18. 尚人

 土曜日の朝、尚人は珍しく寝坊をした。なぜかといえばセットしてあるはずのアラームが鳴らなかったからだ。なぜアラームが鳴らなかったのかといえば、それはスマートフォンが充電切れを起こしていたからに他ならない。

 枕元で真っ暗な画面のまま冷たくなっているスマートフォンを手に、一瞬何が起こったのかわからなかった。それから端末の故障を疑い電源ボタンに指をかけると、画面には充電切れを示すアイコンが大写しになった。

 ゲームもしないしSNSもしない、ブラウジングや仕事に関する作業にはラップトップを使う。いまどきの同世代と比べても圧倒的にスマートフォンへの依存度が低い尚人に充電切れは無縁だ。なぜ今日に限ってこんなことが――と記憶を探ると頭の中に柔らかな声が蘇った。

 ――眠るまで俺がここで見ててやるから、電話切らないでそのままにしてなよ。

 それが酒に酔った頭で見た夢なのか現実かも寝起きの尚人には判然としない。だってあんな奴があんな優しいことを言うはずがない。しかし夢にしてはあまりにその声は生々しい。

 あわてて充電ケーブルに手を伸ばし、スマートフォンに再び電源を入れることができるようになるまでの短い時間がもどかしかった。怖いような、期待しているような、自分でも理解しがたい気持ちを胸に黒い画面を凝視した。

 反応のない電源ボタンを何度も押し続け、数分後にようやく電源がオンになった。通話アプリのアイコンをタップして、普段は一切気にかけることをしない通話履歴の画面を開く。

「4時間18分……」

 一番新しい通話履歴は090から始まる番号。通話時間は4時間18分という尚人にとっては異様ともいえる長時間。もしかしたら充電が切れるまでずっと回線は繋がったままだったのかもしれない。

 ここ数日のあいだに数え切れないほど消去するか否かを迷ったその番号を尚人はもう記憶してしまっている。持ち主の名を登録しないのは、意地の悪い態度をとってきた彼へのせめての矜持のつもりだった。そんな相手との長い長い通話履歴。

 4時間18分の文字が意味するのはあれからもずいぶん長いあいだ、笠井未生が電話を切らないままでいたということ。それ以上でもそれ以下でもないことは理解している。

 打ち寄せる眠気の中で少しくらい話をしたのかはわからないが、きっと尚人はあれから間もなく睡魔に飲まれて意識をなくした。そして返事のなくなった電話を手に未生は「眠るまで見ててやる」という言葉のとおり、尚人との会話が途切れた後も回線を繋いだままにしていてくれたのだ。

 無礼で品のない若い男のやることだ。こんなのはちょっとした気まぐれに決まっているし真に受けるだけ馬鹿馬鹿しい。向こうだって寝落ちしたか、ただ終話ボタンを押さずに端末をそのあたりに放置していただけなのだろう。手の中の数字には何の意味もないのだと自分に言い聞かせるが、いざ通話履歴を消去しようと指を伸ばした尚人はそれ以上動けなくなる。

 たとえこれが未生にとってはちょっとした気まぐれだったのだとしても、彼の言葉は寂しいひとり寝の夜に落とされた小さな光だった。電話越しではあっても、他人の存在を感じながら眠りに落ちる感覚など尚人はすっかり忘れかけていた。

 消すならいつでも、十秒もあればできる。結局その場で通話履歴を消すことはせずに尚人はベッドを出てコーヒーを淹れに立った。

 その日、尚人は普段ないほどスマートフォンを気にして過ごした。昨晩一度帰宅した後で疲れた顔で職場に戻っていった栄のことが気になっていた――というのももちろん嘘ではないが、心の奥底では昨晩の長い通話について未生から何らかの連絡が来るのではないかという不安と期待を抱いていた。

 電話がかかってきたらどうしよう。昨日までのように無視を決め込むのか、それとも一言くらいは礼でも言った方がいいのか。もしかしたら電話ではなくメッセンジャーで連絡が来るかもしれない。授業の合間に何度も端末を確かめる尚人に、家庭教師先の生徒も訝しげな表情を向けた。

「先生どうしたの? スマホばっかり見て」

「あ、ごめん」

 仕事への集中が切れていることを指摘されて、尚人はあわててスマートフォンをカバンに放り込んだ。その姿を見て生徒は意味ありげに笑う。

「もしかして彼女の連絡待ってるとか? 先生まだ結婚してないんだよね? 彼女とかいるんでしょう? 土曜に仕事なんか入れちゃって大丈夫なの?」

 小学生女子というのは男子の数倍もませていて、見た目は幼くても大人と変わりないほどの熱意で「恋バナ」をするものだ――というのは女兄弟を持たない尚人にとっては家庭教師をするようになって初めて知ったことのひとつだった。

「違うよ、次の予定を確認してただけ。ほら美和ちゃん、手が止まってるけどここの解き方大丈夫なの?」

 あわてて身を乗り出し算数の応用問題を指で指し示すが、そこから授業を本筋に戻すのには相当の苦労を要した。

 結局、栄からも未生からも一切の連絡がないまま夜九時を回り、仕事を終えた尚人は誰もいない部屋に戻った。

 栄は帰ってくるのだろうか。夕食は家で食べるだろうか。押し付けがましいことをすれば叱られるだろうから、とりあえず自分のために簡単な何かを作り、気が向いたら食べてもらえる程度を残しておけば良いだろうか。そんなことを考えるが、昨晩作りかけで台無しにしてしまった鍋のことを思うとどうもやる気が出ない。手をつけられることないまま鍋の中でくたくたに煮えた白菜と豚肉は今朝すべてゴミ箱に捨てた。

 シャワーを済ませてダイニングチェアに座り、念の為再度栄からの連絡の有無を確かめる。何のアップデートもない端末画面を眺めるうちに、自然と指は通話履歴画面に伸びた。

 こんなものにわずかでも喜びや救いを感じるなんて完全にどうかしている。冷静になろうと、最初に未生と出くわしたときのことを思い起こす。不審者を見るような視線を投げかけて、尚人の仕事をあからさまに見下した。それどころか二度目に会ったあの雨の日には勝手に人の性癖を決めつけた上にあんな失礼な――。

 怒りを呼び起こそうとする試みの半分は成功した。しかし未生の蔑むような眼差しと意地の悪い口調を思い出すと、まるで引きずられるように彼の裸の上半身までも記憶から蘇ってしまう。風呂上がりのまだ少し濡れた肌。飛び出した喉仏から胸元に続くライン。たくましい腕と、スポーツでもやっているのか綺麗に割れた腹筋。鮮やかすぎる映像に怒りはかき消され羞恥だけが残る。

 ――一体自分は何を考えているんだろう。

 でも、それもこれも未生が妙なことを言い出すからだ。尚人が同性愛者であることも、恋人と長いあいだセックスをしていないことも言い当てて、ひとり寝の寂しさまでも指摘した。それどころかあんなことを――慰めてやろうかなんて言い出すから、四時間以上ものあいだ眠る尚人を見守ったりするから、こっちまでおかしくなってしまう。

 やりきれない気持ちでぎゅっと手の中のスマートフォンを握りしめたところで、背後から呼びかける声がした。

「ただいま」

 はっとして振り返り、栄の姿を認めた尚人はあわてて手の中のものをテーブルに向けて裏返した。相手が誰であろうが夜中に四時間以上も通話していた履歴を恋人に見られてはいけないくらいの常識はある。

「……あ、おかえり。こんな時間までお疲れさま」

 まるで浮気現場を目撃されでもしたかのように心臓が跳ねたが、栄は尚人の様子を気にする素振りは見せずに夕食は外で済ませてきたのだと言った。

 一週間の激務に極め付けのように金曜晩からの徹夜、栄の疲れは相当なものだろう。ビールの缶を手にする恋人の手首にはワイシャツの袖がぶかぶかに余っている。いまも週に一度は泳ぎに行くよう心がけている栄だが、剣道で鍛えていた頃と比べると体はひと回りほども小さくなったように見える。

「そういえば、ナオ。俺、今日すごく大変だったんだよ」

 しばらく黙ってビールを傾けていた栄が、ふと口を開いた。

 栄が尚人に向かって仕事の話をすることだけでも珍しいし、苦労した話をすることなどもっと珍しい。学生時代から栄は目立って優秀で自律的な男だったからそもそも苦労するようなことも少ないし、問題に出くわしても何だってひとりで解決してしまう。尚人は今日の栄はよっぽど疲れているのだろうと察した。

 急に飛び込んできた仕事の量が多かった上に、理不尽な事情で国会議員の秘書からクレームをつけられた。ある意味では平凡すぎる愚痴を聞きながら、不謹慎ながら尚人は少し嬉しくなった。栄がこんな風に心の内を明かしてくれることは珍しい。

 ソファに隣り合って座ると恋人は尚人の髪に顔を埋めてくる。手のひらを重ね、互いの体温を感じて、少しでも栄の疲れを癒すことができるなら何より嬉しい。尚人の心の中からはもう、長い通話履歴のことも笠井未生の裸のことも消え去っていた。

 尚人はただ栄を少しでも元気づけたい一心だった。疲れ切ってネガティブになっている栄に自信を取り戻して欲しかった。栄は誰よりも強くて優秀だからきっと大丈夫。目の前の仕事だって上手くいくし、失礼な議員秘書とだってきっと上手くやれる。そんな気持ちを込めて尚人はつぶやく。

「また月曜から頑張れるよ、栄なら大丈夫だから」

 しかし、次の瞬間には空気が一変していた。弾かれたように尚人の手を振り払った栄の顔はこわばり蒼白だった。そのままビールの残りを飲み干すと、視線も合わせないままソファから立ち上がる。

 恋人の突然の豹変に、尚人の頭は真っ白になった。

 また何か間違えた。良かれと思って言ったこと、やったことがいつだって裏目に出てしまう。ただ栄を元気付けたいだけなのに、どうしていつもこうなってしまうのだろう。

 不機嫌の理由も明かさないまま寝室に引きこもった栄に、尚人はそれ以上声をかけることすらできなかった。さっきまで良い雰囲気の中にいたから冷え切ったリビングの空気がなおさら辛く、そそくさと明かりを消して自室に向かう。

 きっと栄の気持ちを苛立たせるような失言をしたのだろう。いったいどれがいけなかったのか。でも、悪気なんてなかった。

 最近の栄はいつもこうだ。尚人の言動や行動にただ腹をたてるだけで、何が気に入らないのか、どうすれば栄の助けになれるのか、肝心なことは教えてくれない。自分ひとりが答えのないゲームを延々と繰り返しているようで、尚人は無性に悲しくなった。

 ベッドサイドにはカレンダー。そういえば今朝は寝坊に驚いてカレンダーにいつものしるしをつけるのを忘れていた。尚人はサインペンを取り出してカレンダーに昨晩の分のバツ印を書き込むと、泣きたい気持ちでベッドに潜り込んだ。