「ただいま……」
異様な緊張感をもって足を踏み入れた部屋には、コンシェルジュの女性が言っていた「パーティ」の影もかたちもなかった。準備も、痕跡も、なにも。
そこにあるのはただ、うさんくさいほどの「いつもどおりの」空間。男ふたり暮らしにしては清潔で整っているが、隠しきれない男ふたり暮らしらしい殺風景さもどこかに漂わせている、羽多野と栄が暮らす部屋だった。
「ああ、おかえり。やっぱ仕事落ち着いたんだな」
ほとんど定位置といっていいカウチの一角で悠然と――少なくとも栄にはそう見えた――本を読んでいた羽多野は時計を見上げて言った。
もしかしたら週末以降、仕事を優先しすぎる栄の態度に腹を立てているのかもしれない。そんな懸念をしていたのが馬鹿馬鹿しく感じられるほどの平常運転。それどころか声色はどこか弾んでおり、普段より上機嫌なくらいだ。
不気味この上ないが動揺を悟られるのも得策ではない気がして、栄は平常心を装う。
「ええ、渡した資料でレク上手くいったみたいで、特に追加の発注もなくて良かったです。……羽多野さんも飯まだなら、俺が何か作りましょうか」
いつもならば、自分の仕事の状況をこんなに丁寧に説明することはしない。食事の準備を申し出たこと含めて、悔しいが栄の中には確かに羽多野の機嫌をとろうという打算がはたらいていた。
だが、ティータオルで手を拭いてから冷蔵庫へ一歩踏み出すと、なぜだか羽多野は栄の進路を塞ぐように立ちはだかった。
「いや、カレー買ってきた。このあいだ行って、谷口くんが気に入ってた店のやつ。先に食べるなら温めるから上着置いて来いよ」
「じゃあ……そうします」
耳障りは良いものの羽多野の言葉からは有無を言わせぬ妙な圧を感じる。栄は頭のなかを不安と不信でいっぱいにしながら、ひとまず自室へ向かった。
何もかもがおかしい。
澄ました顔をして出勤したはずの男が、午前中からパーティの準備ばりの買い物をして帰宅するのを目撃されていた。にもかかわらず、夕食は手作りのごちそうどころかテイクアウェイのカレーだと?
羽多野は明らかに、何かを隠している。かといって嫌味のひとつも口にしないし、夕食に買ってきたのは栄の好きなもの。怒っているわけではないのだろうか。
本当ならば胸ぐらをつかんで問い詰めたいところだ。が、あまりに羽多野の行動が意味不明すぎて、怖い。
頭に浮かぶのは――ほら、よくあるあれだ。後ろめたいことを隠しているときに恋人が妙に優しくなるというやつ。まさかとはいわないが、昼間に男だか女だかを連れ込んでさんざんもてなしてやって、その後始末で疲労困憊。ついでに栄への罪悪感を隠すために好物を買ってきたとか。
フィクションの類いを見下しリアリストを気取っている栄だが、こういうときばかりは自分でも驚くほど想像力が豊かになる。
普段からフットワークは軽い方だが、夕食中も羽多野は普段以上にまめまめしく動き、「谷口くんは疲れてるだろう」と栄には水一本取り出すことすらさせなかった。このあいだ店で食べたときには絶品だと感動したチキンティッカマサラも、サグカレーもパニールもほとんど味がしないように思えたのは、決して温め返しであることが理由ではないだろう。
「ごちそうさま」
栄はカレーを一人前食べきることすらせずに、カトラリーを置いた。羽多野は怪訝そうな顔をする。
「もういいのか?」
でも栄は気づいている。そうたずねる羽多野も、あきらかに普段に比べると食が進んでいないではないか。
「やっぱりちょっと、疲れが溜まってるのかも。風呂入ってゆっくりします」
そう言って立ち上がり、はっと思い返して付け加える。
「準備全部やってもらったから、片付けは俺がやりますよ。食べ終わったらそのままにしておいてくれれば」
こんな気分で羽多野とテーブルで顔を突き合わせているのはひどく気詰まりだ。栄は視線をそらして立ち上がり、のろのろとバスルームに向かった。もはや全身を満たす倦怠感が仕事のせいなのか、羽多野のせいなのかもわからなかった。
湯船の中で改めてここ数日の自分を振り返り、それに対する羽多野の態度を反芻する。
確かに仕事を優先した。毎度のことすぎていちいち記憶していないが、作業に夢中になっているときは羽多野を邪険にしただろう。でも集中しているときに他人の存在を疎ましく感じてしまうのは誰にだってあることだ。
羽多野だって栄がそういう人間であることは百も承知なのだから――でも、惚れた弱みで許せていたことが、熱が冷めるにつれてただの欠点に見えてくるのもまた、誰にだってあることだ。「あばたもえくぼ」は永遠に続くわけではなく、魔法が解けてしまえば「あばた」はただの欠点に戻る。
普段は食欲旺盛な羽多野が、今夜は栄の様子をうかがうばかりであまり手を動かしていないのも気になった。やはりコンシェルジュの言っていた「パーティ」なのだろうか。昼間に腹一杯食べているならば、夕食が進まないのも当然だ。だとすれば一体誰と、何を?
若い頃に、休暇をとった日もわざわざスーツにビジネスバッグを持っていつもどおりに家をでるという上司の話をきいた栄は、いわゆるところの「ドン引き」した。
たまにはひとりで過ごしたいとか、行動のすべてを配偶者や恋人に知ってもらう必要はないとか、言い分は理解できる。だが、そういう気持ち自体を丁寧に伝えて理解し合うのが恋や愛であり、信頼ではないのか。相互理解の努力を惜しんで、軽薄な嘘で取り繕うなんて……。
当時の栄は新人官僚として仕事への夢と熱意にあふれていたし、学生時代からの恋人と念願の同棲をはじめたばかり。振り返れば幼稚で潔癖な考えだが、あの頃は本気で、恋人ならばすべてを分かち合い理解し合うものだと信じていたのだ。
数年後、仕事が忙しくなり挫折を味わうことが増えるとともに、栄は恋人の存在をときに疎ましく思う感情を知り、嘘や隠しごとをすることも覚えた。もちろん嘘をつかれること、隠しごとをされることも経験した。
そして――恋人の態度が奇妙だと思ったときに、無邪気に理由をたずねることは、今の栄にとっては簡単でない。
コンシェルジュのおばさんが、昼間に帰って来る羽多野さんを見かけたって言ってたけど早退したんですか? できるだけ軽い調子できいてみれば、羽多野も軽く「ああ、そうだよ」と返すかもしれない。パーティというのも、ただの大荷物の比喩だっただけで、ただの買い物だったのかもしれないではないか。
あごまで湯船に浸かった状態で、栄は何度かぶつぶつと質問の練習をしてみる。だが、繰り返すほどに言葉は重くなるだけだ。
「……駄目だ」
きいてみるなら、帰宅後第一声だった。夕食を済ませて、風呂に長居して、いかにも覚悟を決めましたといったタイミングで切り出すなんて、いくら口先だけ軽さを装ったところで重すぎる。
それに――栄がここに至るまで羽多野の早退のことをきけなかったのと同程度に、羽多野は「自分の早退について切り出せなかった」理由に重みを感じているに違いないのだから。
「最低、最悪。本当なんでしょっちゅうこんな目に遭わなきゃいけないんだよ」
口をつくのは誰にあてるわけでもない恨み言ばかり。つい最近栄と羽多野は互いの浮気と変心を疑い、恋愛関係になって以降最大の危機を乗り越えたばかりだった。なのに一難去ってまた一難。
「気持ち悪い」
疲労のせいか、食べてすぐ風呂に入ったせいか、あるいはすでにかなりの長風呂になっているせいか。胃のあたりにむかつきを覚えた栄はよろよろと立ち上がった。
憂鬱な気分のまま服を着て、髪を乾かし、そのまま自室に直行したい気分だったが、そういえば夕食の後片付けはやると宣言していたのだった。羽多野の顔も見たくないが、この状況で約束を反故にするのはまずい。
重い足取りでリビングの扉を開けると――鼻先にふわりと、甘い香りが漂った。