夕食の後片付けをするつもりで、栄はわざわざダイニングキッチンに戻ってきたのだった。だがテーブルの上はきっちり片付いているし、換気をしたのか部屋からは独特のスパイスやハーブの香りはすっかり消え去っている。それどころかほんのりと甘い香りすら漂っている。
怪しさ満点の状況に、栄はこちらに背を向けてキッチンに立つ羽多野の背中を睨んだ。
片付けをしてくれたことはありがたい。いや、それも羽多野が何らかの後ろめたさを隠そうとしているからなのか。とにかく混乱した。
「……あの、羽多野さん?」
栄がおそるおそる声をかけると、羽多野は振り返りもせずに言った。
「もうちょっとで仕上がるから、君は座ってて」
「は?」
もうちょっとで仕上がる? 何が? 当然のように言われた言葉は何一つ理解できない。しかも今日帰宅したときからそうだが、声の調子が妙に機嫌良さそうなのも不気味だ。
「仕上がるって何が?」
夕食の食器はすでに食洗機の中。だが羽多野の手元には金属製のボウルやらカッティングマットやら、たくさんの果物――果物?
「いいから来るなよ、おとなしくそっちに座ってろって」
「嫌ですよ、なんで俺の家なのにいちいちあなたに指図されなきゃいけないんですか。第一、今日の羽多野さん、何か変です」
「おい、来るなって!」
苛立ちも頂点に達した栄は制止の声を無視してずかずかと歩み寄り、羽多野の肩越しに手元をのぞきこんだ。
「……何ですか、これ」
自宅の食器棚では見たことのない、華やかなカットのガラスプレート。ボウルの中で泡立てられた生クリーム。一目で高級品とわかる大粒で形の良い果物の数々。そして銀色の型の中で震えている薄黄色のぷるぷるとした物体。あの型は見たことがある。確か中学生の頃菓子作りにはまった妹の逸がプリンを作るときに使っていたっけ。
つまり、羽多野は――。
「何って、見てわからない?」
何ですか、という栄の問いかけに対して羽多野は少しうろたえたようだった。
「いや、わかります。わかるけど、なんでプリン・ア・ラ・モードなんか」
その言葉には、幾重もの意味が込められていた。
ロンドンで日本風のプリン、しかもプリン・ア・ラ・モードに出会えるとは考えたこともなかった。しかもレストランでもカフェでもなく、自宅で。さらには……キッチンに散乱するプリン型や、電動ミキサーとホイップされた生クリーム、カッティング中の果物の様子からして、これは羽多野のお手製ということになる。
「君が、甘いもの食いたいって言ったんだろ」
思いのほか冷静な反応に羽多野は気を削がれたようで、言い訳のようにつぶやいた。
「ええ、まあ」
確かに言った記憶はある。
「でもスーパーマーケットの駄菓子はどうとか、イギリスのケーキは濃すぎるとか大味すぎるとか文句ばかりで」
「……はあ」
そっちも、確かに言った記憶はある。
「で、君の好きな甘いものといえばプリンで、そういえば子どもの頃に銀座でプリン・ア・ラ・モード食べるのが楽しみだったって言ってたから」
「……そうでしたね」
無表情でただぼんやり手元を見つめる羽多野に、今度は羽多野が苛立つ様子を見せる。
「おい、何だよそのうっすい反応」
「え?」
「普通さ、菓子作りなんかとてもやらないタイプの男がサプライズでこういうの準備してたら、もっとどうかした反応するんじゃないか」
反応の薄さを責められて、栄は困惑した。目の前の状況はあまりに現実離れしていて、どんな顔をして何を言えばいいのかわからないのだ。
「もっとどうかした、って……」
「感動して目を潤ませるとか、抱きついて喜ぶとか。せめてもうちょっと感極まった感じでさあ」
いやでもまあ、君だからな……とぼやきながら、羽多野は手にしたリンゴの皮をナイフでカットする。目の前に置いたタブレットには、デザートパーラーでよくある、リンゴを木の葉型に飾り切りする方法が映し出されている。
長身で、そこそこ図体のでかい四十男。見た目も、決して強面ではないが、どこか冷たさを感じさせるとっつきにくいタイプ。その羽多野がプリン。そしてインターネットで方法を調べてリンゴの飾り切り。
何だってそつなくこなしてしまう羽多野だから、急に菓子作りに目覚めたっておかしくはないのかもしれない。いや、おかしい。どう考えてもおかしいだろう。
「……ふ、っ……」
思わず吹き出した栄に、羽多野が声を荒げる。
「何がおかしいんだよ」
確かに笑うのは失礼だった。だが、かといって感激してお礼を言うというのも何かが違っている気がするのだ。そうだ、そういえば――。
「もしかして、今日仕事さぼって大荷物持って帰ってきたって」
ついさっきまで心に引っかかっていたことと、目の前の状況がようやく栄の中で結びついた。
「君がなんでそれ知ってるんだよ」
「コンシェルジュのおばさんが言ってた」
「あのババア、口が軽すぎるな」
普段は栄よりよっぽどコンシェルジュと親しくしているのに、ひどい言いようだ。
ともかく、よく見てみればあの大きめのボウルも電動ミキサーも、皿だってプリン型だって、これまでこの家には存在しなかったものだ。あれだけ多種類の果物も買いこんできたのだとすれば、それこそ「パーティ」を思わせるくらい大量の荷物になったとしても不思議はないくらいに。
「俺には何も言わず知らん顔してるんですもん、一体何かと思いましたよ」
拍子抜けすると同時に、反動で怒りがこみ上げる。噛みつくような栄の言葉に羽多野も言い返した。
「言ったらサプライズにならないだろ」
「サプライズなんか頼んでないですよ! パーティ張りの買い物してきたって聞いてるのに食事は買ってきたカレーだし」
「……もしかして、それで食欲が?」
急に痛いところを突かれて、栄は口ごもった。
「い、いや。それはそういうわけじゃなくて。言ったでしょう、疲れが出たみたいで」
種明かしされてしまえば、羽多野のちょっとした異変を大げさにとらえて、勝手に悩んでいたことは馬鹿馬鹿しい。それ以上に、こんな男の一挙一動に振り回された自分が恥ずかしくてたまらない。
でも――本当に、不安だったのだ。いくら虚勢を張ったところで栄は、恋愛については自信も経験値も胆力もない。羽多野だってそんなこと百も承知だろうに。
「嘘を、つかれたんだと」
「嘘?」
「仕事行く振りしてこっそり帰宅して、何もなかった顔をして。いざってときも羽多野さんってこのくらいさらっと俺をだませるんだなって。そのくらい信用がないんですよ、あなたは」
不安になるから嘘はつかないで欲しい。伝えたいのはそれだけなのに、どうして口からこぼれるのはこうも嫌みったらしい文句なのか。自己嫌悪に顔をしかめたところで、急に口が塞がれた。
「!?」
口に押し込まれたのは、一切れのリンゴ。
「仕事休んでまでやるつもりはなかったけど、事情が変わったんだよ。いいからそれ食って座ってろ。もうちょっとでできるから」
一口で入りきる大きさではないのでリンゴを手にとると、切り込みを入れすぎて失敗したのか木の葉がぽっきりと折れている。万事に器用で、うらやましいどころか腹が立つことが多い羽多野だが、そうか、リンゴの飾り切りは一発では上手くはいかないのか。
改めて、小さなフルーツナイフを手にタブレットを睨んで、不似合いな作業に奮闘している羽多野を見ていると怒り続ける気も失せてきた。胸までこみ上げていた気分の悪さもすっかり消え去り、それどころかカレーを半分しか食べずに長風呂をしていたせいか、空腹すら感じる。
じっと羽多野の手元を眺めるうちに、わくわくしてきた。
プリンが好きだと言ったことを羽多野は覚えていた。あのときはプリンを奪い取るような真似をしたことが恥ずかしかったから、つい過剰に攻撃的な物言いをしてしまった。羽多野はひどく腹を立てていたが、おかげでしっかり「栄の好物はプリンである」ことを学んだのならば結果オーライだろうか。
ひとり暮らしになってから甘いものはまったく買わなくなり、しかも渡英したこともあり、あのときの栄もずいぶん長い「プリン断ち」状態だった。その後すぐロンドンに舞い戻ったから再びのプリン断ちも数ヶ月に及ぶ。
羽多野が細心の注意を払って皿に出したプリンは完全に栄好みの「しっかり焼いた固め」。色も質感も良く、流れ出るカラメルの艶も美しかった。
プリン自体久しぶりだが、プリン・ア・ラ・モードなんて一体何年ぶりだろう。小学生の頃、母に連れて行かれた銀座のパーラーで配膳を待ち構えていた頃の気持ちが蘇り、栄の鼓動はどんどん高まる。いや、目の前で特製プリン・アラモードの盛り付け風景を見られるなんて、あの頃にもなかった最高の待遇ではないか。しかもたったひとり、栄のためだけに――。
スマートフォンに映し出した写真を参考にしながら、羽多野はプリンと果物を丁寧に皿に並べていく。固めに泡立てた生クリームをスプーンにたっぷりとってプリンの上にのせると、さらにその上に真っ赤に熟れたチェリーをひとつ置いて、ふうと大仕事終えたかのように息を吐いた。
「はい、できあがり。俺の力作、心して食えよ」
そして栄の目の前には、艶々のプリンとぴかぴかのフルーツが輝く、完璧なプリン・ア・ラ・モードが置かれた。