽多野が手を伸ばし、栄の髪を撫でる。子どもにするような仕草は馬鹿にされているようで気に障ることも多いが、今は振り払おうという気にはならなかった。代わりにわきあがるのは、好奇心と悪戯心。

「……で、いつも俺にばっかり話させますけど、あなたは?」

「俺? の、何?」

「何じゃありませんよ。羽多野さんだって人並みに、少年時代の夢くらいあったでしょう?」

 自分の過去について羽多野はあまり語りたがらない。恵まれた家庭ではなかったようだし、野心家だった若い時代のことは彼にとって良い思い出でもなさそうだ。それに栄だって、羽多野の過去の女性関係や結婚生活の話など聞きたくはない。とはいえ、たまに子どもの頃の話を聞くくらいのことをしたって罰は当たらないだろう。

 一皮剥けば野心家である羽多野のことだ、社長か総理大臣。いや、アメリカ生活での挫折が強烈な上昇志向を生んだのだとすれば、その前は?

 こちらは惨めな過去を打ち明けたのだから、同じだけの羞恥心を味わってもらおうと栄は身を乗り出すが、羽多野は笑うだけだ。

「覚えてないよ。俺なんか谷口くんみたいに賢くもない、クソガキだったから。夢なんかなくて、鼻水垂らしてそこらを走り回ってたんじゃないか」

「またそう言ってごまかす。ずるいですよ」

 不満をあらわにすると「じゃあ、お望み通りごまかしてやろうか」とゆっくりと羽多野の顔が近づいてくる。

 栄は横目でちらりと時計を確かめる。確かに、そろそろベッドに行くにはいい頃合いだ。