21. 尚人

 未生が発した言葉はそれまでの話の流れとは一切脈絡がないように思えた。

 いくら縁のないタイプといえ年齢は十も離れていないだろうし、昨年まで大学院生だった尚人は年齢の割に若者との接点が多い方だと思っていた。それでも未生の言っていることはさっぱり理解できない。

 一方的に尚人の性癖を決めつけて脅してきたこと。それを利害の一致だとうそぶくこと。そして――不幸な人間が好きだという告白。ジェネレーションギャップや性格の違いを超越した大きな断絶が自分と未生のあいだに横たわっていることは確かだった。

「ごめん。君の言っている意味が全然わからない」

 テーブルの上で行き場を失っている封筒に気まずい視線を落としながら尚人は正直な気持ちを口にした。

「え、そう?」

 一方で、極めて不穏な発言をした後とは思えないほど未生の態度は飄々

としていて、だからこそ不気味さも増幅する。

「話が全然繋がってないし、第一君は、不幸かどうかを決めつけられるほど僕のことを知ってる訳でもないだろう。大人をからかって面白がっているだけなのかもしれないけど、本当に迷惑なんだ」

 自分の言葉から滲み出る必死さはきっと未生を面白がらせるだけだ。わかっているのに、真綿で首を絞められるような息苦しさにむきにならずにはいられない。

 だが未生は、ほとんど懇願のような尚人の言葉を笑顔で否定してしまう。

「繋がってるよ全部。それに俺、前にも言ったけど寂しくて欲求不満をこじらせた人間を見分けるのが得意なんだよ。いままで俺が言ったこと、全部とまでは言わないけど大体は当たってるだろ? 不幸で不幸で仕方ないってセンセーの全身からあふれてる」

「だから、君の勘違いだって……」

「もちろん見た目だけじゃなくてさ。家にあったあんたのキャリアシート見たけど、T大の大学院まで行って何で小学生の家庭教師なんかやってるの? プライド持ってやってるなんて絶対嘘だろ。このあいだ俺の体を見て動揺したのも、金曜の晩や日曜の昼間に一緒に過ごす相手もなく暇を持て余してるのも本当のことだし……」

「そんな話のために来たわけじゃないだろ!」

 周囲を気にしながらも思わず低い声で未生を制止する。店員も他の客も、隅のテーブルで険悪なやり取りを続ける男二人に特段の注意を払っている気配はないが、だからといって程度というものがある。

「真面目に話をする気がないなら帰らせてもらう。このあいだの電話で僕が失言をしたって言うから、それを――謝るために来たんだ。なのに関係ないことばかり」

 ぐっとにらみつけると未生の顔から感じの悪い薄笑いがすっと引く。さすがに本気の怒りが伝わったのだろうが、話の腰を折られて面白くなさそうだ。

「もうすぐ三百六十五日なんだ、って言ったんだよ。あのとき」

 未生は拗ねたようにそう言った。

「嘘だ!」

 思わず大きな声を出しそうになる尚人に向けて、今度は未生が「しーっ」と唇の前に指を立てる。

「こんな嘘つくもんか。何かを一年間ずっと我慢してるからこんなに不幸せそうなんだって思ったら電話を切るのが可哀想になって、電池切れまでずっとそのままにしてたんだよ」

 ――嘘だ、と尚人は心の中で繰り返す。いや、でもいくら察しが良く悪知恵の働く未生だって、尚人の心の中にしかないその日数まで言い当てることは難しいはずだ。本当に自分はいままで誰にも打ち明けたことのない秘密の一端を未生相手に口走ってしまったのだろうか。頭がクラクラした。

 ただし、もし尚人が実際に「三百六十五日」について打ち明けたのだとして、未生がそれに同情したというのは嘘に決まっている。こんな性悪の男だ、弱みを握ったとほくそ笑んだに違いない。

 尚人は震える手でポケットを探る。念のために下ろしてきた五万円を取り出してテーブルの上に置いたままの封筒に重ねると、未生の整えられた眉がちらりと持ち上がった。

「頼むから、これで。物足りないかもしれないけどいまはこれが精一杯で」

 合わせて十万円。高給取りでもなく奨学金の返済にも追われている尚人にとっては安い金額ではないが、未生との縁を切るためならば惜しくないと思った。

 未生は抹茶ラテのカップを手に取ると中身を一気に飲み干した。それからおもむろに手を伸ばし、むき出しの紙幣を封筒の中に加えた。

 封筒を手にしたまま立ち上がりダウンジャケットを羽織る未生を直視する気になれず、尚人は冷え切ったコーヒーを口にした。ほとんど味なんて感じない。

 どうやら未生はひとまず十万円に満足して帰ってくれるようだ。さっき暗示したように、未生がこれから繰り返し尚人から金をせびろうとするのかもしれないと思えば完全に安心はできないが、いまこの男が目の前から消えてくれるだけで少し気が楽になる。

 しかし、未生はそれ以上動かなかった。テーブルの横に立ったまましばらく尚人を見下ろし、不思議そうに言った。

「何やってんの? さっさと立てよ。俺ケーキも食っちゃったけど、ここは年上のおごりってことで頼むね」

 そして、驚いて立ち上がった尚人の手の中に十万円の入った封筒と喫茶店の伝票を押し付けてきた。

「え? これ、君」

「だから、そういうんじゃないって言っただろ。ここで話すの嫌なら場所変えようよ。何が三百六十五日なのかゆっくり聞きたいし」

 尚人の目の前に見えていた光は完全に消えた。未生は彼の知りたい内容をすべて聞き出すまで決して尚人を解放する気はないらしい。

 会計を済ませて店を出ると、未生はおもむろにスマートフォンを取り出した。

「俺、この辺り来ないから全然わかんないんだよ。どうせセンセーのマンションはいつ男が帰ってくるかわかんないから駄目だって言うんだろ? そうだ、この近くにラブホある?」

「はあ!?」

 通りすがりの若い女がギョッとしたように振り返り、未生と尚人の顔を順に凝視する。尚人は思わず手を伸ばして邪魔なことしか言わない口を塞ごうとするが、未生はあっさりそれをかわした。

「センセー何やらしい想像してんの? 個室で人に聞かれず込み入った話できるとこってラブホテルかカラオケボックスくらいしかないだろ。えっとカラオケは……駅の方か」

「最悪だよ、君は」

 尚人はため息をついた。

 死んでも六本木方面には行きたくなかったし、万が一栄が通りかかることを思えば麻布十番の駅近くにも行きたくない。未生がウェブ検索で見つけたカラオケボックスまで歩くうちに田町駅の近くまできてしまった。

 一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 家庭教師先の家で偶然出会った男に絡まれて、長年の友人にも話せないような私生活を打ち明けさせられようとしている。しかもその目的は判然としない。完全なる事故だ。道を歩いていてビルの上から落ちてきた物が直撃して死ぬくらい、多分ものすごく運の悪い事故。話さなければ解放してもらえないが、話したところでそれをネタにさらなる理不尽な目に遭わされることは確実だ。

 尚人はカラオケなど学部生時代以来だったが、未生は手慣れた様子で入店手続きとドリンクのオーダーを済ませると尚人の隣に並んでソファに腰掛けた。隣の部屋からはかすかに流行りのメロディが聞こえてくる。

 喫茶店では向かい合って座っていたが、いまの二人の距離ははるかに近い。落ち着かない尚人はできるだけ距離を取ろうと座り直すが、そのたび未生が追いかけてくるので結局根負けした。

「……あのね、本来僕には君とこうやって話をしなきゃいけない理由なんかないんだ。恨まれるほど親しいわけでもないし、金が欲しいわじゃないのなら、君の目的は何なんだよ」

「言っただろ、不幸な奴が好きだって」

 そう即答してから未生ははっとしたように「あ、ちょっと違うか」と首を傾げると、よりイメージに近い言葉を探した。

「えっと、好きって言うか俺さ、欲求不満をこじらせた不幸な人間に欲情するの。だから要するに今は……センセーのこと口説いてるってことになるのかな」

「く、口説いてる?」

 訂正後の言葉は尚人にとってはより理解が難しく――それでも、未生が自分を呼び出した理由が想像以上に最悪なものであることだけはわかった。

 ソファに座ったまま上体を膝の上に投げ出し、頭を抱えて黙り込んでしまった尚人に向かって未生は無邪気に訊ねる。

「何で頭抱えてるの?」

「君はまるで宇宙人だ」

 悪意を持った宇宙人で、しかも言葉は通じない。家庭の事情は知らないが、あの手のかからない良い子である優馬と、目の前のこの男のあいだには血の繋がりは皆無であるに違いない。いや、そうであって欲しい。