「……そういえば、さっき部屋で飲んでましたよね」
高熱の次はアルコールを疑ってくる。どうやら栄は羽多野の言動を何かのせいにせずにはいられないらしい。要するに「おまえは正気とは思えないレベルおかしなことを言っている」と当てこすっているのだろう。
「あのくらいで酔うはずないって知ってるだろう」
部屋に押し込められた憂さ晴らしにウイスキーを取り出したが、ストレートとはいえ飲んだのはグラス半杯ほど。酒に強い羽多野にとっては飲んでいないも同然の量だ。
「酔ってないなら、俺がそういう悪ふざけ嫌いってこともわかっているかと。そんなことより荷物、元に戻さなきゃ」
すっと視線を逸らして、ついでに話も逸らそうとする。さっきまで慌てて隠した荷物の現状復帰を押し付けようとしていたことは忘れたかのように、栄は先に立って羽多野の寝室に入っていった。
羽多野は長尾なる男が持ってきた袋を抱えたままで後を追う。
一応は「愛の巣」であるはずの家に無遠慮に踏み込まれた不快感を昇華するために、この機会を逆手にとっていい思いをさせてもらったところでばちは当たるまい。羽多野の心はすでに決まっている。というか、自分でも意外に思えるほどむきになっている。
ポッキーだろうがMIKADOだろうがどっちだっていい。手近な方の箱をさっと開けて、中の袋を端から切った。
わざとらしいまでに羽多野の存在を無視しながら、栄はゴミ袋を手にする。一番上に投げ込まれているオールデンのコードバンを手にして、窓から差し込む日光に透かすようにして傷の有無を確かめる。
ビジネスシューズなどしょせんは道具だと考えている羽多野とは異なり、革製品に愛着を持つ栄は、高級靴というのは常に傷ひとつなく、適度な湿度を保ってピカピカな状態であるべきだと信じている。
「靴なんかどうだっていいだろ。何ならついでに全部メンテナンスに出そうか。いい機会だ」
言いながら、取り出したポッキー……いやMIKADOを一本口にした。おそらくMIKADOを食べるのは初めてだが、子どもの頃口にしたポッキーとさして味は変わらないような気がした。
「羽多野さんって、持ち物を大事にしないですよね。そんなんじゃ、いくらいい靴を買ったところで宝の持ち腐……」
咎めながら振り返った栄は、すでに準備万端の羽多野を見て明らかにうろたえる。
「ちょっと、人がもらったもの何勝手に開封してるんですか」
本当に問題視しているのはそんなことではないのに、あえて本題から目を逸らしたくてずれた物言いをする。そんな栄の習性はわかっているし、わざと素知らぬ顔で付き合ってやることもある。ただ、今がそんな気分ではないだけで。
くわえたMIKADOをゆらゆらと揺らして見せてから、羽多野は我ながら意地の悪い笑みを浮かべ、意地の悪い言葉を口にする。
「やなんだろ? 俺が他の誰かと〈初めてのポッキーゲーム〉するの。だったらお互いポッキーゲーム童貞を今卒業するのが現実的じゃないか」
「どっ……、何言ってるんですか! それに俺は責めてなんていません」
品のない言葉選びに眉をひそめて言い返す栄だが、説得力はない。さっきの口ぶりは明らかに、羽多野の過去をうたぐり、責め立てようとしていた。
羽多野は、栄の過去については割合無頓着だ。過ぎ去った日々や終わってしまった関係に嫉妬したところで時間の無駄だと思っている。だが、彼が未だ経験していないことがあるならば――。
何であろうと相手が自分であるに越したことはない。
さて、不審に満ちた眼差しでこちらを見つめている恋人を、どうやってその気にさせようか。羽多野にとってはむしろこちらの方がポッキーゲームなどよりずっと刺激的で面白い遊びだ。
「確かにな、谷口くんがこういうゲーム嫌いっていうのはわかるよ」
思わせぶりな言葉は、見え透いた釣り針。だが、極めて短気な栄はそれを無視することができない。
「知ったような口きかないでください。何でそう思うんですか」
まんまと食いついてきたところに、おもむろに続ける。
「ものすごく弱そうだから」
「はあ!? 何を根拠に!」
案の定、わかりやすい侮辱の言葉に栄は顔を赤くして言い返してくる。ここまでくれば後はもう一押し。
「自意識過剰で羞恥心が強いから。そういうタイプはこの手の遊びに弱いんだ。すぐに耐えきれず、顔を背けるに決まってる」
「そんなこと……」
ない、と言い切りたい。でも否定すれば羽多野の思うつぼ。栄の表情に逡巡が見てとれる。微かに残る迷いを振り切れるよう、羽多野はもう一本MIKADOを取り出し、チョコレートをまとっている方を栄の側に向けてくわえた。
悔しければ行動で示してみろ。サインは明確だ。
でも、きっと栄だってわかっている。どちらかが顔を背けることのみでゲームの勝敗が決するのだとすれば、羽多野が敗北することなどありえないことを。そして二人とも意地を通しきった場合は唇と唇が触れ合うことになるのだから、結局は羽多野の勝ちに等しい。
ベッドに腰掛けて挑発的な表情を浮かべる羽多野を睨みつけながら、栄はじりじりとにじり寄ってくる。そしていざ心を決めたとばかりに、チョコレート菓子に顔を近づけてきた。
抱き合うときにはもっと近づくことはある。しかし明るい中での情事を嫌う栄は、普段はせいぜいベッドヘッドの間接照明ひとつしか許してくれないから、太陽光の中で近づいてくる恋人の顔は新鮮だ。しかも、意地の悪い羽多野に負けるまいと、長いまつげに縁取られた両目を見開いて――。
羽多野はレアな構図を焼き付けようとまばたきを堪えた。
が、それも一瞬のこと。パキッと乾いた音が響き、栄の顔は再び遠ざかる。
「俺をあんまり見くびらないでください」
そう言って栄は、半分ほどに折れたMIKADOを形の良い唇の内側に飲み込み、咀嚼しながら不敵な笑みを浮かべた。
「残念でした。そんな安っぽい挑発に乗ると思いました?」
羽多野がこうなる可能性をまったく思い描いていなかったといえば嘘になる。とはいえ、99.9パーセントは勝ちを信じていただけに、虚をつかれた気分だった。
「……ちぇっ。いけると思ったんだけど計算違いか」
さっきより苦いMIKADOを味わいながら、思わず舌打ちをする。単純な栄のことを見切っているつもりではいるが、たまにこんなふうに肩透かしを食らうことがある。
と、意地悪い勝利の笑みを浮かべていた栄がふっと目を伏せる。拗ねるような恥じらうような微妙な表情の変化と同時に呟かれる言葉。
「そういうとこ、腹立つんですよ。俺の考えが読めると思ってるのかもしれませんけど、全然ですから。昨日だって――」
そこでハッとしたように口をつぐむ。
小競り合いに勝利したと思って、きっと栄は気を緩めてしまったのだ。そして今度こそ羽多野はチャンスを掴み逃さない。
今、栄は何と言った?
昨日、羽多野が彼の考えを読み違えたのだとすれば、いつ、どのタイミングで?
ここ数日円安対応で忙しくしていた栄は疲れているだろうと、こちらとしては先回りして配慮したつもりだった。毎週心待ちにしている「金曜の夜のお楽しみ」を紳士ぶって手放したが、本当は悶々としてしばらく眠れないままでいたのだ。だが、もし栄も、昨晩風呂から出たときに羽多野の部屋の明かりが消えているのを見て落胆していたのだとすれば――確かに、大失態。
「それは、悪かった」
珍しくすぐさま謝罪を口にした羽多野に、栄が訝しげな視線を向ける。次の刹那、完全に警戒の緩んだ腕を引っ張り、羽多野は栄をベッドに引き摺り込んだ。
失態上等。敗北も上等。紳士ぶるのはやっぱり柄ではない。腕の下で驚愕の表情を浮かべる栄に、形勢逆転とばかりに羽多野は囁いた。
「なんだ、やりたいならやりたいって、言ってくれれば良かったのに」