12. 尚人

 こういうことは過去にも何度もあったのに、栄の機嫌の良さに舞い上がった尚人は今日こそは一緒に食事ができて、もしかしたらその先もあるのかもしれないという期待を膨らませすぎていた。そして膨らみきった風船に針を刺すように、たった一本の電話で尚人のプランは何もかも無に還ってしまった。

 一瞬は言葉に詰まった。でもなんとか笑うことができた。せっかくの機会がふいになってがっかりしているのは尚人だが、疲れ果てているのにこの状態から再び職場に出向かなければならない栄の方がきっともっと辛いのだ。

「そう、残念だけど仕方ないね。それだけ栄が頼られてるってことだから誇らしいよ。頑張ってきて」

 精一杯の強がりは、それでも半分は本音だ。ふわふわとした夢を何となく追いかけて結局のところは挫折していまに至っている自分と比べて、子どもの頃からの官僚になりたいという夢を叶えて活躍している栄。尚人は栄の不在を寂しがる一方で、栄のことが羨ましく誇らしい。自分を強く持ち常にぶれない姿こそが尚人の好きになった栄そのものなのだから、多少の我慢はしなければいけない。ずっとそう思ってきた。

 激励の言葉を受けた栄の表情がかすかに曇ったことに尚人は気づいたが、きっと疲れのせいなのだろうと判断する。

「うん、じゃあ行ってくる」

 そう言い残して栄は出かけていった。

 取り残された尚人がとぼとぼとキッチンに戻ると、さっき火を消した土鍋からはまだほんのりと湯気が立ち上っていた。一杯に敷き詰められた食材が虚しい。

 鍋をするにしても、湯豆腐や寄せ鍋のような後で食材を入れるタイプの料理であればまだリカバリーが効いた。いまさらどうすることもできないから今夜は尚人ひとりで鍋をつつくにしても、さすがにこれだけの量は食べきれない。くたくたに火の通った白菜や豚肉を温め返したとして栄が食べるはずもないから、残りは明日また尚人が食べるか、捨てるしかない。

「まったく、何でよりによってミルフィーユ鍋なんかにしちゃったんだろ」

 そうこぼしたところでテーブルに置いてあるスマートフォンが震える。ありえないことだとわかっていながら尚人は一瞬、栄からの電話ではないかと期待をしてしまう。やっぱり仕事がなくなったからいまから帰宅する、だから一緒に食事をしよう――そんな連絡だったらいいのに。

 しかしもちろんそんなのはただの妄想で、次の瞬間尚人の目に映ったのは忌まわしい番号だった。

 ここ数日何度も目にしたせいで、尚人は笠井未生の電話番号をすっかり記憶してしまっている。よりによって気持ちの沈んでいるこのタイミングで不愉快な男のことを思い出すなんて……迷わず画面をひっくり返した。

 着信は長く、しつこかった。しばらく鳴ってから少しのあいだ止まる。そして再び。そんなことを十分以上も繰り返した。いっそ電源を切ってやろうかと思いながら、結局尚人はダイニングチェアに座って、机に置いたスマートフォンを眺め続ける。理由は自分でもよくわからない。

 変な奴だな、とは思う。未生はこのあいだ尚人に「恋人がいるだろう」と言い放った。あてずっぽうにしては自信に満ちた口ぶりだったが、彼がその予想を信じているのだとすればなぜわざわざ金曜日の夜にこんなに長い時間、尚人の電話を鳴らすのだろう。こんなに長くしつこい着信、もしも栄が目にしたら誤解されてしまうかもしれない――。

「……って、そんなことないか」

 栄はきっと気にしない。もしかしたら「誰から? 出なくていいの?」と一度くらいは聞くのかもしれない。でもきっと尚人が何でもないと答えれば話は終わる。よく言えば信頼、悪く言えば倦怠なのだろうか。キスやセックスがなくなれば、自分たちの関係などただの男友達の同居と変わらない。考えているとどんどん気持ちが沈んだ。

 尚人は栄の飲み残しのビールを片手にいくらか鍋を突いたが、食欲はいくらもわかなかった。何もかもが面倒くさくてキッチンをそのままにしてふて寝してしまいたかったが、夜中に帰宅した栄に幻滅されるのが不安で最低限の片付けだけはしておいた。

 酒はそんなに強くないし好きでもない。ひとりで飲む習慣も持っていないが、缶半分ほどのビールを空けると憂鬱な気持ちが多少和らいだような気がした。だから尚人は、冷蔵庫からもう一本ビールを取り出し寝室に持っていくことにした。

 いまごろ栄は仕事を頑張っているだろうから自分も頑張ろう。そう思って一旦はベッドの中で仕事の資料を読みはじめたものの、ほろ酔いの頭で集中できるはずはない。尚人はすぐに書類をサイドテーブルに投げ出してしまう。そう言えば何となく眠さもある。

「集中できないし、寝ようかな」

 明日は土曜日。尚人は仕事柄土日にも仕事のニーズがある。冨樫と話し合って日曜は休みにしてあるものの、土曜は日中に数件の授業予定が入っていた。眠る前に念のためスケジュールを確認しておこう。そう思ってスマートフォンを引き寄せたところで、手が滑った。

「あ……」

 指先が不在着信の履歴に触れる。あ、と思うまもなく画面に現れた電話機のアイコンが震えはじめた。しまった、これは――すぐに終話ボタンを押そうとするが、相手の方が一足早かった。

「もしもし?」

 スピーカーから響いてきたのは笠井未生の声だった。

「え、あ、あのっ」

 すぐに切っても、コールバックしたことは履歴でばれてしまう。尚人は動揺した。電話なんかかけたら、このあいだの誘いに応える気持ちがあるのだと未生に誤解されてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。

「ごめんこれは、手が滑って。ちょっと酔ってるから、ただ寝る前に予定確認しようと思っただけで……」

 妙なことを口にしている自覚はあるが、何をどう説明すれば未生に誤解されずにすむのか、酔った頭では正しい答えが出せない。尚人は舌をもつれさせながら意味不明の言い訳を続けた。

「だからあの、別に君に電話は――」

「センセー、酔ってるって、ひとりで飲んでるの? 彼氏は留守?」

 未生は尚人の言葉を途中で遮った。

「え、と」

 これは罠だ。誘導だ。ここでうっかりうなずいたら、「彼氏」がいること――同性愛者であることを含め、未生に言質を取られてしまう。だから答えてはいけない。多少の理性は残っているが、なぜかいま尚人は電話を切りたくないと思った。

 今日こそ栄と一緒にいられるという期待が裏切られていつもより寂しいから。久しぶりに飲んだ酒に酔っているから。なぜだかこのあいだ会ったときと比べて未生の声色が少しだけ優しいから。理由なんて探せばいくらだって出てくる。その理由に正当性を与えるか否かなど、しょせんは尚人の気分次第なのだ。そしていまの尚人はひとり寂しくベッドに横たわることよりも、誰かの声を聞くことへと揺らいでしまう。

「ひとり。もう、寝るところ」

かろうじて核心を避けた返事を、未生は不思議と深追いしなかった。

「へえ、俺もひとりだよ。まだ寝ないけどさ」

「ひとり? 優馬くんたちはいないの?」

 こんな時間にひとりきりだなんて、他の家族はどうしているのだろう。疑問を思わず口に出す。

「真希絵さんと一緒に田舎のばあさんのところへ行ってる」

「君は行かないんだ」

「だって俺のばあさんじゃないから」

 そこで尚人は、未生と優馬は母親が違うのであろうという自分の想像が正しかったことを知った。同時に、尚人は体裁の悪い質問をはぐらかしたにも関わらず、あっさりと家庭の事情を明かしてきた未生に対して申し訳ないような気持ちになった。

 沈黙に罪悪感が混ざったのか、未生は笑った。

「そんな気まずそうに黙るなよ。秘密でも何でもねえよ。だって俺が真希絵さんの子どもじゃないなんて、一目見りゃ馬鹿でもわかるだろ。センセー本当くそ真面目だな」

 今日の未生は何かが違う。何かがおかしい。最初に会ったときとも、二度目のときとも違う優しげな声と態度。ひどく不気味ではあるのだが、その優しさはいまの尚人を引き寄せる。雨の日に浴びせてきた意地の悪い言葉と視線こそがこの男の本性であるに違いないとわかっていても。たとえこれが糖衣をまとった毒薬なのだとしても。

「ふふ、よく言われる」

 つられて笑いがこぼれた。

 話すことなんてない。それでも誰かと繋がっていたい。ささやかで危うい欲望を胸にスマートフォンを握りしめた尚人の心を読んだかのように、電話の向こうの未生が「いいよ」とつぶやく。

「あんたさ、ひとり寝が寂しいんだろ。眠るまで俺がここで見ててやるから、電話切らないでそのままにしてなよ」

 前回とは別の意味で、やはり笠井未生は変なことばかりを口にする男だった。