日の高いうちから、散らかった部屋で。
もちろんこの部屋はあの日のあの部屋と比べるとよっぽど清潔だ。東京から一万キロ弱。距離的にも、おそらくは関係性としても自分たちはずっと遠くまできてしまった。
すべてを失うのは二度目。そこに追い打ちをかけるように、かつて用済みになった自分を捨て去った女からの連絡。
不意に湧き上がる孤独と絶望の記憶は研ぎ澄まされたナイフのように羽多野の喉元をひやりと掠めて、去る。
あのとき栄がいなければ、羽多野はどのような人生を送っていただろうか。短絡的な復讐心に駆られて取り返しのつかない行為に及んでいただろうか。だが東京まで追ってきた栄が言ったとおり、もし死を前にした老人に憎しみをぶつけていたとして、残ったのは新しくより深い傷だけ。その傷は膿んで腐り、今度こそ再起不能なダメージをもたらしたかもしれない。
出会った瞬間から一方的な偏見と劣等感で理不尽にきつく当たり続けたひどい男相手に、栄は望むとおりの正論を与えて暗い場所から引きずり出してくれた。
彼の生真面目さと不器用さはいつだって羽多野には眩しい。だからこそ美徳と表裏一体の欠点に振り回されることすら――苛立ったり怒ったりしつつも、愛おしい日常の風景になる。
過去は消えないし、長年培ったどろどろと醜い感情も完全に失われることはない。それでも、長い遠回りの末に羽多野はようやく本当に求めていたものを知った。少なくとも〈それ〉がここにある限り、社会に留まり世界とつながる意味を見出すことができる。
羽多野が世間的には「シンクタンク勤務のエリート」で、キャリア公務員より高い収入を得ていることは、負けず嫌いの栄にとっては鼻持ちならない。隣に立つために「相応しい身だしなみに肩書」を要求してくる男がいるからこそ羽多野が今の羽多野でいることに、栄はまったく自覚的ではないのかもしれないが。
谷口栄という高嶺の男を、昼間からベッドに引きずり込む権利を所有している優越感は、秘蔵のウイスキーなんかよりよっぽど強く羽多野を酔わせる。
抵抗されないのをいいことに、口付けは深さを増す。
明らかに「その気」であるはずなのに、積極的に応えてこない唇や舌の戸惑いが微笑ましい。「俺だって男ですから」と口癖のように主張してみせる割には欲望との向き合い方はどこまでも不器用だ。面倒に思うことも多いが、変わりやすい機嫌に応じて攻め手を考える歓びは大きい。
「……っ」
口蓋は、口の中でとりわけ弱い場所。ざらつく粘膜を舌で強く擦ると、背中が弓なりに弾んだ。
一歩家を出たら憎たらしいまでに取り澄ました姿を崩さない栄がこんなに容易く乱れるだなんて、一体誰が想像するだろう。
いや。誰にも、思い浮かべることすら許したくはない。
一度は勝ち誇った気分になったにも関わらず、自分でもよくわからない焦燥……というよりむしろ独占欲が湧き上がった。
舌が痺れるほど長いキスから解放すると栄は荒い息を吐く。体力には自信のあるはずの男だが、クロールとセックスでは使う筋肉も呼吸法も異なるのだろう。それに羽多野にも、ベッドの上はこちらのフィールドだという自負がある。
「谷口くん」
名前を呼んで、両頬を包み込んでいた手を滑るように動かし前髪をかき上げる。出勤する日よりはラフであるものの「休日のリラックススタイル」のお手本のようにセットしてある髪を崩して形の良い額を手のひらで味わうと、唾液で唇を濡らした栄はくすぐったそうに目を細めた。
警戒の薄れた姿に、ふっと魔がさす。
「いまさら遠慮することないだろ。やりたいならそう言ってくれれば良かったのに」
ここまでくれば抱き合うことにストップはかからないだろうと計算した上で話を蒸し返した。多少の意地悪はむしろスパイスになる。
「そういうわけじゃないって言ったでしょう」
「だったらさっき、何を言おうとした? 『昨日だって』何?」
しつこい追及で耳腔をくすぐる。手のひらに、言葉と吐息。さらには重なった体を擦り合わせるようにして全身でゆるゆると欲望を刺激すると、栄はとうとう白旗を上げた。
「羽多野さんが思ってるような意味じゃないです。ただ、これからもっと忙しくなって余裕なくなるのは見えてるんだから、だったらまだ今のうちにって、ちょっと頭をよぎっただけで……」
いや、白旗を上げたというのは言い過ぎか。少なくとも頭上にまでは上がっていない。腰のあたりまで、背中に隠すように控えめに上がった白旗を思い浮かべて羽多野は苦笑する。
「いい年してがっついてる俺が、干上がって死なないようにってことか。それはありがたい配慮だな」
欲情して抱かれたかったと言えない栄の、苦しすぎる弁明。いつだってわがままで強引で欲深いのは羽多野。栄はそんな羽多野に慈悲を与えてくれるだけ。まあ、完全に間違いとも言えないのだが。
「だって、ほら。ペースを崩すと結局こんなふうに変なタイミングで」
差し込む光を気にするように、栄は窓へ目をやる。昨晩に仄暗い灯りの中で抱き合っていれば、昼の光の中で痴態をさらけ出すことにはならなかった主張したいのだ。
だが、羽多野に言わせればそれは理不尽だ。だって、思わぬ来客がなければ羽多野の自制心は何の問題もなく継続するはずだったのだから。
優しくしたい気持ちと、意趣返ししてやりたい気持ち。ほとんど釣り合っていた天秤がぐらりと後者に揺れた。
「変なタイミング? 君が俺を部屋に押し込めてどこぞの男に愛嬌を振り撒いてなきゃ、紳士的な週末が続いていただろうな。煽ったのは谷口くん、君の方だ」
「煽ってなんかいないし、愛嬌なんか振り撒いていません。まるで俺が誰彼かまわず粉かけてるみたいな言い方、侮辱です」
強い言葉で反論してくるが、問題は栄にその気がないから何も起きないとは限らないこと。まだ学習が足りないのかと呆れてみせると、少し前に二人の関係に波風を立ててきた男のことを思い出したようだ。
「ジェレミーのことは悪かったって言ってるでしょう。でも長尾さんは一年も同じ職場にいる同僚です。どんな人かも知ってるし、そういう気配を感じたことはありません」
自信たっぷりなのは何よりだが、谷口栄に搭載された色恋センサーは極めて性能が悪い。それこそが根本的な問題だ。
「じゃあ君さ、俺とこうなるって思ってた?」
「全然。これっぽっちも」
栄は自信たっぷりに即答した。悩む素振りを見せるサービス精神などさらさら期待していないが、羽多野の心はさらに「優しさ」から「お仕置き」に傾いた。
「ほら。全然予感もなくて好みでもない相手とだってこうなるんだから、先のことなんかわかんないだろ」
額に置いた手のひらを頬に滑らせ、首筋を撫でて、鎖骨をくすぐってから、まだ縮こまったままの微かな突起を爪先でキュッとシャツ越しにつねりあげる。
「……っ」
「だから、他に目をやる余裕なんか生まれないように、ご奉仕させていただくしかないな」
「あ、待って……」
羽多野に触れられる以前なら顔をしかめるばかりだっただろう乱暴な愛撫に、栄は敏感に震える。痛みも羞恥も用量と用法さえ守ればただの媚薬。もちろんその媚薬を処方できるのは羽多野だけなのだ。