昼には大井と山野木を帰し、しかしひとりで職場にいれば何かとやりたいことが出てくる。平日だと、ひっきりなしに鳴る内線電話に邪魔されてできない資料整理や細々としたメールへの返信など、雑務ならばいくらだってあった。
ほとんどの電気製品がオフになり、冷たくなった静かなオフィスで仕事に集中することで、午前中の不愉快な出来事についても忘れようと試みた。それでも手を止めるたびに嫌味な議員秘書の顔や声がちらほらと頭をよぎり、栄は奥歯を噛み締めた。
結局、栄が庁舎をあとにしたのは夜九時を回っていた。自宅最寄りの駅で電車を降りて、まっすぐ自宅マンションに帰るか迷った。疲れ果てた体のことを考えるならばすぐにでもシャワーを浴びて休みたい。でも、家に帰れば尚人がいる――栄が帰宅を迷う理由はそれだった。
馬鹿みたいだと自覚はしている。
仕事を終えても理由をつけて職場に居座ったり、頻繁に部下を飲みに誘っては自宅に帰ろうとしない先輩や上司のことを、かつての栄は理解できずにいた。疲れているのならば少しでも帰って休めばいいし、なぜ迷惑がられていることを半ば自覚しながら酒に誘ってくるのか。仕事の忙しさは同業者として理解するが、それで自宅に居場所を失うのは自業自得なのに――冷めた目線で彼らを眺めていたはずが、いつからマンションへ向かう自分の足が重くなりはじめただろう。
大学生の頃から付き合っている恋人、相良尚人のことはいまでも愛している。本当はできる限りの時間を一緒に過ごしたいし、優しくしてやりたいと思っている。なのに、以前は何も考えずにやっていたことすべてを、ここ最近の栄は上手くできずにいる。そして、理想の恋人としての自分と現実の自分との乖離に焦り、結果として尚人との関係はどんどんぎこちないものになっている。
昨晩、珍しく早い時間に帰宅した栄を見て尚人は目を輝かせた。恋人の嬉しそうな顔を見れば栄も気分が良くなって、今日は一緒に食事をして、久しぶりに二人で穏やかな時間を過ごせるのだと期待した。しかし結果は言うまでもない、緊急呼び出しの電話。
身支度を終えて出かけるまで尚人の顔を直視できなかったのは、もちろん罪悪感があるからだ。キッチンに立って嬉しそうに夕食を作っている尚人をどれだけがっかりさせてしまうかがわかっているから栄は尚人の顔をまっすぐ見つめられない。無神経なふりをして、「ごめん」の一言だけを残して部屋を出るのが精一杯だ。そして、そんなことを繰り返すたびに2LDKのマンションの居心地は悪くなり、栄は家に身の置き場所がなくなる。
とはいえ栄にも言い分はある。
――大体、あいつだってちょっとおかしくなってるんだ。依存的というか。
別にそんなことしなくていいと言っているのに、食べられる保証もない夕食を作って夜中まで待っていたり、朝が早いと言えばダイニングテーブルの上にサンドウィッチやおにぎりが置いてあったり。
きっと二年前の栄ならば、そんな尚人の優しさを素直に受け入れていた。積み重なる多忙と疲労が自分の心をささくれさせていることはわかっている。でもそれだけではない。栄の胸の中に刺さったままの小さな棘。尚人はなぜ、大学院をやめたのだろう。あんなに長いあいだ必死に勉強と研究を続けてきたのに、研究者への道を捨ててしまったのだろう。
官僚として国の役に立ちたいと願う自分と、研究者を目指す尚人。互いの目指すところは違っても、応援しあって、励ましあってやってきたはずだった。なのに、修論を書いているころから暗い顔をすることが増えた尚人は、それでも博士課程には入学したものの、結局博士論文を書き上げることなく中退した。そしていまではこともあろうか、子ども相手の家庭教師を本業にしている。正直そんなものがT大の博士課程にまで進んだ人間が選ぶ仕事だとは思えなかった。
尚人があっさりと夢を捨てたことに栄は失望した。いや、失望以上に恐怖を感じた。自分と尚人の関係がバランスを崩したように思えたのだ。
頑張って。栄なら大丈夫。栄ならできるよ。嬉しく心強い励ましの言葉が最近では栄の呼吸を苦しくさせる。だってその言葉に込められる意味はおそらく以前とは違っているから。競争を降りてしまった恋人に「お互い頑張ろう」と返すことは、もうできない。互いに切磋琢磨していたはずの関係は打ち砕かれ、いまでは尚人が捨ててしまった夢までも自分の肩にのしかかっているような重苦しさがある。
どうして尚人は努力することをやめたんだろう。どうして尚人は、そのくせ俺には頑張れ、大丈夫、とプレッシャーをかけ続けるんだろう。
どうして、俺だけがこんなに――。
誰に頼まれたわけでもなく自分自身で望んだ道なのに、こんなことを考えるのは間違っている。それにもしも尚人が栄の疲れを心配して立ち止まることを進言したとすれば、きっと栄は激怒する。俺をその程度の人間だと思っているのかと怒り狂い、傷つく。自分自身の分裂した感情を自覚しているからこそ栄は身動きが取れず、尚人の視線や言葉に怯えているのだった。
そういえば寝室を分けてからずいぶん経つ。セックスだって最後にしたのはいつだったか。
浮気をしているわけではない。疲れて帰って家では眠るだけだから、セックスにまで気持ちがいかないというのが正直なところだ。それに、完全なインポテンツというわけではないと信じてはいるものの、生理的な起床時の勃起以外に性器が昂ぶることはめっきり少なくなった。こんな状態で尚人を抱こうとしてもし失敗しようものならきっと栄は精神崩壊してしまう。だから、稀に欲望をもよおした時は自分自身で処理をして、あえて恋人の体は求めない。元々性欲の薄そうな尚人も、特にいまの状況に不満はないように見える。
言い訳を重ね、いびつになっていく関係を自覚しながら、それでも尚人を愛している。尚人を必要としている。尚人の信頼があるから、尚人の励ましがあるから心折れずに進んでいくことができる。
もう少し頑張って、そのうち仕事が落ち着けば、あといくらか心の余裕ができればきっと、また以前のような気やすい関係に戻れるはず。不安に襲われるたび栄は自分自身にそう言い聞かせた。
「ただいま」
リビングのドアを開くと、うつむいてスマートフォンの画面を見ていた尚人がはっと顔を上げた。
「……あ、おかえり。こんな時間までお疲れさま」
驚いたような態度であわてて画面を裏返す。普段はまるで忠犬のように栄の帰宅に反応する尚人がこんなにぼんやりしているのは珍しい。過剰に帰宅を意識されるのも面白くないが、気づかれないというのもなんとなく不愉快だ。
「別に。仕方ないよ、そういう仕事だし」
返す言葉に思わず棘が混じり、尚人が怯えるのがわかった。機嫌悪い態度を取るつもりではなかったのに、帰宅早々調子が狂う。
迷いながらも昨日の罪滅ぼしのためにも今日こそ一緒に食事をしようと思ってどこにも寄らずに帰ってきたのだが、すでにリビングの空気は重かった。
「あ、あの。夕ご飯は?」
問われて何気なくキッチンに目をやると、空っぽになってコンロの上で乾かされている土鍋が目に入った。昨日夕食のために準備したものを、尚人はどうしたのだろうか。ひとり寂しく鍋をつついて、残りは捨ててしまったのだろうか。罪悪感は栄の心をかたくなにする。
「いい、済ませてきたから」
一緒に食卓につくことが億劫で、つい嘘をついた。
上着を脱いで、ソファーに腰掛ける前に冷蔵庫に向かいビールを一本取り出してプルタブを開ける。夕食を済ませてきたと言っておきながらビールだなんて、尚人に変だと思われるかもしれない。でも実際のところ栄は空腹だし、ぶっ続けの仕事でヘトヘトに疲れているし、今日はとりわけ嫌なことがあった。
ふと弱音をこぼしたくなったのはビールを一本空け終わる頃。空きっ腹にアルコールを入れたせいで、もしかしたら少し酔ったのかもしれない。
「そういえばナオ。俺、今日すごく大変だったんだよ。主意書は無茶苦茶な数当たるし、理不尽な苦情で偉そうな秘書に文句言われるし……」
ダイニングチェアに座ったままでいた尚人がこちらを振り向いて、立ち上がった。その目から怯えの色は消えている。恋人はゆっくり歩いてきて、遠慮がちにいくらかの距離を置いて栄の隣に腰掛けた。
栄は恋人の髪に手を伸ばし、その頭を抱き寄せる。尚人の髪はほんの少し湿っていて、シャンプーの匂いがした。思わずそこに鼻を埋める。同じシャンプーを使っているのに、尚人の方が自分よりもずっといい匂いがするような気がする。
「さすがに、ちょっと疲れた」
近すぎる距離からの声に、尚人は少し身を震わせたようだった。そして手を伸ばすとほとんど空になったビール缶を握ったままの栄の手に、手のひらを重ねてくる。
「たいへんだったね。明日は少しでもゆっくり休んで」
「……ああ、そうだな」
記憶の中の尚人は栄より体温が低い。しかしいま重なってくる手のひらはほんのりと温かくて、自分の手が単にビールで冷え切っているだけなのだとわかってはいても、不思議な気持ちになる。
ゆっくりと睡魔が襲ってきて栄の視界が揺らぐ。恋人の髪の匂いに包まれ、柔らかな体温を感じて、このまま寝落ちするのならば悪くないと思ったそのとき――尚人は優しい調子で続けた。
「そうすればまた月曜から頑張れるよ、栄なら大丈夫だから」
一気に眠気の飛んだ栄は、尚人の手を振りほどいてビールの最後の一口を含む。それはまるで血のような味がした。