パブでの邂逅、編


「クリスマス編」の翌年6月くらいの長尾です。相変わらず夢みてます。


 秋の日はつるべ落としというが、その逆はなんと表現すればいいのだろうか。そんなことを考えてしまう程度には、ロンドンの春はみるみるうちに昼が長くなる。

 三月末に夏時間になってからしばらく経つとイースター。それから五月、六月。気づけば日没時間は夜九時を過ぎていて、体感的には十時過ぎまで空は明るい。暗く寒い冬のあいだは店内にこもっていた飲食店の客はテラス席に集うようになる。それどころかテラス席のないパブですら、人々はジョッキを手に店外に出ていく始末だ。

 ここはロンドン、グリーンパーク。駅を出ればすぐ目の前にかのホテル・リッツ。ピカデリー・サーカスやナイツ・ブリッジといった繁華街から近いが、公園グリーン・パークの正面にある在英国日本大使館の近隣はちょうど喧騒と喧騒の切れ目に当たる閑静なエリアだ。一歩裏道に入れば、大使館員をはじめとする地元のオフィスワーカーを相手にする渋い雰囲気のパブも多い。

 初夏の暑さを感じさせる日の夕方、店内に足を踏み入れると、長尾はまっすぐカウンターに歩み寄り、小銭を差し出しながら「グリーンキング、ワンパイント」と駆けつけの一杯を注文する。

 口髭をはやした男性店員がカウンターに並ぶタップからパイントグラスに手際良くビールを注ぐ姿は実に様になっている。黄金色に輝く液体にはきめの細かい泡がたっぷり乗って、手渡された瞬間、期待に喉が鳴った。

 一週間の仕事を終えた金曜の夕方にこれほど美味いものはない。と、グラスに口をつけて一気に傾けるが、グラスを口から離した長尾の顔にはあからさまな落胆の表情が浮かんでいたかもしれない。

 この国の人々にとって英国のパブ文化は世界一で、英国のビールが世界一であることは理解している。長尾だって英国のビールは好きだ。苦味の強いペールエールや、まるでパンを食べているようにずっしりと重い黒ビールなど、日本ではまだまだ一般的に楽しまれているとは言い難い多種多様の銘柄も新鮮な状態で、しかも安価で楽しむことができるのはビール党にとっては最高の環境であることは間違いない。

 だが――この国のビールは押し並べてのだ。

 まったりとした泡や濃厚なビールを味わうためには、冷却など必要ないのは理解する。一年を通して涼しい時期が多く湿度も低いヨーロッパの気候には、この飲み方がよく合っている。

 しかし、問題は近年の温暖化だ。暑い時期の一杯目に限っては、キンキンに冷えた日本の生ビールに勝るものはない。その思いは英国での夏を重ねるごとに強くなる。

 まあ、飲んでいるうちにそんなことどうだってよくなるのだが。などと内心でぼやきながらグラスを傾けながら、長尾は大使館を出る前に廊下ですれ違った谷口栄のことを思い出す。

 ビールの味に文句のひとつも付けたくなるのは、今日も彼を誘い出すことに失敗した無念のせいなのかもしれない。

「谷口さん、外出だったんですか? 金曜なのに」

 すれ違いざまに長尾が訊ねると谷口はいつものように爽やかな笑顔でうなずいた。

「ええ、商工会との会議だったんですけど、長引いてしまって」

「それは災難でしたね。もう帰れるなら、厄払いに〈コレ〉、行きます?」

 もしや久しぶりに訪れたチャンスではないか、胸を高鳴らせながら長尾は胸の前でグラスを傾けるジェスチャーをするが、谷口はさも残念そうに首を左右に振った。

「それが、日本から報告を急かされているんです。公電は来週ゆっくりやるつもりですが、簡単なメモだけでも今日のうちに送っておかないとどやされそうで」

「あ……、そうなんですか」

 金曜の夜を残業で潰さなければならない谷口を前に、自分勝手な感情を顔に出すことはできない。長尾は精一杯努力して「気の毒でしかたない」顔を作った。

 だが、正直いってものすごく落胆した。何しろ昨年秋に出張からの戻りが遅れたせいで食事の約束をふいにして以来、なんと長尾はたったの一度も、谷口と酒席をともにする機会を得ていないのだ。

 谷口の秘書役を務めるトーマスがクリスマス前に告げた「谷口さんは年明けから忙しくなると思います」という忌まわしい予言は、今のところ当たっている。

 いつ聞いてもおうむ返しのように「お忙しいと思います」としか返事しないトーマス青年のことを長尾はもはや信用していない。よって他の経済部の面々からさりげなく業務の繁忙を聞き出すなどしてチャンスを探っているのだが、それでも誘うたびに谷口は申し訳なさそうに首を振るのだ。

「せっかく誘っていただいたのに申し訳ありません。また今度、機会があれば是非」

 その言葉を聞いた回数は両手では足りない。救いは、谷口の表情や口振りがとてもではないが社交辞令を言っているようには見えないことだ。

 次回こそは。そう祈りながら長尾は仕立ての良いスーツに包まれた谷口の背中を見送る。谷口の姿は見るたびに色気を増すような気がするが、これもたまにしか会えず思いが募っているせいなのだろうか。

 

 ――惜しかった。谷口に急ぎの作業さえなければ。

 早くも一杯目を飲み干そうとしながら長尾はつぶやく。

 一体どうしてこんなにタイミングが悪いんだろう。きっとコウキに愚痴れば「縁がない」「運命の女神に反対されている」などと意地の悪いことばかり言われるのだろう。もちろん長尾自身はそんな縁起の悪いこと微塵も考えてはいないが、いくらなんでも十ヶ月間飲みにも行けないのは辛い。

 思わずため息をついたところで、すぐ隣に人の気配を感じた。ちょうどあちこちのオフィスが仕事を終え、パブは混みはじめる頃合いだ。顔を上げないまま左に半歩ずれて、その人物のためにスペースを作った。

「バス・ペール・エールをワンパイント」

 注文を口にしたままの流れで男は店員と何やら雑談を続けている。

 こなれた英語ではあるが、リエゾンの強い話し方はおそらく英国人ではない。アメリカ人だろうか――英語のアクセントから出身地を推測するのは、ひとりで飲んでいるときの暇つぶしに長尾がよくやる遊びだった。

 やがて視界の隅をグラスが横切る。さてアメリカ人旅行者もしくはビジネスマンの顔を見てやろう、そう思って横目を向けると、残念ながら今回の答えは「ハズレ」。そこにはしゅっと背の高い日本人の男が立っていた。

 なかなかいい男だ、と値踏みしてしまうのは習性。しかしどことなく気難しそうというか、あまり親しみやすくなさそうだ。品は良いが冷たそうで、どこか貪欲な雰囲気も秘めた男。こういう鼻につくオーラを長尾は好まない。長尾の好みはもっと爽やかで寛容で王子様のような――まあ、いってみれば谷口栄なのである。

 隣に立つ男が身につけているものは超高級品というほどではないが、体や雰囲気にぴったりと合っている。さては英米企業のエリートといったところか。まっすぐ家に帰る気になれないとき長尾はこの店によく寄るが、見覚えがないことからすれば近隣で働いている人物ではなさそうだ。

 虫が好かないタイプなので、当初は話しかけるつもりはなかった。だが、手にしたグラスの中身を勢いよく口に流し込んだ男の眉間に一瞬だけしわが寄るのを見て急に気が変わった。

 男は決してIPAの苦味を楽しんでいる様子ではなかった。整った顔によぎる失望。きっと彼は「こんな日にはキンキンに冷えた生ビールが飲みたい」、そんなことを考えているはずだ。

 嫌な感じの男だと思ったのに、ふとした親近感が湧いた。週末の開放感、谷口に誘いを断られた寂しさ……そんなものが積み重なったせいで、長尾はつい口を開いていた。

「日本人の方ですよね」

「……ええ」

 こちらを向いた男は、軽く片眉を動かしてうなずいた。そしてグラスを目の前に掲げて見せる。

「英国のビールはうまいですが、暑い日の一杯目だけはもうちょっと冷やして欲しいものですね。これもアジア人に染み付いた性分でしょうか」

 予想は的中。もしかしたら見た目ほど嫌味な人間ではないのかもしれない。男が場所を動こうとしないのを雑談OKと受け取り、長尾は話を続けた。

「ご出張ですか? それともこちらにお住まいですか?」

「仕事です。まだ英国に来て半年くらいですが」

「英語がずいぶん流暢でうらやましいです。私はそろそろ二年になりますが、いい年なのでなかなか上達しなくて」

 元々語学が趣味なので普段の仕事上のコミュニケーションに困るというほどではないが、ネイティブはだしの発音でこなれた会話をする男を見ると羨ましくなってしまうのは事実だ。

 すると男は微笑む。

「ああ、英国はまだ短いですが、北米に長くいたので」

 やはりそうか。口振りからして若い時期の留学経験がある――もしかしたら帰国子女なのかもしれない。知らない人間にあまり立ち入ったことを聞くわけにもいかないが、酒のつまみ代わりに長尾は内心でこの男の素性を想像する遊びをはじめた。

 年の頃は三十代後半くらい。見た感じは長尾と同世代くらいだが、やたらと落ち着いて自信に満ちた雰囲気からすればいくらか年上なのかもしれない。北米の大学でMBAを取得したエリート外銀マンか外資系コンサルといったところでどうだろう。生活感がないから、家には美人の専業主婦と――子どもの代わりに大型犬が一匹。いや、英国に半年で大型犬はないか。国境を挟んで動物を移動させるには検疫という難題が降りかかる。

「北米に英国ですか。経験豊富なのはうらやましいです」

「そんな、いいことばかりでもないですよ」

 澄ました口調は謙遜としか思えないが、長尾はふと今日、この夏に転任予定の外務省職員が愚痴っていたことを思い出す。

「国をまたぐと家族の帯同で毎回揉めるとか、そういう話はよく聞きますよね。どんな環境でも苦労はあるもんだなと……」

 大抵は人生を国内のみ、多くとも二度か三度程度の海外赴任で終わる一般的な公務員と比べれば外務職員は圧倒的に海外勤務期間が長い。しかも平等を期すために暗黙の了解で先進国と開発途上国のローテーションで異動を繰り返すのだという。治安や衛生に問題のある国への赴任に至っては、家族内でのいざこざになることも多いと聞く。

「ご家族も一緒にいらしているんですか?」

 男はあくまで社交用の笑顔を浮かべたまま、長尾に問う。

 スマートな様子を崩さない彼に見栄を張りたい気持ちは山々だが、嘘をつくのは性分ではない。卑屈な照れ笑いを浮かべて長尾は頭をかいた。

「いや、私は独り身なんで気楽なもんですが……。そちらは?」

「恋人と一緒に暮らしています」

 突然あっさりとうらやましいことを言われて、長尾は言葉に詰まった。

 妻ではなく「恋人」というのが意味ありげに聞こえる。

 しかも長尾は、近年どんどん厳しさを増している英国のビザ事情をしっている。「英国で働く外国人」の「恋人」程度で帯同ビザが降りるわけはないのだ。ということは、つまり。

 さすが、見た目が洗練されて語学も堪能な男は違う。恋人も現地調達というわけか。少しでも張り合いたいところだが、根が田舎者の長尾は自信たっぷりの態度を取られると弱い。

「ああ、こちらの方とお付き合いされているんですねえ」

 へらへらと笑うと、相手は首を左右に振った。

「いえ、パートナーがこちらに赴任しているので、俺もここで仕事を探したんです。相手は任期付きなので、数年後にはまた転職活動ですよ。そう言う意味じゃやっぱり面倒ですね」

 恋人の勤務地に合わせて転職だと?

 ここに到れば、嫉妬を超えた羨望しかない。いいなあ、外資転職エリートにはそういう道もあるのか。長尾は心底男をうらやんだ。

 たとえば――たまに妄想してみることがあるのだが、もしもこの先長尾が首尾よく谷口と付き合うことができたとして、先行きは決して順風満帆ではない。なにしろふたりとも別々の省庁で宮仕えの身。長尾は一年早く帰国して、その後も幹部自衛官として異動もあるだろう。一方の谷口も、総合職の国家公務員なのだから地方勤務や二度目の海外がないとも限らない。しかもエリート官僚と幹部自衛官のカップルなんて、オープンにできるはずもない。

 あんな魅力的な男と秘密の恋――しかも遠距離恋愛だなんて、不安すぎて日々の生活や仕事もままならなくなるのではないか。妄想の中の長尾はときおり、そんな皮算用に胸を痛めている。

「……そういう話を聞くと、うらやましいですよ。私の勤務先は古式ゆかしき日本風の働き方が根付いているので。組織に縛られないって憧れますね」

 来るか来ないかもわからない未来を夢に苦しむ長尾を横目で見やって、男は苦笑する。

「まあ、二年後どうなってるかわかんないですけど。相手、すごくわがままなんで」

 さっきまでの社交の顔が崩れて、これは多分本音。だが「わがままなんで」と言うその声は、クールな物腰に似合わず甘い。

 なんだかやたらと惚気られているような気がするのだが、まあいい。他人の幸せを素直に喜んでやれば、いつか回り回って自分のところにも福が訪れるかもしれない。ちょうど男のグラスは空になりかかっている。長尾は店員を呼び、男に言う。

「せっかくなので一杯ごちそうさせてください。惚気を聞かせていただいたお礼ですよ」

「そんな」

 遠慮しつつもまんざらでもないのか、男は二杯目に黒ビールを注文した。長尾も同じものを頼み、今度はグラスの縁を合わせて乾杯する。袖すれ合うも多少の縁。谷口と飲めなかった寂しさの五パーセントくらいが、この男のおかげで紛れたような気がした。

 

 二杯目を口にしたところで、不意に男の胸ポケットのスマートフォンが鳴る。男は「すみません」と言うと顔を背けて電話に出た。

「もしもし。あ、仕事終わった? 俺は今、君を待ちがてらパブで一杯やってる。ああ、近くだよ」

 これまでどおりの「できる男」風の澄ました口調は、しかしそこまでだった。少しの間を置いて、彼は苛立ちを抑えるようにため息を吐いた。

「は? だって君が残業で遅くなるっていうから、わざわざここまで来てやったんだが」

 なんと、男は恋人と待ち合わせ中だったのだ。任期付きの赴任というからおそらくは日系企業――はて、この近くにそんなものがあっただろうか。

 盗み聞きなどよろしくない。しかし好奇心には勝てず長尾は耳をそばだてる。それを知っては知らずか、「クールで自信家なできる男」っぽい彼の口調からどんどん気取りが失われていく。

「は? 離れろ? いまさら?」

 今や冷静さは完全に失われた。表情を変えて、こめかみに血管が浮かびそうな勢いで、男はスマートフォンにまくしたてている。

「気にしすぎだ! まったく、どこまで自意識過剰なんだ。君と俺が一緒にいたところで誰が気にするもんか」

 相手の声が聞こえないので何を話しているのかはわからない。だが、どうやら男は残業する恋人を迎えに職場の近くまで来たにもかかわらず、その恋人から文句を言われているようだ。自意識過剰というのは、もしや彼女は職場の同僚に恋人と一緒にいるところを見られたくないのだろうか。

 こんな見目も良く自信にあふれたどこに出しても恥ずかしくない男なのに、世の中にはぜいたくな女もいるもんだ。見た目、社会的地位、金。男女の恋愛や結婚にまつわる生々しい事情を思えば、自分は同性愛者で良かった――なんていうのも、まあ都合良い考えではあるのだが。男同士の打算的な恋愛だって、そこらに転がっている。

「……わかったよ、離れりゃいいんだろう。じゃあスローン・スクエアで三十分後。まったく、ここまで来て損したよ」

 しばらく言い争ってから、最終的に男は怒ったように電話を叩き切った。激しい応酬に喉が渇いたのか、グラスに残っていたビールを一気に飲み干して空きグラスを力強くテーブルに叩きつける。

「あのう、どうしたんですか」

 勢いに押されつつも、野次馬根性を抑えきれずに長尾はおそるおそる聞いた。男は不機嫌そうに顔を上げる。

「いや、せっかく近くまで来てやったのに、ここで待ち合わせるのは嫌だって。ったく本当にわがままなんですよ。そのくせ待たせればどうせまた不機嫌になる」

 次なる待ち合わせはスローン・スクエア。どうやら彼に課された次なる任務は「恋人よりも早くそこにつくこと」であるようだ。男は長尾に向けて軽く頭を下げた。

「すみません、ご馳走になりっぱなしで。お礼をしたいのは山々なんですが」

 しかし、呑気にもう一杯飲んでいたらわがままな恋人は激怒する、というわけだ。

「いいんですよ。いつか機会があればそのときにお礼を。わがままな彼女さんをこれ以上怒らせないように、早く行ってあげてください」

 励ますように長尾がぽんと背中を押してやると、今度こそ男は店を出て行った。

 それにしても、あんな癖の強そうな男を振り回すのは、一体どんな美人。いや、どこのお嬢様だかお姫様だか。そんなわがままな恋人、絶対自分だったら付き合いきれない。そう、何度も言うが、長尾の好みは爽やかで温厚で寛大なタイプ――理想は谷口栄。

 長尾はグラスに残ったビールを飲み干す。ひとりの金曜、そろそろ引き上げどきかもしれない。家に帰ってネットフリックスでも観ながら飲み直すとするか。

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