4. 尚人

 男の視線はあまりに不躾ぶしつけで侮蔑的で、もしその場に優馬がいなければ我慢できず逃げ出していたかもしれない。だが、子どもながらに雰囲気の悪さはわかるのだろう、はらはらとした表情でこちらに視線を向ける優馬を前に、とてもではないが取り乱したところを見せるわけにはいかなかった。

「あの、失礼ですがあなたは……」

 相手の素性を確かめようとする言葉を、男は途中でさえぎった。

「九歳のガキの勉強なんかたかが知れてるだろ。小学生レベルの勉強教えて小遣い稼ぎできるなんて割のいいアルバイトだよ。……ていうか、なんかあんた学生にしちゃ老けてるな」

 その何もかもがしゃくに障る。

 男の言葉と眼差しは、大学院を中退して専業家庭教師になったときに栄から向けられた失望の視線を思い出させた。研究者になるんだと言って長年頑張ってきたのに、なぜいまさら。――言葉には出さないものの、栄の視線からはそんな気持ちがあふれ出ていた。

 語彙が少なく理解力も低い子どもにものを教えることには、高校生や浪人生に受験のテクニックを教えることとは別の難しさがある。だが、実際に体験したことのない人間にその困難さはなかなか理解できないのかもしれない。栄も、尚人の新しい仕事の詳細を聞いたときには顔をしかめて「小学生に教えてるのか?」と吐き捨てた。そして、誰より尊敬している恋人からの失望を含む言葉は尚人を確かに傷つけた。

 いま目の前にいるこの男は、あのときの栄と同じようなことを考えているに違いない。そう思うと言い返さずにはいられなかった。

「あの、僕はアルバイトではありません。専業の……プロの家庭教師です。小遣い稼ぎでもありません。本気で仕事として優馬くんの授業を受け持っているんです」

 思わずむきになった尚人の言葉はますます男を面白がらせたようだった。

「え? バイトじゃなくて、プロの家庭教師なんてもんがあるんだ。ごめん俺バカだからそういうの知らなくて。でもさ、学生のアルバイト以上に、プロのセンセーが小学生のガキンチョに勉強教えて金取ってるって、おかしくない?」

 そう言いながらダイニングキッチンへ向かい、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。尚人はぐっと奥歯を噛み締めて、挑発的な態度の男から目を逸らした。

 初対面の見知らぬ相手から一体なぜこんな理不尽な扱いを受けるのか、さっぱり理解はできない。この男は誰で、なぜ尚人に突っかかってくるのか。その質問をできる限り丁寧に伝える言い回しを考えるが、怒りで興奮している頭ではうまく考えがまとまらない。

 ちょうどそのとき玄関から真希絵の声がした。

「ただいま」

 言い合いに夢中になって、尚人は車が戻ってきた音に気付かなかった。男もいま初めて真希絵の帰宅に気づいたようで、弾かれたようにリビングから出て行こうとする。

「あの、君は?」

 背中に向かって呼びかけるが、振り向きもしない。

「関係ないだろ。うっせえよ」

 真希絵はリビングを出て行った男と廊下ですれ違ったようだ、あからさまに動揺した顔でリビングに入ってきた。

「相良先生ごめんなさい。道路が事故渋滞で遅くなってしまって。待っていていただいて申し訳ないです」

 いつもおっとりとした話ぶりの真希絵が妙に早口だ。その理由はきっと、約束の時間までに戻って来なかった申し訳なさだけではないのだと思う。だが、真希絵に対して失礼な男の話を切り出す気にはなれず、尚人はともかくこの場を離れて気を落ち着けようとした。

「いえ、どうせ今日最後のコマでしたから。では僕は失礼します。優馬くん、じゃあまた来週ね」

 作り笑いで優馬に手を振り、カバンを手にして玄関へ向かう。

 普段ならば尚人が笠井家を後にするときは真希絵と優馬が並んで玄関で見送ってくれるのだが、今日は様子が違っている。真希絵は「優馬はお二階へ行ってらっしゃい」と息子の背中を押すと、ひとりで玄関まで出てきた。そして、小さな声で言う。

「先生……あの……何か失礼があったなら申し訳ありません」

「失礼?」

 聞き返しながらも、尚人はそれが何を指しているのか当然わかっている。奇妙なのは、現場を見たわけでも優馬から話を聞いたわけでもないのに、あの男と出くわした尚人が不愉快な目に遭ったことに真希絵が気付いていることだ。

「あの子――未生みおがここにいたんですよね。悪い子ではないんですけど口が悪いというかなんというか」

 申し訳なさそうに真希絵は「未生」という名前を口にした。

「さっきの彼は、未生というんですか」

「ええ。歳は離れていますが優馬の兄です。普段この時間に帰ってくることはないんですけど、今日はどうしたのかしら」

 尚人は、さっきまで目の前にいた未生の姿を思い出す。あれが優馬の兄だって? 体格といい物腰といい、おそらく大学生くらい――どう若く見積もったとしても十代後半にしか見えない。三十代半ばから後半であろう真希絵の息子には明らかに釣り合わない。

「優馬くんの……お兄さん……」

 最低限の常識が働き、尚人はそれ以上の質問を控えた。

 あの失礼な男――未生と優馬の兄弟関係には、きっと他人に軽く話すには差し障る事情がある。もしかしたらそれこそが、未生が尚人へ敵対的な態度を取った理由なのかもしれない。

 でもそんなこと尚人には関係ないことだ。笠井家の事情など一介の家庭教師である尚人には関係なくて、確かなことはただひとつ、初対面の相手から理不尽な態度を取られたというそれだけ。

「別に、何もありませんよ。彼も優馬くんに家庭教師がついたことを知らなかったみたいで少し驚いたんでしょう」

 いい年をした「息子」の態度の悪さにひたすら恐縮する真希絵が不憫だったので、尚人はそう言って笠井家を後にする。明らかに尚人の言葉を信じていないであろう真希絵は、気まずそうな表情で何度も頭を下げた。

 帰宅すると、案の定部屋の明かりは消えたままだった。

 ここ数年こんな早い時間に栄が帰宅したことなど一度だってないのだから当たり前の話だ。なのにいまだに心の奥底で失望してしまう自分はまったく修行が足りていない。そして、こんなに寂しさを募らせているにも関わらず、栄の顔を見ればただ頑張ってと励ますことしかできないのだ。

 本当は、たまには早く帰って来て欲しい。学生時代のようにいろいろな話をしたい。今日みたいな日、学生時代だったら「家庭教師先で嫌なことがあってさ」と気軽に愚痴をこぼすことができたはずだし、栄は一緒になって怒ってくれただろう。

 同じ大学で出会ってから十年、付き合いはじめて八年。いまはまだ仲良く楽しく過ごした期間の方が長いけれど、このまますれ違う暮らしが続けばいつか、尚人の記憶の中ですら、優しく朗らかな栄の姿は遠くなっていくかもしれない。尚人はただそのことが怖かった。

 とりあえずシャワーを浴びて夕食にしよう。そう思って脱衣所に向かったところで、ポケットの中のスマートフォンが震えた。