「悪いけど君の冗談に付き合っている暇はないんだ」
全身で逃げを打とうとする尚人を追って、未生は三和土に降りる。冷静を装った言葉とはうらはらに萎縮した姿を見ると、獲物を見つけた肉食動物の興奮で背中がぞくぞくした。
まったく面白いことになった。真希絵の頼みを聞くなんて面倒だと思っていたが、いまとなってはこんなおいしいチャンスを与えてくれた彼女に感謝したいくらいだ。
「冗談じゃないって。授業キャンセルになって時間はあるだろう? こんなにひどい天気なんだから、ちょっとゆっくりしてシャワーでも浴びて帰ればいいじゃんか」
「触るなっ」
押し返されたタオルで尚人の髪を拭いてやろうとすると、思いのほか強い力で振り払われた。しかしもちろん未生だってせっかく見つけたターゲットを簡単に逃がすつもりはない。さすがにこの常識人ヅラをした男が今日この場で陥落するとは思っていないが、しっかりと種子をまいておきさえすれば、遠からず尚人は未生の助けを求めてくるだろう。
「触るなって、ひどいなセンセー。むしろあんたがさっき、触りたくて仕方ないって目で俺の体見てきたくせに。どのくらいご無沙汰してるの? 一ヶ月? 二ヶ月? もしかしたらもっと?」
「だから、誤解だって」
今度こそドアノブをつかんだ尚人の手の上から、未生は自分の手を重ねた。雨に濡れたためか、緊張のと動揺――もしくはその両方のためか尚人の手は冷え切っていた。だから優しく、でも逃げ場のないやり方でそれを包み込み未生は若い体温を怯えきった男に移してやる。
「可哀想に、同じ男だから辛さはわかるよ。別に相手に言いつけたりしないし、相性が合わなければ一度でやめればいい。俺は面倒くさくない相手だし、もちろん病気も持ってないし、風俗や出会い系を漁るよりはよっぽど安全だと思うけどな」
背後から耳元に口を寄せてささやくあいだ、尚人はただ硬直していた。かたくなな表情だが、未生の言葉が響いているのは確かだ。何より実際に体温や息づかいに触れて、欲求不満をこじらせた男が何も感じずにいられるわけはない。
そして、尚人の呼吸が速くなり、雨の雫か汗かわからない水滴がつうっとこめかみを伝ったタイミングで、未生はあっさりと体を離す。
「……まあ、センセーだって急に言われても心の準備ができないだろうから、ちょっと考えておいてよ」
突然の解放に、はっとしたように尚人が顔を上げる。
きっと尚人は、未生にひどい反発を覚える一方で心の揺れを感じていた。この肌に触れてこの体温に包まれるところを少しくらい想像したはずだ。だからこそ未生はここで尚人を自由にする。ほのめかす程度の行為で終わるからこそ、尚人はきっとその先について考えずにはいられなくなる。
「き、今日の失礼な言葉は、聞かなかったことにします。もう二度とこんなことしないでください」
蚊の鳴くような声でそう言った尚人は泣きそうだった。そして、弾かれたように玄関から飛び出して行く。傘もささずに水たまりの中を走って、きっとまたずぶ濡れになってしまうだろう。スーツ姿の背中が夜の闇に溶けて消えるのを未生はじっと見送った。
動揺させることに成功しただけで、今日のところはとりあえず上出来。尚人は家庭教師の仕事のため嫌でも週に一度はこの家にやってくるのだから、これからも何度だってチャンスはやってくる。もちろんこれだけ露骨なことをやって尚人が優馬の家庭教師を辞めたがる可能性もゼロではないが、責任感が強そうな男だし、何より彼には周囲に未生とのあいだの出来事を他言する度胸はないだろう。
「新しいおもちゃ、手に入るといいな」
そうつぶやくと、未生は鼻歌を歌いながら脱衣所へ戻った。
いまキープしている数人の遊び相手との関係はそろそろ潮時だと思っていたから、タイミングとしても絶好だ。映子は顔もスタイルも抜群な女だが、最近では浮気相手である未生に本気になりそうだと匂わせることが増えて重荷になっている。彼氏に浮気がばれそうだとこぼしてきた樹とは、もう長くは続かないような気がしている。あの家庭教師の男を上手く落とすことができれば他を清算するいいきっかけになるだろう。
未生に恋人はいない、いるのはセックスフレンドだけだ。そのセックスフレンドにも未生なりに譲れない条件があって、一つは本命の恋人が他にいること。もう一つは、本命の恋人との肉体関係に満足していないこと。
自分でも歪んだ性癖だと思うが、未生は可哀想な人間が好きだ。叶わない思いや欲望を持て余して、飢えて飢えて飢えまくった人間にしか惹かれない。
そういう相手に言葉巧みに近づき体の関係を持ちかけると、最初は拒まれるものの最終的には結構な割合で「じゃあ、一度だけ」ということになる。あとはなし崩しだ。彼らは、未生が本命の恋人ではないからこそ呆れられることも嫌われることも恐れず欲望を解き放つ。
決して恋人には見せないであろうあからさまな痴態を晒す人間の姿は哀れで、どうしようもなく未生を興奮させる。そして、そんな歪んだ行為だけが未生にとって満たされるセックスで、例えば相手が未生に気持ちを移そうものなら途端に興味は失われてしまうのだ。
前にひどく酔っ払ったときに、友人相手に冗談交じりで自分の性癖について話したことがある。同じくらい酔っていた友人は未生のことを人でなし、ろくでなしとさんざんコケにしたが、最後は妙に真面目な表情になって未生の両肩をつかんだ。
「冗談なら良いけど、マジでそういうことやってんなら、ほどほどにしといたほうがいいぞ。セフレからなのか、その恋人からなのかわかんないけど、いつか刺されてもおかしくないからな」
そのときは笑って「わかった気をつける」と答えたが、そんなくだらない理由で刺されて死ぬようなことがあるならば、それはそれで面白いかもしれないと思っている。少なくとも父親には最大級の恥をかかせることができるだろう。
まあ、そういったあれこれは置いておいて、とりあえずいまはあの男――相良尚人を落としたい。
「あ、そうだ」
未生は裸の上半身に服を着るとリビングに行き、真希絵が優馬の教育関係の書類を入れているキャビネットを開けた。学校、習い事、保険……ジャンルごとにクリアファイルに分類されている中から家庭教師関係のファイルを取り出す。
その中には尚人の緊急連絡先が書かれたメモが挟まっていた。