普段より早い時間についた事務所で机に積んである書類を動かすと、昨日何かの拍子に紛れ込ませてしまったスマートフォンが姿を現した。
「あー、やっぱり……」
スリープ画面には着信履歴とメッセンジャーの受信履歴がずらりと並んでいる。もちろんそのほとんどは授業のキャンセルを知らせる真希絵からのものと、真希絵からの相談を受けて事務所のスタッフが連絡してきたものだった。
いくら嘆いてもどうしようもないとわかってはいるが、これを机に置き忘れてしまったがために昨日あんな目に遭ったのだと思うと悔やんでも悔やみきれない。ちゃんと連絡のつく状態でさえいれば笠井家で未生と出くわすことはなかったし、あんな品のない言葉でからかわれることもなかった。
思い出すだけで悔しさと恥ずかしさで顔が熱くなる。あんな若くて無礼な男の挑発にいとも簡単に翻弄されて――否定はしたけれど、どうせ信じてもらえてはいない。ほんの一瞬、裸の体に目がいっただけで性向も欲望も、それどころか恋人とのあいだに抱えている問題すら見透かされてしまったなんて。
未生から逃げることに必死で、傘も差さずにしばらく雨の中を走った。幸い城西地区の住宅街にある笠井家から都心の自宅マンションに戻る電車は帰宅ラッシュには逆行していたので、満員電車の中でずぶ濡れの尚人が白眼視されることは回避できた。
自宅に戻って風呂に湯をため凍えた体を温めているあいだも、ベッドに潜り込んでからも、未生からかけられた下世話な言葉や、若く引き締まった裸の上半身が何度も頭の中に浮かんでは消える。忘れようとすればするほどイメージはむしろ強固になった。
――どうしよう、もうあの家には行きたくない。
枕元のカレンダーには毎日新しい印が増えて、尚人の「タイムリミット」まではあと七日間となっている。確かにセックスレスが一年に達したら一夜だけ火遊びをしようと考えてはいたが、もちろんそのときは尚人の素性を知らず後腐れのない相手を求めるつもりで、家庭教師先の家庭で男漁りをする気などさらさらなかった。それどころか、いざ未生から秘めた浮気願望を指摘されてしまえば、尚人は自分が栄をひどく裏切ってしまっているのだという罪悪感に苛まれた。
悶々と考えているところに、家庭教師派遣会社の代表である冨樫が入ってきた。
「お、相良。昨日大丈夫だったか? 連絡がつかないから笠井さんすっげえ心配してたよ」
尚人はあわてて顔を上げ、笑顔を作ってみせる。
「冨樫さん、すいません僕ここに携帯忘れちゃってて。何度も連絡してくれたんですよね」
「どうせそんなことだろうとは思ったんだけどさ。で、結局笠井さんのとこ行っちゃったんだろ? しばらく待った?」
屈託ない質問にぎくりとするのは、未生のことを思い出してしまったからだ。尚人は忌まわしい記憶を必死で振り払おうとした。
「ああ、ご家族の方がいたから……授業キャンセルの件を聞いてすぐに引き返しました。大丈夫です」
本当は大丈夫ではない。昨晩は、いっそ冨樫に頼んで笠井優馬の担当を外してもらうことはできないかとまで思い詰めた。だって、あの家に行けばまた未生に出くわす可能性がある。もちろん未生だって真希絵や優馬のいる場所で妙な真似には出ないだろうが、そもそも仕事場に自分の性志向を知っている相手がいるというだけでも落ち着かない。
でも尚人は、自分がそんなこと決して言い出せないこともわかっている。突然優馬の担当を外れたいなどと言えば、きっと冨樫からも、そして真希絵や優馬からも理由を問われるだろう。そのとき答える言葉を尚人は持っていなかった。
よく言えばおおらか、悪く言えば鈍感な冨樫は尚人が落ち着かない態度でいることに気づく様子はなく、代わりに申し訳なさそうに言う。
「ていうか本当は社用の携帯支給を考えなきゃいけないってわかってるんだけど、なかなか手が回らなくて。私用の携帯で家庭教師先との連絡なんて嫌だろ、悪いな」
尚人は左右に首を振った。女性であれば個人情報をむやみにばらまくことには抵抗があるだろうが、尚人自身は私用の電話を仕事に使うことに特段の抵抗はない。
「別に、僕は大丈夫ですよ。雇ってもらってるだけでも感謝してますから」
「でもな、ずっとサークルの延長みたいなノリでやってきたけど本格的に事業化もしたわけだし、ちゃんと環境を整えないと人材も集まらないからな。本当に、相良みたいなやつが専業で来てくれたのは奇跡というか棚からぼたもちというか」
冨樫はこの家庭教師派遣会社の代表であると同時に、尚人の大学の先輩でもある。
大学時代に個人契約で家庭教師のアルバイトをしている学生同士をネットワーク化し、案件を紹介し合ったり、卒業時の引き継ぎ相手探しを支援したりする活動をしていた冨樫は、卒業後に本格的に家庭教師派遣会社の運営に乗り出した。量より質、国内最難関校である母校のネットワークを活かして細かなニーズに応えた派遣を行うというのが売りで、いまのところ出だしはそれなりに順調だ。
「そういえば相良、おまえまだ転職とか考えてないのか?」
「どうしてですか?」
予想外の質問に質問で返すと、冨樫は真面目くさった顔で身を乗り出す。
「だってT大の院まで出てこんな出来立てホヤホヤの零細企業で家庭教師なんて、どう考えても割に合わないだろ。それに、おまえまだ大学に未練があるんじゃないの?」
ストレートな物言いに胸の奥がわずかに痛んだ。冨樫に悪気がないのはわかっている。例えば最初に会ったときの未生のような、明らかに揶揄する意図を持った口振りとは違って、冨樫は本気で尚人が大学の先輩に気を遣ってキャリアに見合わない職を続けているのではないかと心配してくれているのだ。だから尚人は作り笑いをする。
「未練なんてありませんよ。院にいるあいだに嫌というほど自分に研究者の適性がないってことは思い知りましたから。行動力も胆力もないし、いざってときの集中力も追い込みも弱い。何より論文書けなかったのが答えですよ」
笑顔で何度も繰り返してきた「自分は後悔していない」「納得していまの道を選んだ」という言葉とポーズ。本当は一番割り切れていないのは自分なのに。
冨樫は複雑そうな表情のまま「まあ、おまえがそう言うならそうなのかもな」とつぶやくと、ポケットからタバコを取り出して部屋の外へ消えていった。この雑居ビルは館内禁煙が徹底されているので、喫煙者の冨樫はタバコを吸いたくなると建物の外に作られた喫煙所まで出ていく必要があるのだ。
面倒な会話が終わったことにホッとした尚人は再び手元のスマートフォンに目を落とし――SMSの新着メッセージが表示されていることに気づいた。
誰だろう、まさか今日も授業キャンセルが入ったのだろうか。画面にタップすると、そこに見知らぬ発信番号からのメッセージが浮かび上がる。
――昨日はどうも。例の話ゆっくり考えておいてね。
短いメッセージに名前はない。でも、発信者が誰なのかはあまりに明らかだ。真希絵のアドレス帳を見たのか、優馬から聞き出したのか、ともかく未生は尚人の電話番号を探り出し、わざわざこんな文章を送りつけてきたのだ。
「なんだよこれっ!」
尚人はスマートフォンを床に投げつけたい気持ちをすんでのところで抑える。そして、やっぱり社用携帯の支給を遠慮なんてするんじゃなかったと後悔した。