不毛な会話を続ける気にもなれずうずくまったままでいる尚人の首筋に、やがて冷たいものが触れてくる。指先から伝わってくる感情は謝罪でもいたわりでもなく、ただのからかい。うっとうしくて振り払うが、案の定しつこい男は何度でも手を伸ばしてくる。
触れた指がつうっと首筋を滑ると、反射的に肌が粟立った。
――もうずっと、誰からも、こんな風に触れられていない。
ちらりと頭をよぎった考えのせいで、未生への苛立ちは自己嫌悪へと変わった。こんな奴の指先に妙なことを思ってしまう自分のあさましさが、情けなくて悔しい。
「……さすがに気づいていると思うけど、僕は君みたいな奴は大嫌いなんだ」
繰り返し寄ってくる羽虫を払い続けるようなきりのない動作に疲れ、尚人は結局されるがままに未生の指を受け入れる。悔し紛れの言葉は半分ひとり言のように唇からこぼれ落ちた。
「知ってる」
嫌いだ、と面と向かって告げられているにも関わらず未生の返事はどこか楽しそうに聞こえるから不思議だ。だが実際未生にとって尚人が彼をどう思っているかなどどうだっていいのだろう。ただ彼は、見慣れないおもちゃを面白がっているだけ。そして、そんな男に付け込まれたのは尚人に隙があったからだ。
「そんなに僕は、こじらせているように見える?」
「顔にやりたいって書いて歩いてるほどじゃないけど、まあそれなりに。あと俺の裸見たときの顔、あれはちょっとやばかったよね。ああいうのは、わかるやつにはすぐわかるから」
羞恥心からオブラートに包んだ質問を、未生は正確に理解する。間違った方向に使われてはいるが、賢さと勘の良さは事実なのだろう。
うなじをくすぐる指がくすぐったい。冷たかったのは最初のうちだけで、気づけば触れ合う場所の温度は同じになっている。
「三百六十五日って、僕は言ったのか」
「言ったよ」
いくら酔っていたとはいえ、そんなことを話してしまうなんていまでも信じられない。でもそれはきっと事実なのだろう。
「あと一晩なんだ」
尚人はそう告げた。
「ひとり寝の夜が一年間続いたら、何をしたって許されるんじゃないかって。本気だったわけじゃなくて、ちょっとした妄想みたいなものだったんだけど……でも、そんなこと想像だってするんじゃなかった」
「どうして」
「恋人を裏切るなんてこと考えていたから罰が当たった。こうして、君みたいな奴に脅されて」
不埒な考えがあふれ出て、未生のような男に付け込まれた。いくらただの妄想だといえ栄を裏切るようなことを考えていたからこんなことになった。何もかも自業自得だ。
子どもの頃から不器用だった。勉強はできたけれど、要領が悪いから人一倍机にかじりついた結果にすぎない。大学に入れば学校の授業だけで受験に合格してきたような天才肌の人間が掃いて捨てるほどいて自信を失った。地道な努力で研究者の道を目指し続けたけれど、最後の最後で力尽きたし、内気で平凡な自分には出来すぎた恋人だと思っていた栄との関係もこの有り様だ。不器用な人間にはお似合いの結末かもしれないが、あまりに虚しい。
「嫌味のつもりなのかもしれないけど、そういう自罰的っていうか自虐的っていうか、そそるよ」
真面目な話を茶化すように未生がそう言って、尚人の耳たぶに触れた。
「ふざけるな」
反射的に身を起こすと未生の顔は意外なほど近い位置にあった。整った酷薄な顔で、笑う。
「ふざけてなんかないよ。あ、ちなみに俺は別にセンセーとお上品な彼氏さんの仲をどうこうしたいわけじゃなくて、セックスレスで悩んでるなら解消に手を貸しますよって、ただそれだけ」
「……だから、本気じゃないんだって」
よりによって一番面倒なタイプ相手に口を滑らせた。どう説明すればこの複雑な感情を理解して、妙なちょっかいをあきらめてもらえるのか。必死に探しても糸口は見えない。それどころか、うろたえる尚人を前に未生はますます増長するようだった。
「でも、もう限界なんじゃないの? ちょっと触られただけでこんなにびくついてさ。あんたが決めた期限まであと一日なんだろ? いまはまだ駄目だとして、明日俺がもう一回口説いたら、センセー俺と寝る気になるの?」
その言葉に、さっきまで触れられていた首筋が再び熱を持ったような気がした。触れられたとき一瞬よぎった考えを見透かされたようで気まずい。
「可哀想な人間に欲情するなんて、そんな変態と寝る趣味なんかない」
未生は尚人のことをまるで発情期の動物か何かのように思っているのかもしれないが、違う。そのことを訴えたかった。ひとり寝が寂しいから、人肌が恋しいから触れられない夜を数えているのではない。尚人が欲しいのは栄――恋人との触れ合い、恋人から愛されている、心が通じていると信じられ満たされる行為。
それでも未生は尚人の言葉をあっさり否定する。
「嘘だ、絶対楽しいって。見なくたってわかるけど、どうせあんたの彼氏はあんたとよく似たクソ真面目なエリートで、頭でっかちな保健体育の教科書みたいなつまんないセックスばっかしてたんだろ。だから一年もご無沙汰になるんだよ」
むっとしたのが思わず顔に出たのか、「お、図星」と未生は楽しそうにつぶやく。そして身を乗り出して鼻先が触れそうな距離に近づくと、囁いた。
「真面目なセンセーは知らないだろうけど、しがらみのないセックスって楽しいよ」
簡単に振り払えばいい。否定すればいい。こんな浮ついた若い男の言うことを真に受ける必要なんてない。どうせ、いまどきの若者の性の爛れを具現化したように奔放な生活を送っているのだろう。尚人や栄のような、真面目に真っ当な恋愛をして生きてきた人間とは何もかもが違いすぎる。
なのに――蛇ににらまれた蛙のように、尚人は動けない。
「別に愛のあるセックスを否定するつもりはないけど、あんた、こんなことしたら引かれるかもとか嫌われるかもとか考えすぎちゃうタイプだろ。余計なこと考えないセックスの良さを知らないから、ますます思い詰める」
図星は一点を超えると怒りに変わる。自分のことも栄のこともろくに知らない相手にベッドの中まで見透かされて、尚人は恥ずかしさと苛立たしさに唇を噛んだ。
まるで蜘蛛の糸のように、話せば話すほど未生の術中にはまっていくようだった。説明も説得も、この男の前には意味などない。
「君さ、金が目的なわけでも嫌がらせが目的なわけでもないって言ったよな。僕が哀れっぽいから口説いてみようと思っただけだって」
「まあ、雑に言えばそんな感じかな」
「だったら、断るって言ったらもう二度とこんな真似はやめてくれるんだよな」
尚人にできるのはただ、断ち切ること。だから未生の意地の悪い誘いは断る。今度こそ電話にも出ないし二度と会わない。三百六十五日の期限のことも、忘れる。あのカレンダーは帰ったらすぐに捨ててしまおう。そうすればすぐにいつも通りの生活が戻ってくる。栄との――ぎこちないけれど、ある種の平穏と呼べなくもない生活が――。
悲壮なほどの真剣さで切り出した尚人に、再び未生は指を伸ばした。
「センセーが本気で望むならそうしてもいいよ。でも、脅迫されてるっていうエクスキューズがあった方がいいっていうのなら、いくらでも脅してあげる」
首筋に触れ、たどる指。
「別に相手が俺じゃなくても、あんたは一度その彼氏以外ともやって世界にはいろんな人間がいるって知った方がいい気がするけどね」