6. 尚人

 ちょうど一週間後、再び笠井優馬の家を訪れる日はひどい雨が降っていた。それだけでも憂鬱な気分になるのに、さらに運の悪いことに、尚人は家庭教師事務所にスマートフォンを忘れたまま授業へ出かけてしまった。

 気づいたときにはもう引き返すことのできない場所まで来ていたので、仕方なしにそのまま一番手である女子中学生の家に向かう。授業が終わって時間があれば取りに戻るか、せめてスマートフォンが手元にないことを事務所へ連絡しておきたいと思ったのだが、少女の母親から高校受験についての相談を受けているうちに次の授業までギリギリの時間になってしまった。

 腕時計はある。スケジュールはクラウドで共有しているから、家に帰ればパソコンから確認することができる。心許ない気はするものの一晩くらいスマートフォンが手元になくてもそう困ることはないだろう。そう判断して尚人は今日中に忘れ物を取りに行くことをあきらめた。

 優馬の家に向かう頃にはすっかり日も落ちて、雨足はますます強まっていた。傘は差しているものの歩行者のことなどこれぽっちも考えない車が跳ねた水のせいでスーツ姿の半身はびしょびしょ、靴も中まで水浸しになっている。カバンの中にはビニール袋に入れたタオルを持っているが、たった一枚ぽっちで収拾がつくかもわからない。水浸しでよその家に上がりこむことはできないから、最悪の場合は真希絵に頼んでタオルを借りるしかないだろう。

 笠井家のインターフォンを押すと少しのあいだを置いてから反応があった。しかし、普段と違って真希絵の声はしないままぶつりと通話は途切れてしまう。不具合だろうか、そう思った尚人がもう一度ボタンを押そうとしたとき玄関の扉が開く。そしてドアの内側に立っていたのはあの感じの悪い若者――笠井未生だった。

「えっ? あ、あのっ」

 尚人は後ずさった。一番会いたくない相手に出くわしてしまった驚きはもちろん、動揺したのは未生の格好のせいだ。下はスウェットに、上半身は裸。しかもシャワーから上がったばかりなのか、タオルをかけた肩には濡れた髪からポタポタと雫が滴っている。

 いくら同性が恋愛対象だからといって、誰も彼もをそういう目で見ているわけではない。しかもここにいるのは先週ひどく無礼な態度を取ってきた嫌な相手だ。だが、着痩せするタイプなのか、思いのほか引き締まりたくましい未生の上半身に思わず視線を奪われそうになり、尚人はあわてて視線をそらした。

「ゆ、優馬くんの授業で来たんですけど……」

 不自然に目をそらしたままそう切り出す。時間はほぼ約束どおり。優馬との授業のためにやってきたのに、どうして真希絵でも優馬でもなくこの男が玄関先に出てくるのだろう。しかもこんな格好で。

 未生は黙ったまま尚人を値踏みするように見つめていた。先週と同じ、ひどく居心地が悪くなる視線。ずぶ濡れで玄関先に立って挙動不審な態度をとる男がそんなに滑稽だろうか。

 心ゆくまで観察したのか、やがて未生は億劫そうに口を開いた。

「今日はキャンセルだってさ。優馬は体育の授業で跳び箱に激突して、真希絵さんと病院に行ってる。あんたの携帯に何度も電話したけど応答がないから家庭教師センター? にも電話したけど、そっちの人も連絡がつかないって困ってたらしい」

「あ、携帯……」

 かっと顔が熱くなった。まさか今日に限って、途中で予定変更の連絡が入っていたとは。公衆電話を探してでも一度事務所に連絡すべきだった。どうしても尚人に連絡がつかないから真希絵は、未生に留守番と伝言を頼んだのかもしれない。

「き、今日はスマホを事務所に忘れてきてしまって。だから連絡がつかなかったのだと」

 よりによって未生の前で醜態を晒すことが恥ずかしくてうつむくと、髪からポタポタと雫が落ちる。それどころかよく見れば、革靴から染み出した水が足元に小さな水たまりを作りはじめていた。

「すみません、キャンセルの詳細についてはまた後日、優馬くんのお母様へ連絡させていただきますので、今日は失礼します」

 早口でそう行ってきびすを返そうとしたところで、ふわりとした感触が頭を覆った。手をやると、それはタオルだった。ついいままで未生の肩にかかっていたタオルが尚人の頭にかけられている。

「センセー、風呂上がりみたいにびしょびしょになってる。傘さすの下手くそなんだな」

 未生はそう言った。意外なことに口ぶりは素朴で、特に嫌味も皮肉も込められてはいない。だが、年下の男から傘の使い方が下手だと言われた尚人は面白くない。

「……確かに上手くはないけど、これは、そこの通りで車から」

 顔は見ていない。でも、尚人の答えに対して未生はふっと笑ったような気がした。

「ああ、あそこの道路は皆容赦なく飛ばすからな。そんな黒っぽい服着てるからなおさら、この時間帯じゃドライバーからは見えないんだ」

 尚人は戸惑った。とりわけ友好的というわけでもないが、未生は淡々と世間話を続ける。それにどう応じるべきなのか。そしてこのタオルをどうしたらいいのだろう。一応行為としては親切なもので、もしかして未生なりに先週の態度を悪かったと思っているのだろうか。尚人は受け取ったタオルで申し訳程度に髪を拭うと、それを綺麗に折りたたんで未生に差し出した。

「あ、ありがとうございました。じゃあ僕はここで」

 お礼を言うときくらい相手の顔を見なければいけない。わかっているが、そうすれば未生の裸が目に入る。くっきりと浮いた喉仏や鎖骨、その下にある適度に盛り上がった胸筋と、うっすらと割れた腹筋――。

 かつてはこんな風ではなかった。性志向を隠している尚人は、体育の授業があれば人と同じ更衣室で着替え、合宿のときは友人たちと一緒に温泉に入ったこともある。それでもいまみたいに他人の身体に目がいくことはなかった。

 これも、栄とのセックスレスからくる欲求不満のせいなのだろうか。恥ずかしくて消え去りたいような気持ちで今度こそ玄関のドアノブに手をかけようとした尚人に、未生は意外な言葉を口にする。

「あんたさ、彼氏いるの?」

「えっ?」

 間違いなく「彼女」でも「恋人」でもなく「彼氏」と聞こえた。とっさに言い返すこともできずただ硬直した尚人に、今度こそ間違いない――笑いながら未生は続けた。

「別にごまかさなくていいよ。俺、両刀バイだし、こういうの見分けるの得意なんだよ。先週会ったときからもしかしたらとは思ってたけど、さっき確信したね。当てようか、彼氏はいる。付き合ってそれなりに長い。でも最近は倦怠期でセックスもご無沙汰、違う?」

 スラスラと淀みない言葉に尚人の心は抉られる。

 隠している性志向のことも、誰にも打ち明けられずにいる栄とのセックスレスのことも、なぜたったの二度、ほんの短時間顔を合わせたばかりのこの男に暴かれてしまうのだろう。

「何勘違いしてるんだか知らないけど、変なこと言わないでください。僕は帰ります!」

「図星か。だってさ、あんな物欲しそうな目で俺の体見るんだもん、バレバレだよ。よっぽど男の体に飢えてるんだなって、誰でもわかるよ」

 これ以上ないほどの追い討ちをかけられ恥ずかしさに死にそうになる。自分はそんな状態にあるのか。気づかれてしまうほどあからさまな視線で未生の体を見てしまったのか。心当たりがあるだけに言い返すこともできずただ黙り込む。

 そんな尚人の頭上から降ってきたのは思いも寄らない申し出だった。

「ねえセンセー、慰めてあげようか」