20. 尚人

 麻布十番の駅から少し離れた場所にある喫茶店を指定して電話を切ると、尚人は大きくため息をつく。

 出かける前に財布の中身を確かめた。二十五歳の誕生日に栄からプレゼントされたのは本革の長財布で、人気の職人ものだから半年以上前から予約して手に入れたのだと言われた。ファッションにもブランドにも疎い尚人がその価値を正しく理解できたとは言い難いが、貴重な品を自分のためにわざわざ手に入れてくれた栄の優しさが嬉しかった。

 多額の現金を持ち歩く習慣がないので、札入れには一万五千円ほどしか入っていなかった。特段の面識も恨みもない人間をわざわざ労力をかけて貶め脅す理由など、せいぜい金くらいしか思い浮かばない。いざ金額の交渉になった場合、これではとても足りないに決まっている。

 笠井未生は一見金に困っているようには見えないが、いまどきの若者で、しかも血の繋がらない母親と暮らしているとなれば親に言えない出費もあるのかもしれない。尚人はマンションを出てすぐの場所にあるコンビニエンスストアに入りATMでまず五万円を下ろし、それから未生の意地の悪い笑顔を思い出してさらに五万円を追加した。

 喫茶店に着いたのは尚人の方が先だった。落ち着かない気持ちのままできるだけカウンターから遠い二人がけのテーブルを選び、注文を取りに来た店員にオリジナルブレンドを頼む。

 未生がやって来たのは五分ほど経ってからだった。扉に取り付けられたベルの音に思わず振り向いた店内の――特に女性客は一瞬その姿に釘付けになり、それからそそくさと逸らした。

 一方の未生は寄せられた視線など気にもかけず、店内をぐるりと見渡し尚人を見つけると軽く手を上げた。確かに彼の背は高くスタイルも良い。王道的に整った顔を持ち上品な雰囲気を漂わせている栄とは別の意味で、未生もまた人目をひくことやそれを受け流すことに慣れきっているのかもしれない。

 一貫して地味で真面目なグループに属してきた尚人の学生時代を振り返ると、未生がこれまでの人生でお近づきになったことのないタイプであることは間違いなく、そんな相手と対峙するのだと思うとひときわ気が重くなった。

「こっちの方が家から近いの? マップで見るとあんまり変わらないみたいだけど」

 未生が開口一番そう訊ねてきたのは、すでに六本木駅にいたのに待ち合わせ場所を変えられたことが不満だったのかもしれない。自宅と駅の位置関係まで確認していたことを悪びれず口にする常識のなさには閉口する。

 事実、尚人と栄が暮らすマンションはちょうど六本木駅からも麻布十番駅からも同じくらいの距離にある。尚人がこの喫茶店を指定したのは万が一にも六本木のスポーツジムに通う栄と出くわすのを避けるためだった。半ば脅しのように呼び出されひどく動揺している中で、待ち合わせ場所の変更を思いついたのは不幸中の幸いだ。

「六本木は……騒がしいから苦手なんだ」

「へえ。まあセンセーの雰囲気的にこの辺りの方が合ってる気もするけど。確かにここは穴場っぽいね」

 見え透いた尚人の嘘をダウンジャケットを脱ぎながら未生は軽く流した。

 とはいえ六本木も麻布十番も買い物客で賑わう休日はカフェ難民になりやすいのは事実だ。一方、麻布十番から三田方面にしばらく歩いたこの辺りに来れば通りも閑散としているし、この喫茶店も席は半分ほどしか埋まっていない。

「この辺りは平日はもっと学生がいるんだけど、確かに日曜は穴場かもしれないね」

 前回前々回と未生の挑発に乗って痛い目にあった。むきになれば相手の思う壺だと学んだ尚人はできる限り平静を装うが、手のひらは汗で湿っていた。

 この男は一体何のために自分を呼び出したのか。予想通り金が目的なのか。早鐘のように打つ鼓動を数えながら未生の言葉を待つが、青年はまずテーブルのメニューを開きじっくりと眺めた。

「ねえセンセー、ここのオススメって何?」

「え?」

 不穏な言葉で人を呼び出しておきながら、まずは注文の相談とは。完全に出足をくじかれ拍子抜けした尚人は釣られてメニューを開く。

「コーヒーは自家焙煎で美味しいと思うけど」

 尚人がこの店に通いはじめたのも立地の割に雰囲気が落ち着いていることのほかに、オリジナルブレンドの味が好みだからだったことを思い出す。だが尚人の手元にあるブラックコーヒーに目をやった未生は興味なさそうに視線を外した。

「コーヒーか。俺、苦くて好きじゃないんだよね」

 その言葉には意外な印象を受けた。何しろ洗練された雰囲気をまとういかにもいまどきの若者だ。むしろ甘いものなど苦手だと格好をつけそうな風貌なのに、目の前の未生はスイーツセットの写真を覗きこんで真剣な眼差しで悩んでいる。

「……だったら紅茶やハーブティーもあるし、自家製のキャロットケーキも人気みたいだよ」

「へえ、でもキャロットケーキってシナモン入ってるのか。あれ薬みたいな味がするから苦手なんだよ。あ、すみませーん!」

 相談しておきながら尚人の言葉などあっさり無視して、店員を呼んだ未生は抹茶ラテとチーズケーキのセットを注文する。まるで女子大生のような選択だと思うが、口は災いの元なので言葉には出さずにおいた。

「家庭教師ってそんなに儲かりそうにないけど、いいとこ住んでるね。家賃高いんじゃないの?」

 先に運ばれた水を飲みながら未生はそう切り出す。ただの下世話な好奇心なのか、尚人の生活環境を聞き出そうとする意図があるのかわからない。

「別に、僕がどこに住んでいようが君には関係ないだろう」

 まさかここで未生に、マンションには学生時代からの同性の恋人と暮らしていることなど話せるはずがない。実のところマンションは栄の親の持ち物で家賃は破格の十五万円にまけてもらっている。しかも大学院生だったときの名残で尚人はいまも月にたったの五万円しか負担していない。就職したときに今後はぴったり折半しようと栄と訴えたのだが、生返事でかわされてそのままになっている。

「センセー冷たいな。一昨日の夜は素直で可愛かったのに」

 そう言って未生が芝居がかったため息をついてみせたので尚人は焦る。いくら店内に客は少ないとはいえ、個室でも何でもないオープンスペースだ。あまり人聞きの悪い話はされたくない。

「変な言い方はやめてくれ。確かに酔って電話をかけてしまったことは僕が悪かったけど……いくら君が僕の生徒の家族だとはいえ業務以外で連絡されても困るんだ。電話とか呼び出すとか、こういうのは金輪際やめて欲しい。このままじゃ、僕は優馬くんの担当を他の講師に代わってもらうことになるかもしれない」

 尚人はぎゅっとテーブルの下で手を握る。膝の上には五万円を入れた封筒を既に準備してあった。

 本気の訴えに、未生は軽く驚いた素振りを見せた。

「へえ、優馬を人質にするつもり? センセー意外といい根性してるね。あんなことまで打ち明けてくれた仲なのに」

 その言葉に背筋が凍る。脅しているのはどっちだ。本来なら無視していたはずの呼び出しに応じたのは、金曜の電話で尚人が重大な秘密を明かしたことをほのめかされたからだ。

 一体自分はこのいけ好かない男に、何を話してしまったのだろう。唇を噛む尚人に、未生は楽しそうな笑みを浮かべた。

「そんなにしらばっくれなくてもさ、嫌で嫌でたまらない俺からの呼び出しに、わざわざ繁華街と反対方向の喫茶店を指定して出向いてくる程度には心当たりがあるんだろ」

 そこにちょうど未生の注文した品を手にした店員がやって来た。尚人は黙り込んだままで、未生は愛想よく礼を言う。その外面の良さがなおさら不気味に見えた。

 ケーキと抹茶ラテを置いた店員が十分に遠くへ離れたのを確かめて、尚人は思い切って封筒をテーブルの上に差し出した。

「本当に何も覚えていないんだ。もしかしたら大人として相応しくないことを言ってしまったかもしれない。だから――どうかこれで忘れて欲しい」

 ATMの横に置いてあった薄っぺらい封筒には福沢諭吉の顔がうっすらと透けている。どうか受け取ってくれますように、どうかこれでおしまいになりますように。尚人は神に祈る気持ちだった。

 未生は怪訝な顔で封筒を眺めてからそれを手に取ると、躊躇なく中身を確かめる。「五万か」とつぶやいてからそれをテーブルの上に戻し、空いた手で抹茶ラテのカップを手にした。

「センセー、あんまりに世慣れてないんじゃないの。俺が悪い奴だったらきっと、これをきっかけに何度もあんたから金を引っ張ろうとするだろうな。大丈夫? いままでも詐欺とか美人局つつもたせとか引っかかってきたんじゃないの?」

 尚人の頰はかっと熱くなった。これでは不満だというのだろうか。確かに世慣れていないことは否定しないが、こんな年下の男に良いようにからかわれて、なけなしの五万円を払っても許してもらえないなんて自分は一体どんな罪を犯したというのだろう。

「だって、君が僕を脅すから。きっと何かとんでもないことを言ってしまったんだと思って……」

 もはや年上の矜持もない。泣きついて許してもらえるならばきっとそうするだろう。もしも性志向を暴露されれば尚人自身の仕事や生活にも少なからず影響があるだけでなく――もし栄が同性と付き合っていることが彼の職場にばれたら――想像するだに恐ろしい。

「別に、いじめたくて呼び出したわけじゃない。あんたとは利害の一致した関係が築けるかなって思ったんだ」

「利害の一致?」

「うん」

 未生はうなずいてチーズケーキにフォークを刺した。女子向けの小さなピースの、一度に半分ほども口に入れると豪快に咀嚼して飲み込む――その喉仏の動きをぼんやりと眺めながら尚人は続く言葉を待つ。

 やがて未生は再び口を開いた。

「俺さ、自分より不幸な人を見るのが好きなんだよね」