出来上がった資料を紙袋に詰めて栄は議員会館へ向かう。荷物があるので普段ならば官用車を出してもらうところだが今日は土曜日、深夜残業者を狙って朝方まで庁舎前に列を作っていたタクシーもこの時間にはすっかり姿を消している。仕方がないので地下鉄に乗った。
車内には都心に買い物に出ようとする若い男女や、行楽の家族連れが目立つ。風呂にも入っておらず、しわの寄ったスーツにビジネスバッグと大量の資料をぶら下げた自分はひどく場違いに思えた。気分は当然憂鬱だ。山野木に罪悪感を抱かせないようオフィスでは明るく振る舞ったが、叱られることがわかっている謝罪訪問など楽しいはずがない。
自分に非があってもなくても、ひたすら頭を下げなければいけない――それは栄の社会人生活において一番の誤算といえるかもしれない。もちろん業界研究やOB訪問をする中で「そういう仕事もある」程度のことは聞かされていたが、現実は想像をはるかに超えていた。
入省直後の若い頃は、使いっ走りの自分が厄介な交渉や叱られ役を一身に引き受けているような気がしていた。昇格して部下ができれば理不尽な役割を脱して意味のある仕事に集中できるのではないかという期待していたかつての自分は愚かだった。係長になっても、課長補佐になっても、相手のレベルが変わるだけで結局のところ厄介な交渉や叱られ役を引き受け続けることに変わりはない。
上司や同僚の中には「謝るのも仕事のうち」と割り切っている者も多く、栄も基本的にはその言葉に同意する。だが物心ついたときから負けず嫌いでプライドの高い栄は、表面上平静を装ってはいても、理不尽に叱られることや人前で声を荒げられることを恥だと思うことを止められない。
まあ、今日のところは叱られるとしてもひとりだし、誰に見られているわけでもない。そう自分に言い聞かせ、ひとつ息を吐いたところで地下鉄は国会議事堂前駅に滑り込んだ。
国会議員会館の中にある笠井事務所のドアは、ドアストッパーで固定されて中途半端に開いた状態になっていた。正直こういうのが一番困る。完全に開けっぱなしならば中の様子がわかるし、閉まっているならインターフォンを押せばいい。どう入っていくのが相手の癇に障らないだろうかといくらか迷ってから、栄はドアをノックした。
「産業開発省の谷口です。資料のお届けに参りました」
ノックの音は大きくゆっくりはっきり。そして、中にいる人物に聞こえるようにハキハキと、礼儀正しく名乗ること。――新入り時代に先輩からそう躾けられた。議員も秘書も、結局のところ普通の人間。印象の悪い相手や、自信なさそうにモゴモゴと話す相手の言うことなど信用してくれない。「何を話すか」以上に「誰が話すか」「どういう風に話すか」が鍵を握るというのはこの世界の常識だ。
少しの間をおいて、ドアの向こうから声が響く。
「……開いてるから入って」
きっちりと不機嫌と傲慢さを匂わせる声色。きっとこれが山野木に電話をかけてきた秘書なのだろうと思い、部屋に一歩踏み込むなり栄は深く頭を下げた。
「お電話いただいた羽多野秘書様でいらっしゃいますか? この度は、こちらのミスで大変ご迷惑を……」
「あのさあ」
出鼻が大事とばかりに繰り出した渾身の謝罪は最後まで言わせてもらえなかった。威圧的な呼びかけに栄は謝罪姿勢のまま動きを止めるしかない。
デスクに広げたラップトップで作業をしていたらしき羽多野は、立ち上がると頭を下げたままの栄に叱責を投げかけた。歳は三十代半ばから後半。いかにも「デキる政策秘書」風の、スマートな外見ではあるが感じの悪い男だ。こういうタイプにネチネチやられたならば若い山野木が半泣きになるのも理解できる。
「迷惑どうこうって話じゃないだろ。こっちは信頼して仕事頼んでるのに適当なことされて、ギリギリ今朝気づいたから良かったけど、もしあのままだったらうちの議員が勉強会で恥かいてたとこだよ。あなた……」
そこで一瞬の間が空いた意味に思い至ると栄はあわてて体を起こし、ポケットから名刺入れを取り出した。呼びかけようとしてその名を知らないことに気づいたのであろう羽多野はまるで栄こそが名乗りもせずに乗り込んできた無礼者であるかのように怪訝な目つきを投げかけていた。
クソが、そっちが名乗る間も与えず説教はじめたんだろうが。心でそう毒づくが、現実の栄の顔に張り付いているのは、この状況でもなんとか目の前の男の機嫌を取ろうとする卑屈な表情だった。
「地域産業局、地域開発支援課の課長補佐をしております、谷口と申します」
栄が両手を揃えて差し出した名刺を、ビジネスマナーなどお構いなしに片手でもぎ取った羽多野は、一瞥しただけでそれをデスクの上に投げてしまう。そして続けた。
「で、谷口くん。君は議員が地元で恥かいたら責任取ってくれるのか? 今回は有力な支援者の方々も参加する集会なのに、勉強会で頼まれていたテーマのメイン資料が歯抜けなんてありえないだろう。電話に出た若い子にもくれぐれもよろしくって頼んであったのに、完全な手抜きだよな」
「……申し訳ございません、以後このようなことがないよう気をつけますので」
目の前の羽多野秘書の物腰からしても山野木佳奈の様子からしても絶対に「くれぐれもよろしく」というような丁寧な物言いはしていなかったはずだと思いながら、栄は再び頭を下げた。「手抜き」という単語にかちんとくるが、反論したい気持ちをぐっとこらえる。
「以後って言うけど、国会議員って一票分の信頼が即当落につながることもあるくらいシビアなんだよ。課長補佐ってことはもう役所には十年近くいるんだろうから、それくらいわかってるだろ? 犯罪でも起こさない限り終身安泰な君たち役人連中とは違って、こっちはリアルな成果が求められる中で真剣に仕事してるわけ」
「はあ」
よく喋る議員秘書は気持ちよさそうに嫌味ったらしい説教を続け、栄は平身低頭謝り続けた。ようやく資料の紙袋を手渡すことが許されてからも、おまえの部署の出すものは信用ならないと言われ、再度の内容確認に加えて部数チェックまで付き合わされた。
栄がようやく羽多野秘書から解放されたのは、約一時間後のことだった。すぐに職場に電話をかけると山野木が「あんまり遅いから、補佐が殺されてるんじゃないかと思って心配してました。本当、すみませんでした」と半泣きでまくしたてた。
泣きたいのはこっちの方だよ――思ったところで、そんな弱音は死んだって部下相手には吐けない。