胃痛はやがて消えたが、すっかり伸びてしまったカップ麺をこれ以上食べる気にはなれない。給湯室に残飯を捨て、ついでに歯磨きを終えた栄が席に戻ると、険しい表情で山野木が受話器を握りしめていた。
主意書答弁案の確認を終えた課長から修正の指示を受けているのだろうと思い近寄ってみると、どうも様子がおかしい。大井も難しい顔で山野木の話に耳をそばだてている。
「ええ、はい。資料が違うと。申し訳ありません。すぐに確認して折り返します。ええと差し替えはメールで……あ、はい。そうですか。はい、お急ぎのところご迷惑をおかけして……必ず早急に」
緊張に満ちた山野木の口調に、栄も一瞬で電話の内容が穏やかなものではないと理解した。
資料、という言葉に心当たりはあった。昨日の午後、与党である保守連合の議員から電話で資料提供の依頼を受けたのだ。週末に地元で支援者と勉強会をするのに使うとのことだったが、幸い要望された内容は既存のデータでカバーできていたので、既存の資料を組み合わせて事務所へメールで送るだけで対応は終了したと記憶している。
こういった場合わざわざオーダーに合わせて新しい資料を作ることや、事前に内容のレクチャーを求められることも少なくないだけに、最小限の労力で作業が終わったことに内心では安堵した。しかし電話越しのやり取りを聞く限り、どうやら相手は送られた資料に不満があるようだ。
嫌な予感に栄と大井が顔を見合わせていると、平謝りの末に山野木が受話器を置く。ただでさえ疲れの色の濃くにじむ顔は、ますます暗さを漂わせていた。
「どうした?」
「笠井志郎事務所の秘書から、昨日送った資料だけでは足りないというお叱りでした。全体数だけでなく年齢階層別と産業別のデータも必要なのに入っていないから、このままでは使えないと。電話受けたときはそんなこと言ってなかった気がするんですけど、もしかして私の聞き間違いだったのかも……」
自信なさげに山野木の視線が揺れる。だが、栄は普段から山野木の仕事を信頼しているし、言った言わないの話をはじめればきりがない。それに、万が一彼女の側に非があったとしても、週末に徹夜残業で疲れ果てている若い部下を責め立てることなど無意味だ。
先に口を開いたのは大井だった。
「ったく、だったら昨日のうちに言えって話だよな。今日はたまたま主意書が当たったから俺たちがいたけど、普段だったらこんな時間に資料修正の連絡が来ても電話がつながるはずないんだしさ。どうせメール受け取って放置してて、いまになって中身見てあわててるんだよ」
正面切ってフォローするわけではなく、しかし議員事務所側の非を指摘するその言葉は確実に山野木の心を楽にするだろう。もちろん大井は部下への優しさだけでそんなことを言ったわけではない。国民の代表者である国会議員からの要求にはできる限り速やかかつ誠実に応えるべきであることは承知の上で、先方の対応の不備に不快感を表明しているのだ。
栄も心情的には大井に同意する。そんなに大事な資料ならば、事務所側でもメールを受け取った金曜午後の時点でしっかりチェックすべきなのだ。だがその一方で、こんな非常識な時間ではあっても、修正可能な段階で議員事務所からの連絡を受けたことに正直言って安堵している。
「まあ、このタイミングで不幸中の幸いだよ。気づかないまま現場で先生が恥をかいたとか、取り返しがつかない状況になってからだと話が大きくなってたかもしれない」
後になって大臣や幹部宛てに苦情を言われて大問題になることを思えば、たとえ休日作業だろうが苦情の芽が小さいうちに潰せる方がよっぽどマシに決まっている。たかがちょっとした資料の不備でも、場合によっては幹部が直接謝罪に行かなければいけないほどの問題になる。それが国会議員と国家公務員の力関係というものだ。
「で、山野木さん。資料の差し替えはすぐできる?」
栄の質問に、山野木が眉をひそめる。
「はい、資料自体はすぐに。ただ……」
「ただ?」
「議員本人はもう地元入りしていて、資料は今日の午後に秘書が届けるらしいんです。で、秘書の側では印刷している暇がないから、資料はメールではなく印刷したものを五十部、十時までに会館の羽多野秘書まで届けて欲しいと」
マジかよ、と、まるで栄の心の声を代弁するかのように大井がつぶやいた。
資料はすぐに修正できる。五十部の資料印刷自体はプリンターに任せればたいした労力ではない。国会に隣接する議員会館へは三十分もかからない。だが、それぞれの作業を合算すれば、それなりの手間になる。しかも――電話を受けた山野木の反応を見る限り、相手はどうやら面倒な人間であるようだ。資料を届けにいけば嫌味の一つや二つ、いや、三つも四つも言われるに決まっている。
名前自体は知っているが、これまで笠井志郎という議員やその事務所とやり取りをした経験はない。栄は机の上に置いてある国会要覧を手にして「笠井志郎」のページを探した。
N県の選出で、最近の議員にしては珍しく学歴が高校で終わっている。元々は地元で食品会社を経営しており、地方議員を経由して国政に進出して三期目――政府や党の役職についているわけではないが、それなりに当選を重ねてきている与党議員なので、今後の関係を思えばある程度丁寧な対応をしておくべきなのかもしれない。
昨日の資料要求の名前は確か、羽多野。確かに同じページの政策秘書欄に羽多野貴明という名前がある。
「羽多野秘書って、どんな感じだった?」
念の為確認すると、山野木は資料修正の手は休めないまま暗い声を出す。
「……電話ではちょっと横柄というか、きつい感じでした」
国会議員にも腰の低い丁寧な人物から、公務員を下僕のように考えている横暴な人物まで色々なキャラがいる。そしてもちろん議員に仕える秘書も同様だ。議員の威を借りて強い態度で無理を押し通そうとするような秘書もいれば、こちらの都合や立場についてもある程度慮ってくれる秘書もいる。山野木の話を聞く限り、残念ながら羽多野という人物は前者であるらしい。
経験上、栄はこの手の当たりの強い人間が何より面子を重要視することを知っている。休日早朝にわざわざ修正した資料を印刷して部数を揃えた上に事務所まで持参する……それだけでも相当なサービスであるのだが、事務所ではさらに頭を下げて謝罪することまでも求められる。そしてもちろん相手は「誰が」謝罪するかで誠意を値踏みしてくるだろう。
要するに、話を早急かつ穏便におさめたいのならば、末端の新人職員である山野木や若い係長である大井が出向くのではなく――。
「……資料ができたら俺が届けるよ。多分その方が話が早い。大井くんと山野木さんは主意書の方の作業進めておいて」
栄はそう言って、議員事務所に頭を下げに行くことなどさも小さな仕事であるかのように二人の部下相手に笑顔を見せた。