肌が水をかき分ける感触が気持ちいい。昨晩は十分な睡眠をとることができたとはいえ体力が落ちているのは明白で、栄が三千メートルを泳ぎ終えるにはいつもより長い時間がかかった。
水泳は物心ついた頃には習いはじめていた。体力をつけるには一番効率的な方法だと信じ込んでいる父の一存だったようだ。栄自身はむしろ小学二年生のときにはじめた剣道の方に夢中になったが、家庭内では専制君主である父からスイミングクラブをやめる許可を得られたのはようやく小学校を卒業する頃だった。
当時は嫌々やっていた水泳だが、剣道に比べると道具も不要で気楽に空き時間にでき、しかも運動効率が高い。仕事に忙殺され道場からめっきり足が遠のいたいまでは、泳ぎは一番の気分転換と体力維持の方策になっている。
プールから上がり、タオルで顔を拭いているとちょうど入ってきた中年の男に声をかけられる。
「あれ、谷口さん久しぶり。最近見ないけど忙しいんじゃないの」
同じジムの会員である男は元々マシンを使ったトレーニングを主にやっていたが、膝を痛めて以来トレッドミルから水中ウォーキングに切り替えた。ときおりプールサイドで出会うと声をかけてくる。
「そうですね。法案が終わったら落ち着くかと思ってたんですけど、なかなか期待通りにはいかないもので」
おしゃべりの男に長く付き合う気がないので栄はタオルを羽織り引き上げようとする素振りを見せた。しかし男は思い出したように続ける。
「そういえば、谷口先生――お父さんは元気にしてる? もうしばらく会ってないから」
「そりゃ、会わないに越したことはないですよ」
栄がそう返すと「そりゃそうだよなあ、弁護士さんに相談なんて悪い話に決まってるからなあ」と男は笑った。彼は栄の父の古くからの顧客だった。学生時代に事務所の手伝いに駆り出されていた栄に見覚えがあった、というのがジムで話しかけてきたきっかけだという。
資格職を家業と呼ぶのは適切ではないが、実質的に谷口家は法律家を家業としてきた。祖父は学説が教科書にも載っている程度に名の知れた法学者、父は弁護士――そんな家の長男だから、家族の誰もが栄は将来弁護士になると信じていた。
司法試験は受けない、官僚を目指したいと言ったとき、当然父は大反対した。怒りは猛烈でいっときは小遣いも学費も打ち切られたほどだが、息子に甘い母親が陰で支援してくれた。最終的には理解というよりむしろあきらめに近い形で栄の進路を認めてくれたが、そこに至る道のりは平坦ではなかった。
いくら日本は判例主義だと言っても、結局弁護士は法律に使われる身だ――だが自分は法律を作る側になりたい――それが表向きの栄の主張だった。息子から自らの仕事を軽んじられた気がした父がかたくなになったのも仕方なかったといまでは思う。だが、栄の心の中にはもうひとつ、決して口には出せない思いがあった。
弁護士になればどうしたって父の事務所や顧客を引き継ぐことになるだろう。ほぼ家業になっている弁護士事務所の将来設計に完全に組み入れられてしまえばきっと、結婚や子を持つことを強く望まれる。物心ついた頃から自身の性向を自覚していた栄にとってそれは、何としても避けなければならないシナリオだった。
どのみち家としての期待に添うことができないのならば、早い段階で期待を捨てさせること、それもできるだけ粉々に。だから栄は公務員試験を目指した。
結局、狙い通りに父は栄への希望を捨て、ありがたいことに妹の逸が不肖の兄の分まで親孝行に励んでくれている。大学在学中に司法試験に合格し、いまは父の経営する弁護士事務所で修行中の身だ。
親の話はされたくない。しかしそれを表に出すほど子どもではない。栄は当たり障りない会話で男とのやりとりを終えるとプールエリアを後にした。
サウナは苦手だから、シャワーだけ浴びて帰り支度を整える。潔癖なところのある栄はサウナや温泉といった、いわゆる裸の付き合いというもの全般が苦手だ。十代の頃には興味本位でハッテン場に足を踏み入れたこともあるが、あまりにむき出しの欲望に圧倒されて何もできないまま終わった。
尚人と出会ったのは大学一年生のときで、一般教養で同じ講義をとっていたのがきっかけだった。真面目そうな顔をして毎回最前列に座ってきれいにノートをとっている姿は、受験を終えた開放感で勉強への真剣味を欠く周囲に呆れていた栄にとって好ましく映った。
梅雨の時期、初めて定位置が空席になっているのが無性に気になった。その翌日、マスクをして咳き込んでいる彼の姿を偶然生協で見かけ、思わず「昨日のノートのコピーいる?」と声をかけた。
専攻も違う、話したこともない相手に突然声をかけられて尚人は驚いていたが、それ以来二人は会話を交わすようになり、メールアドレスと電話番号を交換した。偏差値の劣る文科三類の学生のことを内心見下していた栄は、研究者になりたいという夢に向かって地道に努力をしている尚人の姿に考えを改めた。
同性愛者は同類を嗅ぎ分けると言われるが、尚人との関係ではそういったことはなかった。お互い用心深い性質だったし、恋愛には奥手だったのでどうしても恋人が欲しいと思っていたわけでもない。友人としての距離がじわじわと縮まり「もしかして」を数え切れないほど積み重ね、いよいよ気持ちを伝えるまでには長い時間がかかった。
水泳後特有の心地よい全身疲労の中でぼんやりと昔のことを考えていると、苦い気持ちが浮かんでくる。
冷たい態度をとりすぎた。疲れ果てているところに思ったような言葉をかけてもらえなかったことがショックで悪気のない尚人を突き放した。今朝もまだ心にわだかまりが残っていて、せっかく淹れてくれたコーヒーにも手をつけなかった。優しい尚人はきっと傷ついているだろう。
勝手に期待して勝手に失望して、八つ当たりをしているだけ。わかっているのに最近とみに尚人相手の感情コントロールが難しい。そして正気に戻ってはひどい自己嫌悪に陥る。
謝るのは苦手なので、栄は反省の証を遠回しにしか表現することができない。近くにあるショッピング施設の食料品エリアで高めの弁当をふたつ買って家に帰ることにした。昼どきは過ぎているけれど、栄の態度に落ち込んでいる尚人はきっと食事をしていないだろう。
「ただいま」
どう仲直りを切り出すべきか悩みながらドアを開けるが、意外にも室内は静まり返っていた。リビングにも、念の為尚人の書斎兼寝室も覗いてみるが、人の気配はない。久しぶりに入った尚人の部屋、ブラインドが全開になっているのが気になって足を進める。天気が良いのでこれでは床が焼けてしまう。
ふとベッドのサイドテーブルに置かれているカレンダーが目に入った。年末になると出入りの業者がバラマキに来るような、小さな卓上カレンダーだった。職場でも多くの同僚が簡易なスケジュール管理に使っている。
だが――そのカレンダーは奇妙だった。
仕事の予定が書かれているわけでも、プライベートの予定が書かれているわけでもない。ただ、毎日毎日、過ぎ去った日のマスを塗りつぶすように太めのサインペンでバツ印が記されている。
「なんだ?」
気になって手に取り、一枚めくる。先月のカレンダーは一ヶ月丸ごとバツ印で埋まっている。先々月も、その前も。意味はわからずとも、どことなく不気味なそのカレンダーを見てしまったことに罪の意識を感じて栄は部屋を元どおりにしてリビングへ戻った。
もしかしたら気晴らしに散歩にでも出かけたのかもしれない。尚人が帰ってきたら一緒に昼を食べよう。そう思いダイニングテーブルに弁当を置き、自分はソファに身を横たえた。
いつの間にか眠り込んでいたようで、気がつくと部屋は薄暗かった。起き上がろうとして、体に毛布が掛けてあることに気づいた。尚人の帰宅にも目を覚まさなかったところを見ると、自分は思った以上に疲れていたのかもしれない。
「帰ってたのか」
尚人はダイニングテーブルで書類やノートを広げて、授業の準備をしているようだった。薄暗いのに明かりを消したままでいるのは栄の目を覚まさないよう配慮しているのか。栄はリモコンに手を伸ばして照明をつけた。
「ごめん、お弁当買ってきてくれてたんだね」
テーブルの上のビニール袋に目をやり、尚人は謝った。手をつけた気配はない。
「食わなかったの?」
「夜に一緒に食べればいいと思って。栄こそ、僕のせいで昼食べ損ねたんだろ。お腹空いてるよね、お茶入れて食事にしようか」
言われてみれば栄はプールの前のアミノ酸ゼリー以外は今日何も食べていない。急に猛烈な空腹に襲われてキッチンに吸い寄せられた。ケトルに水を満たしお茶っぱを準備する尚人の横で、弁当を電子レンジに入れる。
仲直りはいつもこんな風だ。一方的に機嫌を損ねた栄がひどい態度をとり、やがて反省して――謝る代わりに、何事もなかったかのように普段の生活に軌道修正しようとする。そして尚人は黙ってそれを受け入れる。
きっと何も感じていないわけではない。尚人だって腹が立ったり悲しかったり、色々な感情が腹のなかを渦巻いているはずだ。しかし栄にそれをあえて聞く勇気はない。
そういえば、尚人の部屋にあるあの奇妙なカレンダーは何を意味するのだろう。頭をよぎるが、やはり栄はそれを聞くことができない。尚人がいないあいだに勝手に部屋に入ったことを知られるのは体裁が悪いと思ってしまったのだ。だから、代わりに当たり障りのないことを聞く。
「買い物に行ってたの?」
「ああ、うん。ちょっと……本屋に行っただけ。立ち読みに没頭しちゃって」
尚人はそう言って軽く微笑んだ。
いつも通りの会話、いつも通りの空気が戻ってきたことに栄はほっと胸を撫でおろす。やがてケトルと電子レンジがほぼ同時に音を鳴らした。