尚人は寝室で眠っていた。とても疲れていて誰にも邪魔されたくないけれど、ひとり寝を寂しく思う気持ちもある。小魚に引かれる釣竿の浮きのように眠りの浅い場所と深い場所を何度も行ったり来たりする。
ごく浅い場所まで意識が浮き上がったところで、廊下を歩く足音が聞こえてきた。ひとり暮らしをしている頃は防音性の低い安いマンションで暮らしていたから、いまも尚人は自分の足音が気になって家にいるときはスリッパを常に履いている。一方の栄は「ここ、分譲だから造りもしっかりしてるし、足音なんかそうそう響かないさ」と言い張り、風呂から上がってしばらくのあいだは素足のままで家中を歩き回る。
栄には潔癖気味なところがあり、湿った足でスリッパを履くのは不衛生で気持ち悪いというのが彼の主張だ。裸足でフローリングを歩くのとどっちが不衛生なのかは尚人には判別できないが、湿ったスリッパに雑菌が繁殖するよりフローリングを拭く方が手間がないと言われればそんな気もしてくる。
ともかく、これは栄の足音だ。とろとろとしたまどろみの中で尚人は思う。この足音を聞くたびに布団の中で体を固くして、心は「来るはずはない」と「今日はもしかしたら」のあいだをさまよう。毎日毎晩のように、尚人はそんな葛藤を繰り返してきた。
しかし今日は普段とは違い、近づいてきた足音は尚人の部屋の前でピタリと止まった。
小さな音を立ててドアが開くが、廊下の電気も消えているのか明かりは差しこまない。月は翳っていて部屋の中はただただ暗い。その漆黒の闇の中をぺたぺたとフローリングを踏む足音が近づいてきて、期待と不安に尚人の体は震えた。
上掛け越しにずっしりとした重みが覆いかぶさってくる。懐かしい重み、そして体温。それは尚人が長いあいだ待ち望み、狂おしく求めていたものだ。厚い布地越しにぎゅっと腕を回され抱きしめられる。
ひとりの長い夜は終わった。明日の朝はもうカレンダーに惨めな印をつけなくてもいい。そんな安堵と、久しぶりに恋人から抱かれることへの不安と興奮。どのタイミングで本当に目を覚ませば良いのだろう――そう思ったところで、耳元にふっと息が吹きかけられる。
その温度を尚人は知っていた。熱い吐息と少し笑いを含んだ口調。それは一年近く恋い焦がれた栄のものではなく……。
「ねえセンセー、慰めてあげるよ」
尚人は弾かれたように起き上がると、声の主を全力で振り払った。ばさり、と上掛けが床に落ちる音で正気に戻る。心臓は激しく打っていて、目を開けると朝の光で目の前がチカチカとした。
何度か大きく深呼吸をして平静を取り戻そうとする。大丈夫、いまは真夜中ではないし、この部屋には自分以外には誰もいない。いまのはただの悪い夢。そしてこんな夢を見たのはあいつ、笠井未生のせいに他ならない。
未生に妙な絡まれ方をしたのは火曜日の夕方、そして今日は金曜日。このあいだも未生の地味な嫌がらせは止むところを知らない。
嫌がらせといっても一通のSMSを送りつけてきた後で何回か電話の着信を入れてきたくらいなのだが、それでも尚人にとっては十分なプレッシャーだ。腹が立って未生の電話番号を着信拒否したが、あんな奴でも一応は自分の生徒の保護者だと思うと万が一の場合が気になってしまい、数時間後には設定を解除した。
「なんて夢を……」
恨めしい声でつぶやいてから立ち上がり、尚人はまっすぐシャワールームに向かう。悪夢のせいで寝汗をかいてしまったのだろう、体がじっとりとして気持ち悪い。耳に残る温度とざらついた欲望も併せて、熱い湯で流してしまいたかった。
昨晩も栄は尚人が寝た後で帰宅し起きる前に出かけて行ったのか、脱衣かごの中に乱雑に脱いだ衣類が詰め込んである。一定量の汚れものが溜まったところで洗濯をするのは尚人の役目、とはいえワイシャツは栄のこだわりですべてクリーニングに出すから、それ以外はタオルや下着、寝間着くらい。ドラム式洗濯機で乾燥まで済ませてしまえばたいした手間ではない。
シャワーついでにそろそろ洗濯もしておこうか、そう思って脱衣かごの中身を洗濯機に移そうとして尚人はふと動きを止める。まだ夢の中の熱は完全に消え去ったわけではないようだ。そしてもちろん熱が溜まっているのは耳元だけというわけでもない。
尚人は一瞬ドアの外を気にするが、もちろんいまここにいるのは自分だけ。栄のアンダーシャツを手に取り、そっと顔に近づける。
オードトワレにかすかに汗の混じった、栄の匂いが尚人の鼻をくすぐった。最近ではすれ違うときにほんのかすかに感じるだけだった香りは、息を吸い込めば尚人の体の深い場所まで侵食していく。そして、この世の何よりも官能的な恋人の香りに、尚人は一瞬で悪夢のことも未生のことも忘れた。
「栄……」
小さく名前を呼ぶ。目を閉じて、いま自分は栄の髪に、首筋に、胸元に顔を埋めているのだと想像してみる。最後に栄と寝てからはほぼ一年が経っているのに、それでも八年のあいだに抱かれた回数は相当なものになる。その上、尚人は栄以外の肌を知らない。
懐かしい指先の動きをなぞるように自分の手を下着の中に滑らせた。すでにゆるく立ち上がっているのはおそらくは朝の生理現象なのだが、恋人のことを思い浮かべて手を動かすとすぐに濡れはじめる。
栄のセックスはいつだって優しい。尚人が恥ずかしがったり嫌がったりするようなことは決してしないし、少しでも痛そうな顔をすれば途中であっても行為を止めてくれた。むしろ気を遣いすぎる栄に対して申し訳なくて痛くても痛くないふりをしたり、気が乗らない日も心を殺して行為に応じていたのが以前の尚人だった。
なのにいまは――こんな風に恋人の洗濯物の匂いに興奮して、自慰行為に耽っている。栄の指の動きや「ナオ、ナオ」と呼んでくれる声、最近ではめっきり聞くことのなくなった優しく甘い声色を思い浮かべて指先を濡らすのだ。
もしもこんな自分の姿を見たら栄は怒るだろうか。それとも失望するだろうか。栄は毎日ヘトヘトになるまで働いているのに、尚人の中では栄を労る気持ちよりも体を欲しがる気持ちの方が強いだなんて。もし知れば、あの冷たい目でこちらを一瞥して、ため息の一つでもつくだろうか。そして、その先は?
忌まわしい想像を膨らませながら、それでも尚人は自分自身を追い上げた。やがて絶頂に達して、その瞬間ぎゅっと栄のシャツを抱きしめて名前を呼ぶ。
もちろんその後はただ虚しくなるだけだった。