その日、仕事を終えて帰宅した尚人は玄関に栄の革靴が脱ぎ捨ててあるのを見つけた。腕時計を確認するとまだ時刻は九時過ぎ。こんな時間に帰って来ることは近年ほとんどなかった。
何でもない日だったらもっと無邪気に喜んだのかもしれないが、一瞬気まずさを感じてしまったのは今朝方に栄のシャツを抱きしめて自慰をしてしまったことが頭をよぎったからだ。もしもあんなはしたない行為がばれたら、栄からは馬鹿だと思われてしまうかもしれない。不安が拭いきれない尚人はリビングに行く前に脱衣所の洗濯機を確認した。朝に脱衣所にあったものすべてはドラム式洗濯機の中で乾燥まで終わっていて痕跡は何一つ残っていない。ほっとした。
賑やかな音が漏れ聞こえてくるリビングの扉を開くと、栄はソファに深く腰掛けてテレビを見ていた。物音に気づいたのか振り返る。
「あ、お帰りナオ」
お帰り、なんて言ってもらったのはいつ以来だろう。ワイシャツの首を緩め、疲れた様子ではあるもののその顔つきは普段よりも穏やかだ。
「ただいま、栄。今日は早いんだね」
「ああ。ちょうど仕事も一区切りついて、突発案件もなかったからな。探せばいくらでもやることはあるんだけど、上司からもたまには早く帰れってせっつかれちゃって」
栄の勤務する中央省庁でも長時間勤務は問題になっているらしいということは、ときたま聞かされる栄の愚痴や、公務員の過重労働を扱う報道から尚人も知っていた。残業時間の上限や、勤務時間のインターバル、年次有給休暇の取得や決められた定時退庁日など、ワークライフバランスに関するノルマをクリアしないと管理職の評価に響くのだという。普段の栄を見ている限りどこまで本気で取り組まれているのかは怪しいところだが、上司直々に帰れと言われるということは完全な無法地帯というわけではないようだ。
「食事は? 済ませてきた?」
「いいや、まだ」
「外に出る? それとも簡単なもので良ければすぐ作るけど」
マンションの近くにはいくらだって飲食店はある。しかし一度腰を落ち着けてしまった栄は再び立ち上がるのが億劫なのか、尚人の手料理を希望した。
料理は得意というほどでもない。むしろ二人とも学部生だった頃は、栄の方がまめにキッチンに立っていたくらいだ。しかし仕事をはじめてからの栄はめっきり家で食事をとることが減ったし、尚人も自分ひとりのために料理をするのは虚しくて、外食や簡単なもので済ますことが多くなっていた。
決して潤沢とはいえない冷蔵庫の中身を眺めて、尚人はソファの方へ声をかける。
「少し冷えるし、鍋でもする? 湯豆腐か、白菜と豚肉のミルフィーユ鍋なら材料あるよ。もっとがっつりしたものが良ければ肉でも焼くけど」
ステーキ肉は尚人の母親がしばらく前に送ってきたものだ。サシの入った高級な和牛なのだと電話で力説されたが、正直三十路が近づき脂身がきつくなってきた今日この頃だ。ひとりでステーキという気にもなれず、もらった肉はすべて冷凍庫に入れて、「おいしかった」というメッセージだけ送った。
「鍋いいな。最近カップ麺以外の温かいもの食ってないし、白菜のやつにしようよ。俺も何か手伝おうか?」
栄は饒舌で機嫌も良さそうで、そんな恋人の姿を見ていると尚人も嬉しくなってきた。冷蔵庫から缶ビールを取り出すとプルタブを開けてソファまで持っていく。
「いいよ栄は疲れてるんだし。これ飲んで待ってて、すぐ支度するから」
「悪いな」
缶を差し出す尚人と、受け取ろうとする栄の手と手が触れる。これっぽっちの接触すら久しぶりで、まるで付き合いたての頃のように尚人の心は震えた。そして――同時に今朝の行為で一旦は治ったはずだった衝動に小さな火が灯るのを感じた。
「……ナオ?」
「あ、ごめん」
栄が、缶を握ったままの尚人を訝しむような表情を見せたので、あわてて手を引く。
そういえば、今日で何日めだっただろう。確か、三百六十三日目。尚人が区切ったタイムリミットまではまだ数日ある。尚人が勝手に決めた自分だけのルールなのだから長くするも短くするも、撤廃することすら自らの加減ひとつではあるのだが、毎日毎日期待と失望を繰り返すうちに尚人の心は一年間という期限を絶対的なものだと感じるようになっていた。もしかしたらあの男……未生から妙なことを言われ、夢にまで見たこと影響しているのだろうか。
このまま何もなしに残りの日が過ぎれば、自分はもしかしたら本当に栄を裏切ってしまうかもしれない。だがそれは一時的ではあっても寂しさから逃れるための希望であると同時に、踏み出してしまえば何もかもを失うかもしれない危険な賭けでもある。
「ねえ、栄。今日さ……」
尚人は栄に背を向けてから小さな声で切り出す。
本当は栄のことを裏切りたくなんかない。栄以外の人間が欲しいわけでもなく、ただ尚人は寂しいだけなのだ。だから、もしも今日栄とベッドを共にすることができれば三百六十五日の呪いはきっと消えてなくなる。いや、なくなりはしないのかもしれないけれど、少なくとも再び数字はリセットされて、尚人の中には一年間の猶予が生まれる。
しかし栄の返事はない。無視をされたのかと不安な気持ちで振り返ると、恋人はテレビの報道番組に向かって身を乗り出していた。ちょうど栄の仕事に関係する内容が取り上げられているようだ。
「悪いナオ、ちょっとこれ終わるまで待って」
「……うん」
こういうときの栄の目に恋人の姿は映らない。だから尚人はただうなずいて、キッチンに戻った。
今年初めて取り出した土鍋に刻んだ白菜と豚肉を並べ、コンロにかける。冷蔵庫には買い置きの豆腐があったので、以前栄が同僚から出張土産でもらってきたものをそのままにしていたピータンをザーサイと一緒に刻んで冷奴に乗せる。健康や体型を気にする栄は家での夕食の際はビール以外の炭水化物を控える傾向があるが、気まぐれなので突然「締めに雑炊をしよう」などと言い出す可能性もある。念のため米を洗って炊飯器にかけたところで土鍋から湯気が上がりはじめた。
久しぶりに穏やかな満たされた気持ちだった。大好きな人と穏やかな気持ちで温かい鍋を囲む。そしてもしも栄がその気にさえなってくれれば、今夜は――。
「あ、そういえばお酒もあった」
生徒の保護者にもらった、新潟の有名な酒造のものだという日本酒が手付かずのまま置いてあったことも思い出して尚人はストッカーを開く。ちょうどそのとき、リビングの方から不穏な電子音が鳴った。栄の携帯電話だ。
「もしもし谷口ですけど」
まるでテレビの早押しクイズのように、こういうときの栄はものすごい速さで電話を手にする。優しいとき、苛立っているとき含め尚人に見せるどれとも違う表情、口調で話し出す恋人の姿を目の当たりにすると妙な寂しさを感じる。
「ああ。うん、で、何問? え? でもどうせここにいてもメールのやり取りで煩雑になるだけだし。いや、申し訳ないって……別に大井くんが悪いんじゃないだろ」
不安はどんどん大きくなり、電話口のやり取りを聞いているだけで今後の展開の予想ができた尚人は取り出したばかりの日本酒を元の場所に戻し、土鍋をかけたコンロの火を止めた。
電話を切った栄がドタバタと動き出すのがわかった。再びワイシャツのボタンを留め、ネクタイを締め直す。洗面所で慌ただしく顔を洗い髪を整える。
栄がキッチンにやってきたのは、外出する準備をすっかり整えてからだった。
「ごめんナオ。急ぎの案件が発生して職場に戻ることになったから、飯はひとりで食ってくれ」