「すいませんでした、お忙しいところ無理を言って」
トイレを済ませた長尾が玄関先で頭を下げたところで、ようやく地獄のような時間が終わりそうだと栄はほっとした。
しかし気の緩みは余計なひと言を生む。
「いえいえ、こちらこそ何のお構いもできず。お礼はそのうちさせてください」
深い意味などない社交辞令丸出しの言葉に長尾が食いついてきたのは完全な想定外だった。
「だったら今度こそ、延期になっている食事に行きましょう」
「は……?」
食事? 延期? 何のことかと首を傾げたくなる。確かに栄はこれまで片手の指の数はゆうに超える回数、長尾からの食事や飲みの誘いを断っている。家内安全の観点からも、今後もこの男とふたりきりで酒を酌み交わすつもりはない。
困惑する栄に、長尾は「ほら、あのときの」と付け加えた。
「ずいぶん前に、出張者対応の下見にご一緒するはずだったお店。あのままになっていたでしょう」
そこで栄はようやく、長尾が一年近くも前に流れた食事の約束について話しているのだと気づく。
かつて栄は長尾と食事――出張者のアテンドの候補店を探すという名目だった――の約束をした。「同世代の自衛官」との食事を勘ぐるような羽多野の態度に居心地の悪さを感じたが、結果的には鉄道トラブルで長尾は予約の時間に間に合わなくなった。
代打として誘った羽多野からカトラリーの使い方を褒められたこと。尚人との苦い思い出を語る栄に、珍しく羽多野が慰めるような言葉をかけたことも覚えている。
あれから羽多野との距離は近づき、離れ、また近づいて、いつの間にか互いの隣が定位置になった。栄の中では羽多野との過去の一場面として整理されている出来事が、長尾の中では今も「延期のままの食事の予定」と認識されていることには正直、戸惑いしかない。
もしかしたらその「延期」があるから、長尾はしつこく栄を誘い続けているのだろうか?
「ああ、そんなこともありましたっけ」
栄の背を、冷たい汗がまた一筋伝う。後ろめたさはみじんもないが、背後の寝室にいる男にはこんなやりとり聞かれたくない。
羽多野はこんな些細なことで本気で嫉妬するほど幼稚ではないだろう。だが、性悪な男はきっと長尾の存在を絶好の材料として、さも栄が不貞をはたらことしていたかのように振る舞い、嫌みったらしく責め立ててくる。栄に対して優位に立つためならば手段を選ばない、羽多野はそういう人間だ。
「でも……ほら、俺、ちょっと最近また忙しくて」
苦笑いしながら何度繰り返したかわからない「忙しい」という言い訳を繰り返す栄に向かって、長尾が一呼吸置く。その表情に奇妙な深刻さを感じたのは気のせいだっただろうか。
「じゃあ、どうですか? ドル円が3ヶ月前の水準に戻ったら食事に行くっていうのは。そうすると谷口さんの仕事も少し落ち着くでしょう」
珍しく食い下がる長尾は、微妙に断りづらい提案を重ねた。
面倒見がよく人懐っこい男の誘いを疎ましく思うべきではないとわかっている。それでも栄はこのとき本気で、目の前にいる同僚の口を塞いで玄関からたたき出してやりたい衝動に駆られた。
背後で、壁を叩くような音が聞こえたのはおそらく気のせい。あまりに神経質になっているがゆえの幻聴。だが、長尾の滞在が長引けば羽多野の機嫌は悪化して、いよいよ悪ふざけ……というか嫌がらせをはじめるかもしれない。
遠回しな言葉で断っても長尾には通じないことを、栄はいいかげん学んだ。あきらめるどころか、「多忙」「遠慮」を言葉通りに受け止めた結果、逃げ道を塞ぐような提案を重ねて事態を悪化させる。
こうなっては背に腹は代えられない。栄は覚悟を決めた。人との縁を切るには、嫌われるの覚悟でひどい態度を取るもしくは――手切れ金的なものに限る。
「ちょっと待っていてください」と言い残しリビングへ行くと、棚からウイスキーを一本手に取る。紙袋に入れたそれを差し出すと長尾は目を丸くした。
「谷口さん、これは?」
押しつけたのは、それなりに高価な酒。もしかしたら長尾が持ってきた食品すべてを英国内で手に入れるのにかかる費用を上回るくらいの。
だが、乱暴な言葉なしに長尾を黙らせるにはこれしかないのだ。
「仕事も忙しいし、夜はオンラインで語学や経済のコースもとっていて、本当に時間が取れないんです。毎回お断りするのも心苦しいから、これでとりあえずチャラってことにしてください」
長尾も酒は好きだと言っていた。渡されたウイスキーが安い物でないことを察してうろたえる。
「よしてくださいよ、お礼なんて冗談です。お忙しいのに誘い続けてたのがご迷惑だったならすみません。こんなものいただくわけには……」
「いえいえ、俺も貰いっぱなしだと気が咎めるので! 実は俺は最近酒も控えているんです。どうぞこれはお友達とでもご一緒に」
節酒というのは当然嘘だが、酒瓶を押しつける理由のみならず今後飲みに誘わないで欲しいという意思表示にもなるはずだ。強引に長尾の手に紙袋を押しつけると、これで用件は終わりとばかりに彼の方をドアに向けて押す。
栄にとって精一杯の拒絶は、さすがの長尾にも届いたようだった。気圧されたように数歩後ずさりして、飼い主に叱られた犬さながらのしゅんとした様子でようやくドアノブに手を掛けた。
「かえって谷口さんに気を遣わせてしまったようで、申し訳ありません」
力なく垂れ下がった耳や尻尾が浮かび上がりそうな落胆に、罪悪感が刺激される。だが情に流されては元の木阿弥なので、栄は心を鬼にして長尾の背中を見送った。
バタン、と扉が閉まるや否や、気の変わった長尾が戻ってこないよう内側から鍵をかける。そのまま息を殺して数秒、数十秒、一分。長尾が完全に撤退したことを確信した瞬間、気が抜けて栄は膝から床に崩れ落ちた。
と、見計らったように背後のドアが開く。
「俺はまだ、出てきていいなんて言ってませんよ」
疲れ果てて覇気のない栄の言葉は当然のごとく栄の言葉は黙殺されて、羽多野は廊下の端に置いてあるビニール袋を手に取った。
「何だよ、わざわざお裾分けっていうくらいだからよっぽど貴重な食い物をくれるのかと思ったら、そこへんの日本食材店で売ってるようなものばかりじゃないか」
「羽多野さんって、本当に捻くれてますね。人の親切をそんなふうに言うなんて人間性を疑います」
栄もまったく同じことを思ったにも関わらず、羽多野に指摘されるとついつい反論したくなる。
もちろんそれは羽多野にとっては面白くないことだ。
「親切ねえ……」
疑わしげにつぶやいてから、栄が懸念したとおり羽多野は嫌味ったらしい追及を開始する。
「そういえば玄関先だけって言ったのに、家にあげたりお礼を渡したり、ずいぶん仲が良さそうだったよな」
「トイレ貸してくれって言うから仕方なしにですよ。お礼を渡したのだって、食事や飲みに誘われるたびにいちいち断るのが面倒だから、これ以上はやめて欲しいっていう意味です」
「これ以上は、って。そんなに頻繁に誘われてるんだな。第一、やって来るのがあのときの自衛官だって君は言わなかった」
案の定だ。ネチネチと、まるで栄がわざと他の男と親しい様子を見せつけようとしたとでも言わんばかり。
「言う必要がないからですよ。彼はただの同僚で、男に興味があるわけでもないし、俺だってそういう目で見たことはないです。もういいでしょう、この話は終わりにしましょう」
ただでさえ気疲れしているのに、これ以上羽多野と不毛なやり取りを続けたくはない。呆れ果てたように吐き捨てたところで、羽多野がビニール袋の中から取り出した手のひらサイズの箱を差し出してきた。
「で、日本食材のお裾分けなのに、なんでこんなもんが入ってんの?」
それは長尾がポッキーとの味比べのために買ったという「ミカド」だった。