「まぶたに蜜」の後くらいの長尾です。
「……はぁ」
ここのところ、在英国日本国大使館駐在中の駐在自衛官・長尾三佐の気分は優れない。
やらなければいけない仕事は山積みだし、今日の打ち合わせで英国陸軍の担当者と協議してきた内容は早急に公電にして日本に送らなければならない。だが、帰りの道すがら、館の向かいにある公園で目にした光景が頭にこびりついて長尾を仕事に集中させてくれない。
「どうしたんですか、長尾さん」
憂いに満ちたため息を聞いていたのか、背後からぬっと現れた人影が長尾に問う。
「ため息なんて。……もしや恋煩いでは」
ぎくりと飛び跳ねる心臓をなだめすかしながら、長尾は笑顔を作る。
「や、やあ古村さん、何か用事ですか」
「いえ、急ぎで印鑑をいただきたい書類がありまして」
「ああそう。はんこ、はんこね。ちょっと待って」
古村は外務省から派遣されている一般職の職員で、館では庶務経理を担当している。多少風変わりではあるもののレベルの高い「いい男レーダー」を持つ彼女のことを、長尾は信頼の置ける情報源かつちょっとした同志のように感じている。古村の側は長尾が男に惹かれるセクシュアリティの持ち主とは知らないので、ただの気楽な雑談相手くらいにしか思っていないのだろうが。
それにしても第一声が「恋煩い」とは、いい男を察知する能力が高い女性は、万事において勘が鋭いものなのだろうか。
そう、勘が――。
「そういえば、谷口さん」
「ええっ!?」
恋煩いを言い当てられたところに加えて、密かな想い人である谷口栄の名前を出された長尾は動揺を隠せない。しかも先ほどのため息の原因は他ならぬ谷口その人である。
「た、た、谷口さんがどうかした?」
すると古村はふっと視線をそらし、夢見る少女のようなうっとりとした表情で言った。
「ここのところ経済部に用事がなかったから、今朝久々に見かけたんです。改めて見るとやっぱりうちの館で一番のいい男だなって……」
「なんだ、そんな話か」
よもや自分の秘めたる恋心に気づかれてしまったかと動揺したのに、安堵半分、拍子抜け半分。第一、谷口栄がこの大使館で一番のいい男であることなど言われなくたって長尾は誰より知っている。
「そんな、って何ですか」
思わず気の抜けた反応をする長尾に、古村はむっとした表情を見せる。それから短い間を置いて、にやりと意地の悪い笑み。
「さては長尾さん、同世代の独身男性だからって谷口さんのことライバル視してたりします?」
「……は?」
「心配しなくても、長尾さんだって一般的には十分いい男ですよ。谷口さんが希有なだけです。顔だけじゃなく雰囲気やセンス、トータルで群を抜いてますもんね」
さしもの古村の勘も、長尾の恋を察するには至らないらしい。
自分ごときが谷口をライバル視していると思われるのもおこがましく恥ずかしいが、かといって古村に恋心を知られればどう考えても事態はこじれる。いまいち納得はいかないものの、長尾は「古村ワールド」に余計な口を挟むことはせず、そっとしておくことにした。
それはそれとして、長尾のため息の原因は「ある男」の存在である。最近になって谷口栄の周囲をうろつくようになった一人の英国人のことが気にかかるのだ。
以前は長尾の悩みといえば、折々に食事やパブに誘っても谷口から色よい返事がもらえないことだった。
声をかけたときに限って谷口は偶然急ぎの仕事があって、真面目で責任感の強い彼はそれを放置して飲みに行くことができない。これはきっと、いや絶対に長尾が避けられているわけではなく、タイミングが悪いだけ。実際、英国人秘書のトーマスに状況を聞いたところで、いつも「谷口さんはお忙しいですよ」と澄ました返事があるではないか。
それはそれとして、最近大使館に出入りしている現地人が、やたらと谷口に馴れ馴れしい態度をとっている。さりげなく探りを入れたところ、どうやら広報イベントに関与している現地企業の担当者らしい。
大使館の広報担当者はにこやかに言った。
「ああ、ジェレミーですね。彼はおじいさんが日本人で、日本に留学経験もあるんですよ。日英両方の事情に通じていて言語にも長けているから、担当者としては本当に助かってるんです」
だが長尾がききたいのは、そんなことではない。
「へえ。……だから経済部とも関わりがあるのかな? 谷口さんと親しく話しているようだったけど」
「どうも元々知り合いだったようですよ。最初に打ち合わせにきたときに『こちらに谷口栄さんがお勤めですよね』ってきかれて、谷口書記官のところに案内しましたから」
――元々知り合い、だと?
聞き捨てならない。
長尾は意味もなく人を怪しんだり、嫉妬したりするような人間ではない。大使館員の業務には広く「外交」が含まれるから、谷口が多くの人物と交友を深めることだって理解できる。ただ、ジェレミーというあの男は、どうも様子が違うのだ。
はじめて長尾が存在を意識したときからして怪しかった。わざわざ階段を使って下りてきて、二人で使われていない会議室に入っていく場面を見かけたのだ。いけないことだとは思いつつ様子をうかがうと、なんと谷口はシャツの襟元をめくって、ジェレミーにうなじを見せていた。
谷口はきっちりしているようでどこか無防備なところのある男で、長尾にも剣道でできたという青あざを見せてきたことがある。いきなりワイシャツをめくって脇腹を見せられ、ドギマギすると同時に眼福すぎて――実のところ長尾はあの晩、ひとりでずいぶん盛り上がった。
そんな谷口だから、ジェレミーとの「あの場面」にもたいした意味はないのかもしれない。ないと信じたい。とはいえ、わざわざ人目を避けているのは意味深だ。
そして極めつけはついさっき。会議の帰りにグリーンパークを通り抜ける途中で長尾は、谷口とジェレミーが木陰の目立たない場所で話をしているのを見てしまった。どことなく親密そうで、一方で気まずそうな雰囲気。どう考えても仕事の話をしている風ではなく、長尾の心はざわめいた。
一体あの男は何者だ? 長尾の中にある警戒ランプが激しく点滅しはじめた。
ライバル――と、今の段階では認めたくない。だが限りなくその疑いが強い男と、ついに相まみえたのは翌週のことだった。
打ち合わせスペースで広報担当者と熱心に話し込むジェレミーは、穏やかそうでおとなしそうで、むしろ地味で素朴な英国青年に見えた。こんな毒気のかけらもなさそうな男が恋のライバルだなんて、早とちりだったに違いない。そう思って自分を納得させようとするが、どうにも落ち着かず、長尾は用事をでっちあげて打ち合わせスペース周辺をうろうろし、様子を伺い続けた。
打ち合わせを終えて、にこやかに挨拶をして部屋を出て行くジェレミーの背後を追う。
うん、前から見ても後ろから見ても普通すぎて、とてもではないがあの谷口栄――凄腕イケメンウォッチャーの古村をして「在英大イチのイケメン」と言わしめた男に釣り合うようには思えない。
幸い今日のジェレミーはまっすぐエレベーターに乗り、栄のいる経済部に立ち寄ることもなくロビーへ向かった。
そして、不意に足を止めてこちらを振り向く。
「私に何か、ご用ですか?」
素朴な微笑みを浮かべたジェレミーに突如話しかけられ、長尾は硬直した。
「えっ?」
「打ち合わせ中からずっとこちらを気にされてましたよね。こうして後をついてくるというのは、何か用でもあるのかなと」
なんと、ジェレミーはずっと長尾の存在に気づいていたというのだ。
「あ、あの」
思わず口ごもる長尾に、ジェレミーは柔らかな口調で容赦ない追い打ちをかける。
「今日だけでなく、あなたの顔には覚えがあります。私が栄さんとお話しているところをじっと見ていましたが……」
毒気のかけらもなさそうな目の端が、きらりと意味ありげに光った。
長尾は思った。間違いない、これは――宣戦布告だ。やはりジェレミーは人の良さそうな外見の裏側に食えない一面を持った危険人物だ。そしてその危険人物が、谷口栄に接近している。
隠れゲイとして身の安全を重視するならば、何食わぬ顔で「偶然ですよ、何のことですか」としらを切るべきだろう。だが、本当にそれでいいのか。出会いから一年が経つというのに、一度飲みにいっただけで谷口との関係がまったく進展しないのは、この奥ゆかしさゆえなのではないだろうか。専守防衛は国だけの話にしておいて、長尾個人は男として、ときには危険を冒して攻めに出ることも必要なのかもしれない。
ぶるりと背筋が震えるのは、紛れもない武者震いだ。
そして、長尾は勇気を振り絞った。
「……いえ、ただ、あなたが谷口さんを何度となく人影のない場所に呼び出しているようなので、トラブルでもあるのかと気になって」
ジェレミーの表情が変わる。先ほどは目の端だけに見えた彼の本性が一瞬のうちに顔中、いや全身に広がった。
「あなた……」
そこで長尾は、自分が名乗ってもいなかったことに気づいた。
「駐在自衛官の長尾と申します」
自衛官という単語では英国人であるジェレミーに伝わらないかもしれないから、わざと英語を使った。
だが、国防を任務とする人間であると明かすことで、少しでもこの男に威圧感を与えたいという長尾の思惑をどこまで理解してもらえたのかはわからない。要するに、ジェレミーの顔色はちっとも変わらなかった。
「長尾さん、誤解ですよ。私と栄さんはもともと知り合いで、その後互いの仕事のことを知って情報交換などさせていただいているんです。だからこちらに寄ったときにもご挨拶しているだけで」
「それにしては、まるで人目を避けるみたいに」
「人目を避ける? そんな風に見えました? でも私から言わせれば、私と栄さんの様子を陰からうかがっているあなたのほうがずっと怪しいんですが」
ジェレミーは小声ではあるが、はっきりと長尾に反論した。
「……それは!」
言われてみれば一理ある。こそこそとつけ回す自分こそ、見ようによってはストーカーのようだ。
顔を赤くしてうろたえる長尾をじっと見つめ、ジェレミーは面白そうに笑みを浮かべた。
「そんなに動揺しないでいいですよ。栄さんは素敵な方ですから、男女問わず彼に惹かれる人がたくさんいたるのに不思議はないです。そして――片思いに身を焦がす誰かが、彼の一挙一動を気にしていたとしても」
「か、片思い!?」
完全にばれた。その一方で、ジェレミーも谷口栄に不埒な想いを抱いていることを白状したようなものだ。だが、いざ正面切って恋心を指摘されれば、思わずしらを切ってしまうのが悲しき習性だ。
「勘違いしないでくれ、俺は同僚として谷口さんを心配しているだけだ。第一君が何を思おうが、谷口さんは恋愛なんかより今は仕事に集中しているのだと……」
はるか一年前の酒の席で、おそらくは多分に社交辞令だった「仕事が忙しいと他がおろそかになる」という言葉、それだけが長尾にとって希望だった。谷口との仲が進展しないのは仕方ないことだし、焦らなくてもいい。だって彼はただ仕事で忙しいだけなのだから――。
しらを切りたいのか牽制したいのかわからない、支離滅裂な長尾にジェレミーはなぜだか吹き出すのを堪えるような妙な顔をする。
「長尾さんは、栄さんと親しいんですか?」
栄さん、なんてこいつが谷口をファーストネームで呼ぶのも本当は憎らしい。英国人だからと調子に乗りやがって。
長尾はここぞとばかり自分の存在感を見せつけようと胸を張る。
「ここでは数少ない同世代のシングル同士ですからね! 彼の前任からも、谷口さんを頼むって言われてますよ」
これまた古い話を持ち出して、長尾は自分と谷口の親しさを強調した。ついでに「シングル同士」という部分にも「恋愛関係になってもおかしくはない」意味を込めたつもりだった。
ジェレミーは長尾の言葉にひるむのではなく、小さな声で、しかも英語で「へえ、そういうの許しそうにないけど」とつぶやいた。長尾はそれを聞き逃さない。
「え、何ですか?」
「いえ、ひとり言です。ともかく長尾さんはプライベートでも栄さんとお付き合いがあるんですね」
「たまに……何度かは飲みに。そういう君はどうなんだ」
実際は一度だが、鉄道トラブルでおじゃんになった一回も、そもそもオッケーされていたわけなので数には入れて良いだろう。「何度か」と言っても決して誇張ではないはずだ。
「同じジムのプールで出会いました。栄さんはすごくフォームがきれいなので、泳ぎを教えてもらっていたんです」
「教えてもらう? っていうか、プールだって!?」
長尾の声は思わず大きくなった。
同じジムだと? ジェレミーは谷口の泳ぐ姿――つまり半裸を知っているというのか。しかも「教えてもらう」というのはもしや口頭だけではなく手取り足取り。長尾はたった一度生身の脇腹を拝んだのみというのに、なんとうらやま……いや、けしからん。
嫉妬に狂いそうになる長尾だが、意外にもジェレミーは残念そうに続けた。
「でも彼、別のジムに移るみたいなんですけどね」
長尾は安堵する。彼らが別々のプールに通うからといって、自分と谷口の関係が進展するわけではない。それでも、ライバルと目す相手が半裸でコミュニケーションをとっているよりは、ずっとましだ。
が、なぜ谷口はわざわざジムを変えるのか。
「それは……君との間になにか?」
この間の深刻そうな話と関係があるのだろうか。もしや二人はすでにただならぬ関係にあったりして。
問いただそうとしたところで、ジェレミーは先手を打って話を打ち切る。
「いえ、まあとある人の差し金というか何というか……とにかく長尾さんには関係のない話ですよ」
「関係ないって、感じの悪い言い方だな。君は見た目とは違ってずいぶん……」
「よく言われます。でも外面と内面が違うなんて、よくある話でしょう」
おまえみたいな狐野郎の場合はそうだろう。だが自分のような誠実な男や、谷口栄のような清廉な人間は違う。もっとまっとうに、自らを偽ることなどなしに生きているのだ。
こんな危ない男、絶対に栄に近づけてはいけない。ふわふわとした会話で自分を煙に巻こうとするジェレミーを前に長尾は決意を新たにした。
そんな長尾の決心を知ってか知らずか、名刺を一枚取り出して長尾の胸ポケットにねじ込むとジェレミーは身を翻す。
「長尾さん、夢は美しい夢のままにしておいたほうがいいのかもしれませんよ?」
長尾には、その言葉の意味がわからない。それでも、新参者であるジェレミーから、長尾が知らない谷口栄の一面を知っていると匂わされた不快感だけは胸の奥に残った。
ここからの大逆転を狙うには、さて何をするべきか。とりあえずこのまま経済部に足を運んで、今夜飲みに行かないかと谷口栄を誘ってみよう。今日こそ色よい返事があるといいのだが――。
(終)
2022.04.10