ミカドゲーム(8)

 甘く意地悪く囁いてから羽多野が不敵に微笑むと、栄の端正な顔に浮かぶ感情は驚きから、わざとらしい哀れみへと変わる。

「……とうとう頭が……」

 高熱、酔いの次はついに発狂を疑うつもりだろうか。ワンパターンな反応には食傷するが、よく見ればさっきまでとは異なり、栄の耳元はほんのり赤らんで目元にも微かなはにかみの色が浮かんでいる。

 それどころか、顔を近づけて瞳をのぞき込むと、ますます気まずそうに視線を泳がせた。

「昨日だって」、と、あそこで言葉を止めたのは、彼自身が失言であることに気づいているから。目を合わせたがらないのは、羽多野に言葉の続きを悟られたことを恥じて、どうにかごまかせないかと考えているから。

 羽多野だって人間だから、たまには栄の反応を読み違えることはある。しかし、自らの過ちを認めたがらない栄と違って、羽多野には自らの失敗を分析し改善し、再チャレンジする柔軟性――悪くいえばねちっこさを持ち合わせているのだ。

「片付けの途中です、どいてください」

 動揺の滲む声色すら、今度こそ正解を確信した羽多野には心地よい響きだ。

「いいよ、片付けなんか後で全部俺がやるから」

 視線を追いかけるのはひとまず止めて、代わりに左の耳たぶに触れるか触れないかの軽いキス。羽毛のようなタッチに栄のきめ細かい肌が粟立つのがわかった。

 淡い接触に意外なほどざわめくのはこちらも同じだ。一週間と一晩のお預けの後で、唇に触れた恋人の肌。鼻腔をくすぐる彼の香り。それだけで胸の奥がざわめくような、腹の奥が熱くなるような、言いようのない感覚が湧き上がる。

 情緒のかけらもないような直情的で野生的な行為もいいが、思春期のようなまどろっこしいステップを踏んで感情と欲望を高めていくのも悪くない。とりわけ、相手が思春期レベルの自意識と羞恥心をいまだ持ち合わせている栄である場合は。

 軽いキスから数秒あけて、今度は耳たぶをペロリと舐めて緩く咥える。戯れるように軽い甘噛みを繰り返しながら反対側の頬をさわさわと撫でさすると、触れている場所から戸惑いが伝わってくる。

 激しく強引に迫れば反射的に抵抗してくる。優しく触れて、セックスに向かっているのいないのか曖昧にしているうちに行為になだれ込むのは、栄を穏当に誘うときの黄金パターンだ。

 意地悪く組み伏せたい日もあれば、穏やかに甘い時間を過ごしたいときもある。今の羽多野はちょうど、中間の気持ちだ。

 栄に後ろめたい感情がないことは重々理解しているが、いくら同僚相手で断りにくいとはいえ少々あの長尾という男につけ込まれ過ぎてはいないか。荷物ごと寝室に隠されるというのは、ドラマや映画ならばむしろ間男の役回り。そんな茶番に付き合わされたのだから、少しくらい意地の悪い意趣返しをしたところで責められまいという感情。

 一方で、思いがけず知ってしまった昨晩の本音。羽多野が紳士ぶってこのベッドで悶々としていたとき、壁を挟んだ隣室で栄も同じような焦燥に苛まれていたのだとすれば何とも滑稽で――いじましくて、可愛らしい。

 栄に性欲がないなどとは思っていない。前の恋人との破綻の原因の一部がセックスレスであることは事実だろう。栄本人はそれを、そもそも自分は一般的な男よりそっちの欲望が薄く、そこに加えて仕事のストレスで下半身が役に立たなくなったことによるのだと分析している。

 後者は確かに事実、というか「仕事のストレス」の一定程度は羽多野のせいだったりもする。だが前者については同意できない。

 耳たぶを軽く愛撫しただけで身悶える反応の良さ。一時期は撫でても擦っても何の反応も示さなかったという下半身は、今では簡単に反り返って、卑猥な血管を浮かび上らせる茎を甘い蜜で濡らす。触れなくたって高まれば窄まりをひくつかせ、奥まで貫き揺さぶってやると身も世もなく悶えては、堪えきれず甘い声をあげる。

 単純に、臆病で人目を気にして失敗を恐れる彼には、セックスを主導する役割が向いていないのだ。本音では栄だってわかっているはずだが、昭和的マチズモを滑稽なまでに内面化してしまっている彼は、自身が「男らしいセックス」に向いていないなどとは決して認めたくない。故に栄は「極めて理性的で紳士的であるのでセックスには慎重であり、かつ欲求も強くないタイプ」と嘯くことで自分を誤魔化してきたわけだ。

 求められて、流されて、ときに甘やかされたりいたぶられたりする羽多野との行為に「嫌々」の体で応じることは、栄の厄介な自尊心をギリギリのところで守りつつ、本来の欲望を満たすことを可能にする。我ながら便利な男だと思うが、そんな栄を腕の中に留めることで羽多野はささやかな自尊心や征服欲を満足させる。要するに、お互い様ということ。

 打算、妥協、利害の一致。どれも上等。愛や情が後ろからついてくれば、なお良い。大人と大人の関係など、そんなものだろう。

 だからこそ栄にとって利用価値のある人間で居続けること。それは現在の羽多野にとって重要なテーマだが、それにしても――。

「俺もまだ、修行が足りない」

 余裕がない栄の「その気じゃない」に配慮することは覚えた。だが、その先が足りなかった。

「修行?」

 甘さの混じりはじめた声が、聞き返す。

「そう、谷口くんだって、疲れてるけどやりたい夜くらいあるよな」

「だから、さっきからあなた一体何を勘違い……」

「風呂から出て、俺の部屋のドアが閉まってるの見て、がっかりした?」

 すっかり濡れそぼった耳たぶから唇を離し、羽多野は昨晩自分の知らないうちに密かに繰り広げられた光景を思い浮かべる。

 一週間分の疲れで体はずっしりと重いが……だからこそ、人肌が恋しい夜。もしかしたら後でシャワーを浴び直すことを予想して、バスルームから出てきた栄の髪は微かに湿っていたかもしれない。その後の行為を思い浮かべ、念入りに洗い清められた体。昼間使うフレグランスより甘さが強いボディローションの香り。

 ドアが閉じたていることに気づいたときの落胆。いや、苛立ち、怒り? もしかしたらドアの前に立って少しくらい悩んだだろうか。しかし、ドアの開け放たれた寝室を訪れることが当たり前になるまでにも葛藤があったであろう栄が、こともあろうか閉じたドアをノックして「抱いてくれ」など。

 そろそろ獲物を追い込む時間帯。羽多野は栄の両頬を撫でるように包み込んで無理やりのように視線を合わせた。大丈夫、潤んだ瞳は昨晩から燻ったままの熱をはっきりと意識している。

「がっかりなんかしてないし、ドアが閉まっていることも知りませんでした。疲れてたから昨晩はぐっすり……っ」

 答えにくい質問への回答を迫られて、苦しい言い訳を紡ぐ。その唇に噛みついた。

 嘘つきで強情で憎まれ口ばかり叩く唇は、いつだって甘い。平日にも許される軽いキスや戯れとは明らかに異なる前戯としてのキスならば、とりわけ。

 羽多野の「誤解」を正さないまま流されることへの抵抗からか一瞬体を硬くした栄も、引き結んだ唇の力を緩める。ウイスキーの苦味と、廉価品チョコレートの甘さが唾液越しに伝わっただろうか。

 ポッキーゲーム? そんな子ども騙しより、こうして互いを直接味わう方がよっぽどいいに決まっている。今ごろ虚しく街を歩いているであろう顔も知らない男を思い浮かべ、羽多野は勝ち誇った。