7. 未生

 下卑た誘いに引きつった表情を浮かべる男を見下ろしながら、笠井未生は「ちょろそうな相手だ」と思った。

 それなりに整った顔立ちをしているし見た目にも相応に気を遣っているようだが、自信のなさそうな雰囲気のせいでパッとしない印象を残す。その上スーツも革靴もびしょびしょの濡れ鼠になって玄関先に立っているのだから、今日の相良尚人はとんでもなくみすぼらしく見えた。

 しかも未生が当てずっぽうで口にした言葉は図星だったようだ。一応はしらばっくれているつもりのようだが、嘘をつくのがあまりに下手すぎる。自慢ではないが未生は他人の弱みを見抜くのは得意だ。そして――惨めな人間が好きだ。

 ――可哀想だけど、運が悪かったと思ってもらうしかないな。

 こちらがそんなことを考えていると知ってか知らずか、尚人は寒さのせいか動揺のせいか小刻みに震えていた。

 未生が、半分血が繋がった弟・優馬の家庭教師である相良尚人に会うのはこれで二度目になる。初対面で強い印象を受けたわけではないが、しいて言うならばちょっと突いただけでむきになってきたのは面白かった。もう少しからかってやってもいいくらいだったが、優馬の面前であることが未生の心にいくらかのブレーキをかけたし、何より途中で真希絵の帰宅という邪魔が入った。

 その後、尚人のことを思い出しもしないまま一週間が経った。

 ある程度の遊ぶ金を手に入れられる程度にアルバイトをして、キープしている数人の相手と関係が途切れない程度に会って、留年しない程度に大学に通って。外野から見ればお気楽そのものなのかもしれないが、未生の毎日はそれなりに忙しい。

 週末には、普段この家に寄り付きもしない父親が珍しく姿を現した。アルバイトに出かけようとする未生を見つけると、くだらないことに時間を使っている暇があったら大学の勉強や、将来の役に立つ資格試験の準備でもすべきだと一通りの説教をした。同意を求められた真希絵は気まずそうに未生を横目で見て、しかし最終的には父親の味方をする。

「そうよ未生くん。言ってくれればお小遣いは必要なだけ渡すから」

 この目障りなおっさんの稼いできた金の世話になるのが嫌なだけだよ、という言葉を飲み込んだのは、言い返せば言い返しただけ父親の説教時間が倍々ゲームのように延びていくだけだと身をもって知っているからに他ならない。

 もちろん親の金で建てた家に住んで、親に学費を出してもらって大学に通っている以上、世話になりたくないというのがただの詭弁であることも理解している。ただ、ここに住んでいるのは未生の意思ではないし、大学だって別に行きたかったわけではない。父親が強要した部分について彼が金を払うのはある意味当然のことだと自分を納得させていた。

 ともかくそんな一件もあったおかげで未生の気分はずっと優れなかった。

 そして、真希絵から電話がかかってきたのはほんの数時間前のこと。どうせろくな用件ではないと無視を決め込んだが、三度の長い呼び出し音を黙殺した後で今度は優馬のキッズ携帯からの着信があった。

「ちっ、ガキを使いやがって」

 思わず吐き捨てる。

 もちろんその電話をかけてきているのが優馬ではなく真希絵であることはほとんど確実だった。だが、たった一パーセントでも電話の主が弟である可能性がある限り、未生にはそれを無視することはできない。

「……もしもし」

「もしもし、未生くん?」

 通話ボタンを押しぶっきらぼうに返事をすると意外にも電話口に出たのは優馬だった。

 優馬は未生のことを「未生くん」と呼ぶ。父や真希絵は当初優馬に対して未生のことを「お兄ちゃん」と呼ぶよう教えた。それをかたくなに嫌がったのは未生の側で、ことあるごとに「その呼び方はやめろ」と優馬に言い聞かせ続けた。兄弟らしくない呼び名に渋い顔をしていた父も、親と兄のあいだで板挟みになる優馬が不憫だったのか、いつからか「未生くん」という呼び名を黙認するようになった。もちろん父が未生に対して真希絵を「お母さん」と呼ぶよう強要した際にも、未生は決して従わなかった。

「なんだよ優馬、用事?」

 父親には罪がある。ステップマザーである真希絵には同情の余地はあるが、最終的にあの父親と結婚することに同意した時点で彼女自身にも非がある。一方で幼い優馬には、こんなクソのような兄を持ってしまったことに対してなんの責任もない。だから未生は、父や真希絵にどれだけひどい態度を取ろうとも、優馬にだけは優しくするのだと決めていた。

「あのさ、僕体育の授業でぶつかっちゃって、いま病院にいるの」

 優馬の声はいつもより少し元気がないようだった。

「病院? ひどい怪我したのか?」

 思わず大きな声をあげた未生だが、優馬が「ううん」と否定の言葉を口にしたのでほっと胸をなで下ろす。

「たんこぶができたくらいなんだけど、頭をぶつけたから念のため検査するんだってママが。でさ、今日の夕方の家庭教師の授業に間に合わないの」

「だから?」

 優馬の怪我がおおごとでないのは何よりだが、病院にいるから家庭教師の授業に間に合わないというのは未生にはなんの関係もないことだ。怪訝な声を上げる未生に優馬は、真希絵が何度も家庭教師に電話をかけるがまったく応答がないこと、メッセンジャーに連絡を入れても既読マークが付かないことを告げた。家庭教師派遣会社に頼んで連絡を取ってもらおうともしたが、会社からの電話にも出ないのだという。きっと、電話をどこかに置き忘れたか、もしくは電池を切らしてしまっているのだろう。

 そして優馬は無邪気な頼みごとをする。

「ママがね、未生くんにお家に帰って、先生に今日の授業をなしにして欲しいって伝えておいてって」

「は?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。

「別にいなきゃいないで帰るだろ。ガキじゃないんだから」

 相手が優馬であることも忘れてぶつくさと文句を言っていると、電話の相手が真希絵に変わった。

「未生くん、本当にごめんなさい。でもさすがにキャンセルの連絡もつかないまま家が無人っていうのも失礼だし、何しろこんなひどい雨じゃない。先生すごく真面目な方だから雨の中待ってるかもしれないと思うと申し訳なくて……」

 正直、真希絵の頼みを聞くのは嫌だった。でも、今日はアルバイトも入っておらず、大雨のせいか一緒に遊びに出かける友人も捕まらない。どうせ父親は帰ってこないし、真希絵と優馬も遅くなるというならば、ひとりでのんびり過ごせる家に早めに戻るのも悪くはない。

 今回だけだからな、と念を押して未生は家に戻ることを了承した。帰宅するあいだに濡れたので家に戻ってシャワーを浴び終えたちょうどそこでインターフォンが鳴ったので、上半身裸のままで玄関に出た――まさか優馬の家庭教師が自分の裸にあからさまな反応を見せるとは、その時点では想像もしていなかった。