その指は甘い。だけではなくて(10)

「一生分……」

 羽多野が自らプリンを買い求めるタイプではないことを考慮したとしても、五個、いや十個? しかも「この二日」ということは、栄にはひた隠しにしながら羽多野は、昨晩からずっとプリン作りの練習を重ねていたということになる。

 そういえば、昨日からこっち、栄が冷蔵庫に近づこうとすると羽多野はさりげなく進路を妨害してきたっけ。もしかしてあれも、庫内にあるプリンの試作を栄の目から隠すことが目的だったのかもしれない。

 嘘をつかれたことは不愉快だし、納得してはいない。一方で、栄の「甘いものが食べたい」というささやかな希望を叶えるため、羽多野が彼なりの努力を重ねていたのだと思えば、栄の自尊心は大いにくすぐられる。

「なんだよ、急ににやにやして」

 栄の表情が和らいだことに気づいてか、羽多野が不審そうな表情を向ける。

「いえ、一発で上手くいったわけじゃないんだなと思ったら、ほっとしちゃって。初挑戦でこのレベルだったらムカつくとこでした」

 欲を言うならば、派手に失敗して落ち込んでいるところも見たかった。冗談交じりにつぶやくと羽多野は心底嫌そうに眉をひそめた。

「こっちは王子のご要望を叶えようと必死だったっていうのに、失敗が見たかったって……ひどい言いようだな」

「だって羽多野さん、いつも偉そうに上から目線で鼻につくんですよ」

「君だって、同じようなもんだろ」

 確かに羽多野も栄も、負けず嫌いだしプライドも高い。努力の過程を人に見せたがらないところもよく似ている。でも、だからこそ、万事において少しずつ自分を上回っているように見える羽多野に、栄は複雑な思いを抱いてしまうのだ。

「あー、やっぱりさすがに飽きてきた」

 スプーンをのろのろと動かしていた羽多野は、やがてうんざりしたように天を仰ぐ。

 決して正確な数について口を割ることはないだろうが、一体ここに至るまで羽多野がどれだけの失敗を繰り返したのか。どんな顔をして大量の不出来なプリンを食べたのか。想像して再び笑い出す栄にうらめしそうな視線を向けてから、羽多野は立ち上がる。

 まさか、もうプリンは飽き飽きだから残りは食べてくれとでも言うのだろうか。栄はあわてて釘を刺した。

「俺はこっちだけで十分ですからね」

 プリン・ア・ラ・モードはボリュームたっぷりだったし、遅い時間の甘いものはそもそもひとつで十分。それに――と、続きを口にしようとする栄を制するように羽多野は言う

「わかってるって、人の食いかけのものは嫌なんだよな」

 前回のプリン事件のときには、プリンとモンブランを半分ずつシェアしようという羽多野に、栄は「汚いから嫌だ」と言い切った。羽多野はそのこともしっかり覚えていた、というか根に持っているのだろう。

「ならいいですけど……」

 だったら、食べかけのプリンはどうするのだろう。怪訝な顔をする栄をよそに、羽多野は酒瓶の並んだ棚からラム酒の瓶を手にして戻ってきた。

「ネットで見たんだよな。オトナの味変」

 瓶の蓋を取るだけでキューバ産ラム酒の甘く芳醇な香りが漂う。そのまま味わうのが一番の高級品だが、羽多野は惜しげもなく瓶を傾けると、「味変」と呼ぶにはやや多すぎる量のラム酒をプリンカップに注ぎ込んだ。

「あ、うまい」

 スプーンにプリンとカラメル、そしてたっぷりのラム酒をすくいとって口に運んだ羽多野の表情が明るくなる。

「もうプリンなんかうんざりだと思ってたけど、これならいくらでもいけるな」

 さっきまであからさまに嫌々といった様子だったのに、心底美味そうにプリンを口にする姿に栄も興味を惹かれてしまう。

「へえ、そんなに合うんだ」

 卵、ミルク、カラメルにバニラ……そこにたっぷりのラム。確かに、どう考えても不味くなる要素はない。

 さっさと自分の皿を空にしてしまったことを、栄は少し後悔する。プリンはまだ残っているだろうから、どうしてもラム酒がけプリンへの興味が消えないならば、明日にでも試せばいいのだろう。でも、羽多野があまりに美味そうに食べるからうらやましくなってしまう。

 すでに食べ終えて手持ち無沙汰な栄は羽多野がラム酒がけプリンを食べる羽多野を恨みがましく見つめた。するとよっぽどうらやましがっているように見えたのか、羽多野が再び手を止める。

「ひと口、いる?」

「え?」

「いや、食べたそうな顔してるから」

 羽多野の食べかけのプリンは嫌だと、さっきやり取りしたばかりだ。そもそも潔癖気味の栄は羽多野に限らず他人と食べ物をシェアすることは苦手だ。飲み会でも、誰かが食べ箸を伸ばしてしまったが最後、決してその大皿には手をつけない。

 だが、なぜだかこのとき栄「いりませんよ」と即答することができなかった。

 ラム酒の芳香があまりに魅力的だったから。羽多野がとても美味しそうに食べるから。羽多野が自分のために苦労して二日がかりでプリンを作った事実にほだされてしまったから――理由などいくらだってある。

 だが最終的には理由なんてあったってなくたって同じことなのだ。

「そんな難しい顔しなくたって良いだろ。ほら、こっち側ならまだ手をつけてないんだし」

 羽多野はプリンカップの、自分がスプーンをさしていない側を指し示す。確かに「完全に清潔」とは言いがたいが、このくらいなら平気かも知れない。何しろ――食事の場以外ではもっと濃密に唾液を混ぜ合わせるような行為だってしているのだから。

 返事に迷って硬直している栄をしばし見つめてから、羽多野は未使用のスプーンを取り出す。彼が口をつけていない側からひと匙すくって、まるで幼い子どもに食事を与えるときのように、栄の顔の前までスプーンを持ってきた。

「ほら」

 躊躇はある。でも鼻先を漂うラム酒の香りはそれだけで栄を酔わせてしまう。いや、本当は栄のために真剣な表情でフルーツをカットする羽多野を眺めているときから、すっかりのだ。きっと。

 戸惑いは完全に消えたわけではないが、栄は黙ったままゆっくりと口を開いた。

 スプーンが近づいてきて、冷たい金属が唇に触れる。そして広がるのは素朴で優しい甘さと――アルコール特有の深みのある苦み。

 生クリームをたっぷり載せて、フレッシュでジューシーな果物をたくさんのせたプリン・ア・ラ・モードも美味しかった。だが、羽多野が「オトナの味変」といったこちらの食べ方も実にいい。

 餌付けのように羽多野の差し出したスプーンからものを食べたことが恥ずかしくて目を合わせられない栄の視線は、自然とスプーンを握る羽多野の手に向く。そして、指の目立つ場所の皮膚が赤く変色していることに気づいた。

「……やけど?」

「あ」

 ばれた、とばかりに羽多野はさっと手を引っ込めようとする。その腕をつかんで、栄は傷口をまじまじと眺めた。水ぶくれはできておらず、そこまでひどくはなさそうだが、比較的新しい傷口は痛々しい。

「もしかして、プリン作っててやけどしたんですか?」

 渋々といった調子で羽多野は答える。

「カラメルソース作るのが、けっこう危ないんだよな。最初全然わかってなくて」

「昨日?」

 栄の問いかけに、羽多野は小さくうなずいた。それから名誉の負傷を凝視された羞恥を隠そうとするかのように、傷を負った指先で栄の頬を撫でる。その指先をじわじわと唇の端まで動かし、今度はスプーンの代わりに指先でそっと上下の唇を押し開けようとした。

「……何?」

「君に舐めてもらったら、すぐ治るかもと思って」

 そんな馬鹿な話ないでしょ、と栄は返す。だって唾液の消毒効果など、もうずっと前に否定されている。だが――。

 羽多野の指先からはラムとバニラの甘い香り。誘われるようにそっと口に含むと香りとは対照的な微かな苦みが口の中に広がる。

 栄は目を閉じてゆっくり、じっくりと羽多野の指に舌を這わせた。