谷口栄は最悪の気分でマンションを出た。
今週もずっとタクシー帰りが続いていた。体力はある方だし仕事が嫌いなわけでもないのだが、さすがに慢性的に睡眠時間が足りていない。しかも今日は一度帰宅して、少量とはいえビールを飲んだことで完全に集中力が切れてしまっている。ここから再び気持ちを仕事モードに持っていくのは簡単ではない。
「こんなことになるなら、課長の口車に乗って家に帰ったりするんじゃなかったな」
エントランスを抜けて屋外に出ると冬の夜の冷たい空気が肌を刺した。
港区にマンションを借りているのは見栄を張りたがる性格以上に、激務の中少しでも職場から近い場所に住んで通勤時間を節約したいという理由が大きい。勤務先までは電車で一本、ドアトゥードアで三十分弱なので近距離と言っていいだろう。もちろん若手公務員の薄給で一等地の賃料を出すことは難しく、実のところマンションは栄の父親の持ち物で、破格の家賃で使わせてもらっている。
まだ電車は走っている時間だが、金曜日の開放感でいっぱいの酔っ払いたちとすれ違いながらオフィスに戻る惨めさを味わいたくなくて、ちょうど信号停車のため減速したタクシーに向かって手を挙げた。
「お客さん、どこまでですか」
「産業開発省の正面玄関まで」
「こんな時間にですか? 大変ですねえ」
初老のドライバーはねぎらいの言葉をかけてくるが、これ以上会話を続けるのもうっとうしくて栄はバックシートで目を閉じた。
栄が長年の夢を叶えて、法律分野の総合職キャリアとして産業開発省に入省してから、早くも七年が経った。係員、係長を経て今年同期の中でも最速のグループの一人として課長補佐に昇進した。法案作成や国会関係の対応など、実働部隊の実質的な取りまとめを行う立場になり雑務は多少減ったものの、責任とプレッシャーはそれ以上に膨れ上がった。
栄が今いる部署では、特定の産業分野における税制の特例措置について検討し、先日国会で特例法を成立させた。
毎年必ず開かれる通常国会は一月に招集され、六月には原則として会期末を迎えることになっている。しかし、重要法案が目白押しだった今年はただでさえ法案審議時間の不足が懸念されていたにも関わらず、政府の重要ポストである保健大臣に献金疑惑が持ち上がり、そちらの追及に長い時間が取られてしまった。おかげで会期が大幅延長され八月半ばにまで食い込んだ上に、栄の担当する法律はそこでも成立させることができず秋の臨時国会に持ち越された。
なんとか二週間ほど前に法案自体は成立したものの、そうすると今度は法律の施行準備で慌ただしくなる。臨時国会はまだ終わっていないので、ちょこちょこと国会関係の業務も発生して、いつになれば楽になるのか想像もつかないまま、ゴールのないマラソンを走り続けている状態だ。
すでに正面玄関は閉鎖されているので、料金を払ってタクシーを降りた栄は夜間通用口から庁舎内に入る。閉店準備を進めている省内のコンビニエンスストアに入ると、他の残業戦士たちに荒らされた後なのか、弁当やおにぎり、パンの棚は空っぽになっていた。カップ麺を一つ手にとって、それからオフィスで先に作業を進めてくれているはずの部下のことを思い出して他にもいくつかのレトルト食品や、菓子類をカゴに放り込んだ。
会計をしながらふと「職場に戻る」と告げたときの尚人の顔を思い出した。すでに鍋は火にかけてしまっているようだったが、あれからどうしただろうか。栄だって本当はこんなところでカップ麺を買うのではなく、恋人とリビングで鍋を囲みたかった。最近ずっと忙しくてイライラしていたから、たまにはゆっくりした気持ちで優しい言葉の一つもかけてやりたかった。
――でも、そんなこといくら考えたところで目の前の仕事が消えてなくなる訳ではないのだ。自分のオフィスのドアの前に立ったところで気合いを入れるように小さく首を左右に振り、栄は頭の中にある尚人の姿を振り払った。
「ごめん、遅くなって」
そう言いながら入ったオフィスは、すでに空調が切れている時間であるにも関わらずむっと暑い空気が立ち込めていた。面積に比べて人が多いこと、パソコンやプリンターといった熱を排出する電子機器が並んでいること、まともに開けることのできる窓がない高層階であることから、この部屋の空気は真冬であろうとよどんでいて蒸し暑い。一気に職場に戻ってきた実感が湧き上がった。
「あ、谷口補佐。すみませんこんな時間にわざわざ出てきてもらって。国会担当のミスで、ノーマークだったとこから主意書が出てきちゃったらしくて」
要塞のように書類を積み上げたデスクで目を赤くしてパソコンとにらみ合っていた大井が顔を上げる。大井は入省五年目、栄の直属の係長だ。そして、その横でどこかに電話をかけているのが今年入省したばかりの新人、山野木佳奈。
「いいよ、言ってもしょうがないから。今、どんな状況?」
自宅で電話を受けたときは正直ものすごく腹が立って、職場に着いたら曖昧な情報で人を振り回した国会連絡の担当者を怒鳴りつけてやろうと思っていた。でも、こういうときに怒ったり大声を出したりしても良いことは何もないのだと栄は知っている。お互いに嫌な思いをして、下手をするとしこりが残って今後の仕事すらやりにくくなる。それどころかパワハラで訴えられることすらあり得るのだ。
だから――栄は「温厚で責任感があって有能でジェントルマンな谷口補佐」のペルソナを脱ぐようなことは決してしない。部下をいたわり、面倒な交渉ごとも冷静に粘り強く、上司への対応は丁寧に。それが栄の信条だ。
「割り振りが怪しい問は、山野木に言って全部一度戻させてます。絶対うちだなってやつは、俺が答弁書きはじめてるんで、まずは質問見て回答の方針を確認してもらえますか?」
「わかった」
質問主意書とは、国会での直接の質疑とは別に国会議員が政府に対して出すことのできる書面での質問状だ。時間の制約があり全議員が聞きたいことのすべてを聞くことができる訳ではない国会質疑と違って、会期中でさえあれば政府相手に制限なく質問を出すことのできる主意書は国会議員にとっては重要なツールで、人によってはかなり頻繁に、大量の質問を送ってくる。
もちろん時間のあるとき――そんなときはほとんどないのだが――や、回答しやすい質問であれば良いが、わざわざ議員が文書で寄越してくるものがそんな単純な内容であるはずもない。中には一見しただけではどの省庁、どの部署が担当すべきか判断がつかない質問や、複数の担当にまたがる質問もあり、そもそもどの質問をどこが担当するのかを決めることすら容易ではない。加えて質問主意書には土日祝日関係なく、七日以内に閣議決定を行い回答するというルールがあるため、複雑な調整を迅速に進める必要がある。
国会窓口経由で送られてきた質問主意書の文面を見ながら、栄の憂鬱な気持ちはさらに膨れ上がる。これもうちの担当、こっちもそうだ。大井の癖字で赤い大きなクエスチョンマークが付けられた質問は山野木が他の部署への担当変更を交渉しているもの。でも栄の感触としては、その半分は最終的には自分の部署で対応することになるように思えた。
確実にこの土日は主意書対応で潰れてしまうだろう。もちろん代休が取れるはずもなく、月曜からはまた忙しい一週間がはじまるのだ。