5. 尚人

 画面に「塚本つかもとなぎさ」という発信者名が表示されているのを確認して少し躊躇したものの、尚人は電話に出ることにした。いまは誰かと話していた方がきっと気が紛れる。

「もしもし相良? 元気?」

 相変わらずはつらつとした様子の渚は、大学時代に学部から博士課程までずっと尚人と同じゼミに所属していた女性だ。

「うん、元気だよ。どうしたの、電話なんて珍しいね」

「最近相良と会ってないし、どうしてるかなと思って」

 渚は辛いだの死ぬだのさんざん弱音と愚痴を撒き散らしながらも規定年数のあいだに論文を書き上げ博士号を取得し、尚人より先に大学院を出て行った。人文系のアカデミアにありがちなこととして修了時点で就職は決まっていなかったものの、とある学術団体の特別研究員として三年のあいだ資金供与を受けて研究を行ないながら正規の大学教員の席を探している。

「そうだね、僕が大学やめて会う機会もなくなったし」

 フリーの研究者に近い立場にある渚は母校を訪れる機会も多く、尚人が院に残っていた頃はしょっちゅう顔を合わせていた。最近会っていないのは、尚人が論文をあきらめて大学を辞めてしまったからに他ならない。

 三年以内に博士号を取得すること自体簡単ではなく、しかも高倍率の特別研究員の籍を射止めた渚は同期の中では有望株ではあるからこそ、彼女に嫉妬や劣等感を抱く者は少なくない。以前は影で彼女をやっかむ声を聞くたびに嫌な気持ちになったものだが、いざ自分が完全に学術の世界からこぼれ落ちてしまえば、やはり渚との会話には複雑な気持ちが伴う。

「それは関係ないわよ。わたしも最近全然ゼミに顔出してないし。ていうか、相良ってまだ谷口とルームシェア続けてるんだよね。谷口も元気にしてる?」

 関係ない、と言いながらもさりげなく話題をそらしている時点で渚が気を使っているのは明らかだ。ただ彼女にとっても誤算なのは、そらした先の話題もまた尚人にとっては歓迎できないものであるということだ。

「栄は……うん、仕事はすごく忙しそうだけど、元気だよ」

 いい年をして男二人がルームシェアをしている時点で何らかの疑いは向けられているのかもしれないが、渚はそんな様子はおくびにも出さない。だから尚人も、寝室を分けられているとか、セックスレスが続いているとか、そんな話は決してしない。もちろん最近の栄がいつも疲れて不機嫌で、全然元気そうには見えないということも、口に出せるはずはなかった。

「まあでもずっと官僚一筋だったなら、やり甲斐は感じているんだろうね」

 放っておいたら渚が栄の話題を続けそうなので、尚人はあわてて話の方向を変える。

「……あ、そっちは、渚ちゃんの旦那さんは元気にしてる?」

 渚は大学院卒業と同時に結婚をした。相手は同じ大学の理系学部出身の男で、元々は友人の紹介で出会ったのだと聞いている。

 尚人が話を振ると、意外にも渚は猛烈な勢いで溜まっていた不満を吐き出しはじめた。

「全然元気じゃない。うちの夫も一部上場だか有名企業だか知らないけど、中身は超ブラック。毎晩終電間際にしか帰ってこないし。土日は勉強会とかでわたしが外すこと多いから、一緒に過ごす暇もろくろくないわよ」

「そっか。大変だね」

 言いながら、自分も渚のように振る舞えば良いのだろうかと頭をかすめる。栄の態度に不満を溜めるだけでなく、渚のようにあっさりと「元気じゃない」「一緒に過ごす暇がない」と吐き出してしまえば、少しは楽になるのだろうか。でも自分と栄は男女のカップルでも夫婦でもない。

 ぼんやりと考えている尚人をよそに渚は続けてまくし立てた。

「そうよ。クソ忙しいのになんとか都合つけてお盆に旦那の実家に行ってきたら、お姑さんわたしの顔見るなり『ねえ渚さん、孫はまだかしら』だもん。こっちはいまそれどころじゃないっつーの。しかもいまだに『渚さんはどうして仕事で旧姓を使い続けるのかしら』って、チクチクと。苗字変わったらいままでの研究実績が無に還るっていうのに」

「まあ、そういう事情ってなかなか伝わりづらいから。でも大丈夫だよ、渚ちゃんならやりたいように貫けるよ」

「まあねー、ジジババに嫌味言われたからって聞く気はないんだけど、疲れちゃうわ。……あ、そう。それで本題なんだけど」

 一通り吐き出したからか、尚人の相槌が正しかったのか、渚は一息ついて話題を変えた。

「本題?」

 そこで尚人は、渚が突然電話をかけてきた理由がただのご機嫌伺いでもなければ、夫や義両親への愚痴を吐き出すことでもなかったのだと知る。

「久しぶりにゼミの同窓会をやらないかって話になって、そのお誘い」

「珍しいね、渚ちゃんが幹事なんか」

 思わず尚人はそう返した。調整ごとが嫌いで、ある意味要領よく人を働かせることに長けている渚が自ら飲み会の幹事をしているところなど、ほとんど見たことがない。すると渚は尚人の言葉を否定した。

「あ、幹事はわたしじゃなくて菅沼すがぬま。えっと、で、わたしが相良に電話したのはもうひとつ報告があるからで……」

 そこでピンときた。

「もしかしてポスト、決まった?」

 一瞬の間。そして、勢いっぱい平然を装っている風な軽さで渚は言う。

「そうなのよ。もう、どれだけアプライしまくったか自分でも覚えてないけど、やっと引っかかったんだ」

「どこ? 正規のポスト?」

「うん、N大教育学部の准教授」

 尚人は賞賛のため息を吐いた。ただでさえ少ない人文系若手ポストで、有名校、しかも都内の大学といえば倍率は相当高いはずだ。

「すごいじゃないか。N大なら学生のレベルも高そうだし、やりがいありそう。おめでとう……もしかして今回の同窓会って、お祝い会?」

「うん、まあそんな感じかな。で、相良にはまだポストが決まったこと報告できてなかったから、せっかくだし自分で連絡しようと思って」

 そういうことだったのか、と思った。

 なぜ親しいはずの尚人への報告が、すでにお祝い会の幹事が決まった後になってしまったのか。なぜ開口一番にポストの話をしてくれなかったのか。同じように博士号を取って、昨日の友から数少ない同分野のポストを奪い合うライバルに変わった同窓生たち。その彼らと比べてもきっと渚にとって尚人は「特別な配慮を要する人間」なのだ。もはや同じラインにもつけない落伍者だから――。

「皆とも久々に会いたいよ。日程は後でメールして。ただ僕さ、夕方から夜の仕事だし土日も結構授業入ってるから、もしかしたら厳しいかも」

 あらかじめ「参加は難しいかもしれない」ことを匂わせてしまったのは、いまの時点で同窓会に参加する気が皆無だからだ。もちろん言外に込めた意味は伝わったのだろう、渚は「わたしも相良には会いたいけど、忙しいなら無理はしないでね」と努めて明るい様子で電話を切った。

 こういうことの積み重ねでどんどん友人たちとのあいだに溝ができるのはわかっている。誰から意地悪をされているわけでもない。皆きっと善意で尚人に声をかけてくれる。それに対して劣等感で返すから、次回からは気を遣って誘われなくなるのだ。

 研究や論文執筆に行き詰まる中で学者には向いていないことを思い知り、大学院をやめる決断をしたのは誰でもない自分自身だ。教授も、渚も、他の友人も、もちろん栄だってさんざん止めた。何のためにこれまで頑張ってきたのか、ずっと研究者を目指していたのになぜここで。でも自分の才能のなさは誰より自分自身がわかっている。だから尚人は周囲の制止を振り切って退学届けを出した。

 誰も悪くないのに――自分の決断に自信を持って、いまの仕事を誇ってみんなの前に出て行けば良いだけのことなのに――どうしてそれができないのだろう。

 尚人はときどき、自分だけが世界から置いていかれているような感覚に襲われる。世間一般のアラサーは、例えば栄のように、職場で経験を積み部下や役職がついてくる年代だ。結婚して子どものひとり二人育てている友人だってざらにいる。そんな年齢になってまだ、自分は同居している恋人との関係に悩み、就いたばかりの仕事にあくせくしながら自ら捨てたものの重さに縛られている。

 あいつ――未生という男には売り言葉に買い言葉で偉そうなことを言ったが、本当は家庭教師という仕事に誇りも責任も感じてはいない。小・中学生相手に勉強を教えるだけの仕事を望んだわけでもない。ただ、いまさら他に何もできなかっただけだ。

 手先の技術が身につくわけでもない大学院に長く居座った末に博士号も取れなかった二十八歳の男にできることなど何もない。教員免許は取得していないから学校で教える選択肢がない以上、家庭教師や塾、予備校しか選択肢がなく、消去法でそれらの中から一番マイペースでできそうな仕事を選んだ、それだけだ。

 未生の、訝しむような蔑むような表情を思い出す。

 真希絵は、普段は未生はこの時間には家にいないのだと言っていた。その言葉が真実であればいいと思う。もう二度と彼の顔は見たくない。

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