時期的には「こぼれて、すくって」プロローグと第1話のあいだ(「長尾SS(出会い編)」のあと)。
今日の長尾は朝から至極ご機嫌だった。
大使館の外に一歩足を踏み出せばうんざりするほど暑いし、そんな中わざわざ出かけた打ち合わせは、相手方の突然の体調不良で空振りの憂き目にあった。仕事について言うならば、これっぽっちもついてはいない。
そんな状況であるにも関わらずなぜこうも機嫌が良いのかといえば、理由はただひとつ――。
「……聞きましたよ、長尾さん」
ホラー映画の幽霊のように背後からぬっと現れた人影に、長尾は思わず後ずさりする。
「どうしたの古村さん、怖い顔して」
「谷口さんと飲みに行くらしいじゃないですか。しかもサシ飲み」
「えっ……一体どこからそんな話を」
古村は顔の前でちっちっちと指を左右に振った。
「情報源は秘匿します」
もったいぶられると無気味な気がするが、もしかしたら館内にも存在するという女性同士のネットワークだろうか。そういえば谷口とエレベーターホールで今夜の予定について話しているときに、そばを領事部の女性職員が通りすがったような気はする。
「まあ、飲みに行くのは事実だけど」
谷口の着任から二週間の引き継ぎ期間が経過し、先週末に前任者の小郡が日本に帰国した。いくらかは大使館の環境に慣れただろうが、その一方で渡英当初の緊張が切れホームシックになりがちなタイミングを見計って長尾が谷口栄を飲みに誘ったのは昨日のことだ。
さりげなさを装って、しかし本人としてはかなりの勇気を要した誘い文句に谷口はいつもどおりのさわやかな笑顔で「いいですね、是非ご一緒させてください」と返した。長尾は天にも舞い上がる気分になり、おかげで暑さも仕事上のトラブルも気にならないハイな心理状態にあるというわけだ。
だが断言するが、これは決して下心ではない。というか少なくとも周囲には決して下心を悟られはしない行為であるはずだ。慣れない異国のひとり暮らしがストレスに直結することを危惧する小郡からも、谷口の所属する経済部の参事官からも「同世代の独身同士だから、面倒みてやってよ」と陰で頼まれている。つまり自分はもはや館公認の谷口サポート係といっても良いのではないか――さすがにそれはうぬぼれすぎかもしれないが。
「……そんな恨みがましい顔しないで、古村さんも一緒に行きたいの?」
じっとりとこちらを睨んでいる女性に心にもないことを一応聞いてみるのは、ある種のアリバイ作りのようなものだ。いや、正直いきなり谷口とふたりきりというのは長尾としても刺激が強すぎるので、最初の一回くらいは賑やかしがいたってかまわない。
だが古村はそっけなく首を振って長尾の誘いを断った。
「前にも言いましたよね、私、イケメンは遠目に眺める主義だって」
「ああ……そういえば」
確かにそんな話を聞いた記憶はある。イケメンを正視すると目が潰れるから少しずつ慣らす必要があるなどと意味のわからないことを言っていた。奥ゆかしすぎるとからかわれることも多い長尾から見ても、古村の主張はかなり風変わりに思える。
「古村さんって変わってるよね。相手が芸能人ならともかく、せっかく素敵な人が身近にいるなら近づきたいとか知りたいとか、あわよくば付き合いたいとか思うものなんじゃないの?」
古村に問いかけるようでいて半分は自問自答、というか自己弁護かもしれない。二週間ほど遠目に眺めるうちに谷口に対する長尾の欲は少しずつ、しかし確実に増長している。高望みはせず目の保養になってくれさえば良いと自分に言い聞かせてはいるのだが、相対するときの谷口の紳士的で穏やかな笑顔を見ていると、彼がまかり間違って長尾の不埒な感情を受け入れてくれるのではないかと頭をよぎる。
もちろん目の前に立つ古村が長尾と同じ気持ちでいるのならば心は穏やかでない。谷口がノンケもしくはバイだとすれば、若い女はライバルどころか競り合ったところで長尾に勝ち目はないだろう。彼女が身近ないい男に対しても芸能人に対するような妙なよそよそしさというかストイックさを貫いてくれるのは長尾にとっては幸いだ。
「長尾さんわかってないなあ。身近な存在だからこそ、うかつに距離を詰めるとろくなことはないんですよ。せっかく日々の活力、目の保養になってるのに下手に近づいてやばい欠点見つけたらどうします? 実はすごい性格が悪いとか、家がめっちゃ汚いとか、酔うと赤ちゃん言葉になるとか」
真顔で詰め寄られて長尾は苦笑するしかなかった。谷口のどこを見ればそんな発想が出てくるというのか。あんなに温厚で人当たりの良い男の性格が悪いはずはないし、身なりも常に完璧でデスク周りも整っているのに家が汚いはずはない。酒に酔ったときにどうなるかはさすがに未知数だが、いくらなんでも赤ちゃん言葉だなんて。
「……さすがにその妄想は谷口さんに失礼だと思うけど」
「いや、谷口さんのこと言ってるわけじゃないんです、あくまで一般論として!」
やんわりと暴言を諫める長尾に、古村は「でも谷口さんの新しいイケメンエピソード入手したらわたしにも教えてくださいね!」と付け加えて去っていった。男の外見に関する評価軸には圧倒的に信頼のおける彼女だが、どうにも変わったキャラクターだ。
古村が恋のライバルになり得ないことには安堵しつつ、今夜は谷口とふたりで酒を飲みに行くのだと改めて思うと、緊張で長尾の手のひらにはじわりと汗がにじんだ。
英国といえば食事がまずいという固定観念はまだまだ根強いが、ここは他ならぬ大都会ロンドン。お洒落なバーやワインの品揃えのいいフレンチ、もちろん少数かつ値段は高いが日本に見劣りしない寿司と酒を出す店だってある。だが悩んだ結果、長尾が選んだのは何度か足を運んだことがあるガストロパブだった。
パブといえばひたすらビールやサイダーや蒸留酒を飲むところで、つまみなどせいぜいナッツか袋入りのクリスプくらい……というのは一昔前の話で最近は食事にも力を入れている店は多い。いくらかの思惑があるとはいえ、今回はデートなどではなくあくまで「赴任してきたばかりの新しい同僚をねぎらう席」である。ロマンチックな店や高級な店を選んで下心を怪しまれたり警戒されたりしては元も子もない。ほどよくカジュアルでロンドンらしさもあるガストロパブはこういうときにあつらえ向きだ。
そして待ちに待った夕刻、まだ日の高い午後七時に長尾は谷口と大使館のロビーで待ち合わせてから店に向かった。
「すみません、暑い中歩かせちゃって。タクシー呼んだほうが良かったですね」
「いえいえ、徒歩歓迎ですよ。できるだけ早く地理感覚を身につけたいですから」
並んで歩く谷口は、同じ日差しの中を歩いているにも関わらず至って涼しげだ。朝はしっかりシャワーを浴びたし、退勤前に制服から着替える際にもしっかりデオドラントを使ったからにおいはしないはずだが、ただでさえ汗っかきな上に緊張している長尾は、彼から見て自分が暑苦しくないかが気になってたまらない。
それにしても隙のない男だ。整った顔立ちやすらりとした長身はもちろんだが、身のこなしや振る舞い自体が優雅というか、洗練されている。
少し前に小郡と話したときに「谷口はお育ちもいいですから。小石川育ちのお坊ちゃんですよ」と言っていた。地方出身で歴史にも疎い長尾にはその意味するところがぴんと来なかったが、あとでインターネットで検索して、小石川というのが江戸時代のお屋敷町から続く高級住宅地かつ都内屈指の文教地区であることを知った。
これだけ何もかもが揃っていれば普通ならば鼻につくところだが、ただただ感嘆してしまうのは長尾が谷口に惹かれているからでもあるし、普段の谷口の腰が低く、まったくお高く止まった様子を見せないおかげでもある。
「谷口さんは、東京を離れるのは今回が初めてですか?」
長尾が訊ねると、谷口は照れくさそうにうなずく。
「そうなんです。国家公務員としては視野が狭くて恥ずかしいんですが、地方勤務経験もないんです」
都会で生まれ育ったことを鼻にかけるどころか、国家公務員としての見識不足と捉えるとはなんたる賢明さ、奥ゆかしさ。長尾は感激してしまった。男と見れば掘るの掘られるのと下世話なことしか考えないコウキや、イケメンに近づけば欠点が目に入るなどとネガティブな妄想を膨らます古村にはやはり谷口の真の魅力など理解できないのだ。
冷静に考えればそんなはずはないにも関わらず、長尾はこの世で自分一人だけが谷口の素晴らしさを見出した特別な人間であるかのような錯覚を味わった。
「ははは、私みたいな田舎者からすれば東京生まれ東京育ちってだけですごいなと思っちゃいますけどね」
そこで谷口がふと思いついたように訊く。
「ちなみに長尾さんはご出身はどちらですか?」
「い、石川です」
出身地を答えるくらいでどもってしまう自分が恥ずかしいが、これはなんと初めて谷口が口にした「仕事以外、長尾の個人的事項に関する質問」なのである。舞い上がらないはずがない。目指す店まではあと三ブロックほど、酒と食事の前のウォーミングアップとしてもなかなかいい調子だ。
もちろん長尾の出身地が石川と聞いてからの谷口の反応も申し分ない。
「石川、数年前に出張で行ったことがありますよ。時間がなくて出歩けませんでしたが、兼六園や……二十一世紀美術館でしたっけ? 古いものから現代的なものまで素敵な場所がたくさんあるんですよね」
「はは。確かにイメージはいいですけど、華やかなのは金沢限定ですよ。私の実家など山の奥で何もないし、冬はめちゃくちゃ雪が降るし」
口にしてから、しまったと思う。いいところなので是非訪れてくださいとか、案内しますよとか、いくらでももっと気の利いたことが言えたはずなのに。いや、さすがにこのタイミングで故郷に誘うのはやりすぎか。普段どおりを装って当たり障りのない会話を交わしながら長尾の頭の中は、ひどく混乱していた。それこそまるで、好きな子に話しかけて舞い上がる中学生男子のように。
一方の谷口にはまったく動揺している気配はない。
「観光で行くぶんには風情があって素敵だと考えてしまいますけど、地元の方からすれば雪が降りすぎるのもたいへんですよね」
涼やかに笑うのも長尾をこれっぽっちも意識していないからだと思えば寂しくはあるが、出会ってからはまだ二週間程度なのだ。長尾が一目見た瞬間に谷口の佇まいに惹かれたのと同じように感じてはもらえていないのは残念だが、かといって将来に希望を捨てるのはまだ早いはずだ……少なくとも谷口が完全なノンケであると確信するまでは。長尾は谷口の些細な振る舞いや言葉の隅々から性志向をにおわせるサインを読み取ろうと神経を尖らせていた。
やがて店に着くとふたりは角の席に向かい合って座る。ほんの数十センチのところに谷口の整った顔があるとなれば、並んで歩くのとは別の意味で胸が高鳴った。
「では、谷口一等書記官の着任を祝って、乾杯」
「ありがとうございます」
料理が運ばれるのを待たず、まずはビールを一パイントずつで乾杯。上品な顔に似合わない大振りのグラスを持ち上げて意外にも谷口は威勢の良い飲みっぷりを見せた。酒について「人並みに」と自称する人間はたいてい人並み以上にたしなむが、それは彼とて例外ではないのだろう。
「さすが本場、やっぱりビールは美味いですね」
一気にグラスの半分ほどを飲み干した谷口が、職場で見せるものよりくつろいだ笑顔を見せたので、長尾は今日の店選びが正解だったことを確信した。
「谷口さんは普段からビール党ですか?」
「家では平日は原則ビール一缶までって決めてますけど、外では節操なく飲みますね。といっても職場の飲み会なんて安い居酒屋ばかりですけど」
見た目の雰囲気からワインやウイスキーなど、しかも銘柄にこだわって飲みそうなイメージを抱いていたが、谷口は親しみやすい一面を見せた。長尾も同調する。
「私も普段はビールです。ただまあ、一本ではなかなか止まらないのが正直なところですが。自制心が弱くてお恥ずかしい」
三十を過ぎる頃からめっきり太りやすくなり、一方で幹部教育の過程をを進むにつれて肉体をいじめる訓練は減っていく。長尾にとっても体型維持は大きな問題だった。太ったら太ったで、髭でも生やせばある種のお仲間にモテはするのだろうが、今はまだそんな自分にはなりたくない。
自虐混じりの長尾の言葉に、谷口は首を振る。
「いえいえ、長尾さんしっかり鍛えていらっしゃるじゃないですか。私はひたすらデスクワークだから気をつけないと、すぐ体型に響きます」
「え? そんなにすらっとしてるのに」
肥満ともダイエットとも無縁に見える谷口だが、本人はスタイル維持には気を遣い、多忙な時期も暇を見て泳ぎに行っているのだという。
体型にぴったりあったオーダースーツの下には細身だが水泳で鍛えた体が隠れているのだと思うと、それだけでどきどきしてしまう。余計な想像を振り払うように長尾はグラスの中身を飲み干すと二杯目を選びにかかった。
緊張ゆえに少しペースが早かったかもしれない。谷口が終始にこにこと機嫌良さそうに話をしている姿に有頂天になってしまった面もあるだろう。ピンチョスの盛り合わせやハム、チーズなどをつまみながらいつしか長尾は酔っ払っていた。そして――酔っ払っていたということは要するに、理性も口も緩むということだ。
「小郡さんはあんなこと言ってましたけど、谷口さんはモテそうですよね」
「そんなことないですよ。あまり器用な方ではないので仕事が忙しいと、他のことがおろそかになってしまうんです」
長尾の直接的な問いかけは、お決まりの言葉でやんわりと誤魔化されてしまう。モテるかどうかはともかく恋愛の余裕はない……そう言われてしまえば追求もしづらい。
これは果たして遠回しな話題の拒絶なのか。距離を詰めることを急ぎすぎたかと後悔すると同時に、酔いまでも覚めてしまった気がする。長尾は慌てて話を当たり障りのない方向に戻そうとした。
「あ、ああ。ですよね。私は霞が関のことはよく知りませんが、皆さんものすごく多忙だっておっしゃいますし」
「法案や国会の関係で時間が読めないのが一番問題ですね。会期中はうかつに飲み会の予定も立てられません。でも私から見れば、自衛隊の方がご苦労の多いお仕事だと思いますけど」
「いや、どうでしょう。半分は肉体労働みたいなもんですから」
そう言いつつも、自分の本来の仕事の苦労を労われれば悪い気はしない。長尾は照れ笑いを浮かべながらグラスを取り上げるとビールを煽った。正面から顔を見ることがまだ恥ずかしく、テーブルに落とした視線をやり場なく動かすと、谷口のグラスもそろそろ空になりそうだ。
グラスの横には爪先まできれいに整えられた指先。こういう行き届いた美意識や、几帳面そうなところはお仲間っぽくも思える。かといってノンケの男でも今どきはこのくらい身なりに気を遣う人間だっているはずで――いけない、また邪念のループにはまりそうになっている。
「長尾さん?」
黙り込んだことを不審に思ったのか、谷口が心配そうに名前を呼んだ。
「あ、谷口さんもグラスがそろそろ空になりそうですね。何か飲み物追加しますか? ビール以外にもカクテルとか蒸留酒とか、ワインもありますよ」
ドリンクメニューを差し出すと、谷口は少し身を乗り出すようにして開いてあるページに目を落とした。長尾のすぐ目の前でさらりと前髪が揺れて、同時に鼻先を掠める微かな芳香。
「どれにしようかな。長尾さん、何かおすすめはありますか?」
「えー……と、おすすめですか」
少しだけ谷口の目の端が赤らんでいることに気づき、その色気に長尾は完全に撃ち抜かれた。
もはや確信なんてなくたって構わない。こんな理想ぴったりの相手が都合よく目の前に現れることなどもう二度とないかもしれないのだ。多少変なやつだと思われようと、ノンケだからと玉砕しようと、とにかくまずは意識してもらわないことには何もはじまらないのだ。
見慣れない英語の酒名に戸惑っているのか、眉根をきゅっと寄せて悩み込んでいる姿すら麗しい。長尾は自分が谷口におすすめの酒について聞かれている状況であることすら忘れて、テーブルの上に置いた両手をぎゅっと握りしめ勇気を振り絞った。
「あ、あの。話を蒸し返すようで申し訳ないんですけど、た、谷口さんは――」
みっともなくひっくり返りそうになる声。
谷口が顔を上げる。
「何ですか?」
邪気のかけらもない上品な微笑みに、長尾の邪な心は穴のあいた風船のように急速にしぼむ。
「いえ、すみません。なんでもありません」
やっぱり飲みすぎてどうにかしているのだ。いや、酒だけではない、谷口のまとう空気やほんのりと香るフレグランス、その何もかもに惑わされて完全に理性を失いかかっている。
二人きりの場で話すのも今日がはじめてなのに、急に相手の性志向について聞き出そうなんてあまりに非常識だ。万が一、谷口がこれまでのところ長尾に好感を抱いていたとして、そんな不躾な質問を投げかけられれば瞬時に印象は地の底に落ちる。長尾は自分の精神状態がまともでないことを認識し、今日はこれ以上酒を飲まないようにしようと心に決めつつメニューに指を落とす。
「そうだ、おすすめ! シャンディガフはいかがですか?」
「シャンディガフって確か、ビールとジンジャーエールですよね」
即決することなく口元に手を当て考え込む風の谷口を見て、誤解の可能性に思い当たる。ビールとジンジャーエール半々で作るシャンディガフは、日本だとビールそのままの苦味を嫌う女性に人気なビアカクテルだ。まさかとは思うが女性向けの甘い酒を勧めていると不快に思われてはたまらない。
「えっと、確かにそうなんですけどこちらではどちらかというとレモネードとビールの組み合わせが多くて……男性にも人気です。それに ここの店のオリジナルシャンディは地ビールに自家製の無糖のジンジャーエールを使っているので甘ったるくないんです!」
まるでシャンディガフ業界――もちろんそんなもの存在しないに決まっているが――の回し者のように熱心にアピールする長尾の姿がよっぽど面白かったのか、谷口は表情を緩めて「じゃあ、せっかくなのでそれを」とおすすめを受け入れてくれた。
ほっとする気持ち半分、気を遣わせてしまったのではないかという不安半分で、長尾が店員を呼ぶため視線を逸らした瞬間だった。
「そういえば、さっきの話ですけど」
「え!?」
さっきの話というのはもしかして。せっかく話を逸らしたところで今度は谷口から蒸し返してこようというのか。冷や汗が背中を伝った瞬間、耳に飛び込んできたのは信じられないような言葉だった。
「長尾さんこそ、優しいし見た目も素敵ですから、言い寄ってくる女性には事欠かないように思えますけど」
*
「で、初デートの首尾は上々だったって報告? っていうか自慢? こっちは一晩中客の相手してようやく家に帰ってほっとしてるとこだっていうのに」
帰宅後のハイテンションそのままに電話をかけると、応じたコウキはこの上なく不機嫌そうだった。だが、舞い上がっている長尾には友人の刺々しい態度すらどこふく風だ。
「いやあ、別にデートとかそういうやましいものではなくて、今回はただの同僚飲みで」
申し訳程度に否定するが、だったらわざわざほぼ唯一のゲイ友に電話をかけるはずがない。コウキはふーっとわざとらしいほどの大きなため息をつき、いつものわざとらしい高めの声とは似ても似つかぬ男っぽく低い声で凄んだ。
「……嘘つけ」
「え?」
「優しいとか見た目がいいとか言われて調子に乗ってるくせに! で、テンション上がって誰かに自慢したくてたまらないけど他に電話に付き合ってくれるような友達もいないからオレに電話かけてきたんでしょう」
さすが伊達に付き合いが長いわけではない。鋭い指摘というよりは完全なる図星だった。何よりコウキが電話口に出た瞬間「どうしよう、優しくて見た目も素敵だって言われた!」と前のめりにまくしたてたのは他の誰でもない長尾自身なのである。
渾身のジャブをするりとかわされて今日はこれ以上立ち入った話はしないと決めたところで、なぜか突然谷口の方から色恋の話を振ってきた。ほんの少し酒で目元を赤らめた理想の男に性格と容姿を褒められた瞬間、長尾の脳は沸騰した。
「で、長尾ちゃん、なんて答えたの?」
「ありがとうございます、って」
「そしたら、その麗しの谷口さんとやらはどう反応したの?」
「……えっと」
喜びと照れ臭さにどうすればいいのかわからず言葉に詰まったところにちょうど店員がやってきたので、長尾はドリンクの追加オーダーをした。と同時に谷口は手洗いに席を立ち、戻ってきた頃にはテーブルには特製シャンディガフのグラスが到着していた。生姜の辛さに、トッピングのレモンピールの苦味がきいていて実にうまいと気に入ってくれたのは嬉しかった。
「シャンディガフが美味いねって話を……」
「は? 何言ってんの?」
長尾はうっとりと美しい今夜の記憶に浸ろうとするが、もちろん簡単にはいかない。コウキは鋭く話の腰を折った。
「これまで気づかなかったけどもしかして長尾ちゃん馬鹿なの? せっかく向こうが恋バナ振ってきたのに、なんで酒の話になっちゃうの? 一世一代のチャンスなのに!」
「いや、それはだって。オーダーとかトイレ挟んで完全にそういう雰囲気じゃなくなってたし」
何より長尾もはかりかねたのだ。ただ「優しく」「外見がいい」と褒められただけならばともかく、問題は谷口の言葉の後段だった。わざわざ「言い寄ってくる女性にはこと欠かない」と女性に限定したのはどういう意味なのだろう。果たして牽制なのか探りを入れられているのか、それともただのノンケの天然なのか。
谷口がトイレに行き戻ってくるまでのほんの数分のあいだに長尾は悩んで悩んで――結局、結論は後回しにすることにした。
「……意気地なし」
「わかってる」
「前から言ってるけど、ゲイって基本は身持ちゆるゆるだからね。いいなと思って遠目に見てる間に、あれよあれよとどっかの誰かとまとまっちゃうもんなんだよ! たとえその人がお仲間だったとしても、長尾ちゃんみたいにもたもたしてたら、絶対トンビに油揚げさらわれるからね!」
コウキの説教も今日は右から左に抜けていく。二丁目にずっぷりはまってお仲間同士の惚れた晴れたばかりで生きているコウキには、谷口のような人間のことはわからない。きっとあれだ。本人が言う通り仕事熱心で、きっと恋愛にも一途で、だからこそいい加減な付き合いができずに一人でいるタイプ。
「いや、それにさ――」
だが、その先はコウキにも離さず自分一人の心に留めておく。
帰り際、二人とも機嫌よく酔っ払っていた。
本音ではもう一件といきたいところだが、残念ながら今日は平日。飲んでいるときに谷口の「原則、休前日以外は一件で切り上げる」といういかにも真面目なポリシーを聞いていたから二軒目には誘わなかった。
ノッティングヒルに住む長尾とチェルシーに住む谷口では方向もばらばらだ。地下鉄で帰るのが面倒に思える程度には酔っていたので、二人ともタクシーで帰宅することにする。
「不思議です。ずいぶん飲んだのに、まだ明るい」
歩道でタクシーを待ちながら、谷口が白っぽい空を見上げて目を細めた。日本で生まれ育った人間からすればこの時期の欧州の、完全に日が沈む前――昼のように明るくはないけれど暗くもない夜を奇妙に感じるのは当然で、それはここで二度目の夏を迎えた長尾にとっても同じだ。
だが、すでに一番日の長い時期は過ぎ、見えないところでじわじわと短い秋、そして冬はこちらへ近づきはじめているのだ。
「夏は日が長い代わりに、冬は夕方四時前に暗くなります。久保村さんが言ってましたけど、寒くて日が短いところは鬱病やアル中が増えるらしいですよ。気も沈むし、やることもないですしね」
「はは、日本も夏と冬とでは日の長さが違いますけど、段違いでしょうね。ちょっと怖いです」
怖い、というのはきっと大袈裟な表現だ。でも、もしも小郡が心配するように谷口が初の単身外国暮らしで寂しい思いをするようなら、いつでも自分を頼って欲しい。もちろんそこまで露骨なセリフは吐けないので、長尾は穏当な言葉を探す。
「大丈夫です、すぐ慣れます。はじめての在外生活は不安でしょうけど……こちらは希望されたんですよね」
希望して来たのならば前向きに過ごせるだろうが、それでも悩むようなら俺に頼ってくれれば――しかし、長尾が続きを口にする前になぜだか谷口はふっと顔を背けた。
「希望というか、ええ、まあ」
その表情にほんのり影が差す。そして普段常に歯切れの良い谷口には似合わず言葉に詰まってから、無理やりのように続けた。
「……気分も変わっていいかなって」
長尾ははっと息を飲んだ。自分は何かいけないことを言ってしまっただろうか。だがそれもほんの一瞬のことで、谷口はすぐに普段どおりの笑顔に戻り、近づいてくるタクシーに向かって手を振った。
だが間違いはない。あの瞬間谷口の表情も瞳もひどく寂しそうだった。彼が仕事一辺倒で色恋に縁がなかったという話は果たして本当だろうか。もしかしたら谷口には恋愛について苦い過去があるのではないか。それをまだ吹っ切れていないから、長尾の「モテそうなのに」という問いかけを誤魔化したのではないか。
そんなことを考えて――たとえ彼に不幸な過去があったとしても構わないと心を新たにする。いや、それどころか、もし谷口に辛い過去があるのならば他ならぬ自分が癒してやりたい。
「長尾ちゃんって、紳士顔してムッツリだよね」
「好きにしろ。おまえが下品だから人のこともそんな下品な目でみるんだ」
毒舌を吐いてくるコウキを軽くいなしつつ、別れ際の谷口の憂いに満ちた表情を思い出し長尾の秘めやかな恋心はさらに深まるのだった。