ようやく主意書答弁の案文作成に一区切りついた頃には、東の空は白みかかっていた。大井が大きく伸びをしながら、電話を切ったばかりの山野木に状況を確認する。
「うー、さすがに眠いな。山野木、課長なんて言ってた?」
「メールで送った文案はこれからご覧になるそうです。目を通したら折り返しお電話くださるって」
さすがに庁舎に出て来て作業をさせられはしないものの、夜中だろうが朝方だろうが叩き起こされ自宅で仕事をする羽目になるのだから幹部だって楽ではない。
ここからは、作成した回答案を順番に上司に諮りながら内容を固めていく作業に入る。スムーズに進みさえすればただの事務処理で終わるのだが、もちろんそう簡単にはいかない。説明を求められたり、とある上司の指摘で全面的に修正したものが更にその上で再び完全にひっくり返されるということも往々にしてあるからとかく消耗させられる。省内の調整が終わっても内閣法制局での審査対応から閣議まで、ひたすら時間との戦いだ。
先のことはともかく、課長から電話の折り返しがあるまで少しの空き時間ができた。この先一週間も忙しく過ごすことが確定している状況では、細切れの休息が重要であることを栄は身をもって知っている。
「そういえば食い物買ってきてあるから、二人とも時間あるうちに何か食っといた方がいいよ」
怒涛の作業で、ここに来る直前にコンビニエンスストアで買い込んできた食料のことをすっかり忘れていた。机の横に置きっぱなしだったビニール袋を手渡すと若い二人は嬉しそうに中身を漁りはじめた。
大井と山野木に好きなものを選ばせた後で、栄も残っていたカップ麺を手にして給湯室へ向かう。ついでにトイレに寄り、用を足した後で冷たい水で顔をざぶざぶと洗った。
「はー……」
睡眠不足で厚い霧のかかっていた頭が多少クリアになるが、この効果もどうせ五分も経てば消えてしまうことを知っている。
タオルで顔を拭き、手洗い場の鏡に映る男の顔はどんよりと曇って目の周りには隈ができている。まだぎりぎり三十歳にもなっていないというのに、年齢より老けて見える気がする。子どもの頃から続けていた剣道もここ数年はすっかり道場から足が遠のいているし、なんとか週に一度はジムで泳ぐよう心がけてはいるが、体力は間違いなく低下している。
「……やばいな」
激務に追われて生活が不規則になった同僚は通常二パターンにはっきりと分かれる。つまり、夜食の増加やストレスからくる過食で極端に太るか、逆に食べる暇や気力をなくして極端に痩せるか。栄の場合は後者で、個人的には太るよりはよっぽどマシだと思っている反面、あからさまに消耗しているように見られるのも気に食わない。
いまどきの官僚は、昔のように「とりあえず、一定ラインまでは横並び」とはいかない。業務遂行能力に劣る人間、周囲との調整が下手な人間、セクハラパワハラの傾向がある人間、メンタルが弱く病歴のある人間――誰も明確な基準を口にすることはないが、入省後の早い段階から選別ははじまっている。
頭は良いが不器用だった同期は三年目にはすでに重要ポスト行きのトラックからは外れていた。将来的にポストを争う相手になるのではないかと栄が内心でライバル認定していた同期は、エースポジションの係長席を任されたものの、そこで忙しさとプレッシャーに負けて、徐々に遅刻や休みが増えていった。病院では適応障害と診断されたらしい。三ヶ月休んだ後で戻ってきたときには、資料の統計分析というそれ自体重要ではあるが花形とはいえないポストへ異動になっていた。
「人間らしい生活ができるから、こういう席も悪かないぜ」
彼がそう言って笑う姿を見たとき栄はどうしようもない幻滅を覚えた。理想と使命を持ってこの仕事を選んだ仲間が、決定的に自分とは違う場所に行ってしまったような気がして――自分は絶対にああはなるまいと誓った。
自分は彼とは違う。この程度の仕事で音を上げるほど軟弱ではないし、もっと上を目指せるだけの能力を持っているはずだ。だから、忙しさくらいで潰れるわけにはいかない。
熱湯を入れたカップ麺を手にデスクに戻ると、大井はすでにカップ焼きそばをすすりはじめていた。その隣ではすっかり化粧の崩れた山野木がクッキータイプの栄養補助食品をもそもそとかじっている。大学を出たてのうら若い女子である彼女も、決してこんな姿を周囲に晒したいわけではないだろう。
「大井係長、焼きそばくさいです。よくそんな脂っこいもの朝から食べられますね」
「しょうがないだろ、夕飯も食ってないんだから。おまえこそよくそんな鳥の餌みたいなので持つな」
「放っといてください」
大井と山野木のちょっとした言い合いは、彼らなりのコミュニケーションだ。若いのに萎縮せずに物を言う山野木にも、そんな彼女に積極的に仕事を下ろしながらも適切な目配りをしている大井にも、栄は信頼を置いている。もしここに戦力的に問題のある部下を置かれていたら栄の負担は二倍にも三倍にも膨れていたかもしれない。
「そういえば大井係長、今週末彼女さんの実家に行くって言ってませんでした?」
思い出したように山野木が言った。
「ああ、延期延期。すっげえ緊張してたから、執行猶予もらった気分」
二十七歳の大井は大学時代から交際している恋人と結婚を考えているらしい。結婚に積極的な彼女と、やや腰の引けている大井という構図は日々の雑談からも伺えるが、いよいよ年貢の納めどきも近いようだ。
「大井くん、いよいよ結婚するんだ」
そう言いながら、三分経ったことを確認して栄はカップ麺の蓋を開けた。そんなに腹が減っている自覚はなかったが、いざ半日以上ぶりの食事を目の前にすると唾液が込み上げる。
大井は栄の質問に苦笑を浮かべて答える。
「周囲が第一次結婚ブームみたいな感じで、最近大学時代の友人とかでも結婚する奴が多いんですよ。彼女もすっかりその気になっちゃって。でも、こんな生活で結婚してやっていけるかなって俺は不安で。いまどきは共働きで家事育児も男女平等じゃないですか。そうしたいのは山々でも、厳しいですよね」
大井が結婚に躊躇する理由が思ったより現実的なものだったので、栄は少し驚いた。もっと漠然とした、モラトリアム的なものをイメージしていたのだ。
「大井くんの彼女は仕事続けたい派なの?」
口に出しながら愚問だと思う。大学の同級生ということは大井の恋人も有名大学の法学部出身だ。いまどきそれだけの学歴を持つ女性のうち専業主婦希望がどれほどいるものか。
「オモチャメーカーのキラボシって知ってます? あそこの企画やってて、俺より断然給料高いですよ。結婚したら、安月給のくせに家事も分担しないってチクチクやられるに決まってます」
「だったら大井係長、仕事やめて主夫になればいいんじゃない」
山野木はあくまで冗談として口にしているが、夫婦のそれぞれがキャリアを積もうとすると、家庭内に綺麗事ではすまない歪みが生じるという話は栄もあちこちから聞いていた。同性愛者である栄にとって結婚そのものは他人事でしかないが、今後自分が地方に転勤する機会を持ったときに、恋人の尚人は付いてきてくれるのだろうか……そんなことは時々ぼんやり考える。
多分、いや、きっと尚人は栄のキャリアを尊重して一緒に来てくれる。家庭教師なんてどこでだってできる仕事だし、何より尚人は出会った頃からずっと、誰よりも栄の努力を尊敬し、栄の成功を喜んでくれる人間だった。
いまどき官僚かよ、と笑う友人たちも多い中、尚人ははっきりとした将来の目標を持っている栄に感心してくれた。そして、ひとつ目標を実現するたびに自分のことのように喜んで、壁にぶつかれば「栄なら大丈夫」と励ましてくれた。その言葉はいつだって栄の背中を押し、力付けてくれる。だからこそ栄も、尚人の期待にふさわしい人間であろうと頑張り続けることができるのだ。
そんなことを考えていると、チクリと胃のあたりが痛んだ。
「あ、痛っ」
思わず小さな声をあげると、二人の部下が驚いたように栄の方を振り向く。
「補佐、具合でも悪いんですか?」
「……いや、急に油物食べたからちょっと胃にきただけだと思う」
栄は食べかけのカップ麺を机の脇に避けた。
こんな痛み、ただの気のせいに決まっている。