24. 栄

 弁当は高いものを選んだだけあって旨かった。ここ数年は日常の食生活の八割を職場に併設されたコンビニエンスストアに頼っている栄にとって久々に食べるまともな食事は格別で、臓腑に染みわたった。

 ダイニングテーブルに向き合って座り、それぞれ無言で弁当をつつく。食事に夢中になっているふりをしているが本心は互いに何を話して良いのかわからないだけだ――ということに、おそらくは栄も尚人も気づいている。

 ゆっくり二人で食事ができるのをあんなに楽しみにしていたはずなのに、いざ実現すれば座りが悪いようなこそばゆいような空気が流れてしまう。

 学生時代の栄と尚人は呆れるほど長い時間を一緒に過ごしたが、思い出せないくらいくだらない話題で延々と語り合うことができた。就職してしばらくのあいだもそうだった。栄も支障のない範囲で仕事の話をしたし、尚人だってときに悩ましい顔をしながらも研究の進捗やゼミでの出来事について話してくれた。互いの環境はばらばらだけれど、だからこそ自分の知らない世界を恋人を通じて知ることができる、そんな関係を楽しめていたのは心身に余裕があったからだろうか。

 先に食べ終わったのは栄だ。仕事柄食事にとれる時間が短いこともあって、いつの間にか早食いが身についてしまった。もともと食べるのが遅い尚人の弁当はまだ三分の一ほども残っている。

 手持ち無沙汰なので立ち上がってお茶を継ぎ足そうとすると、尚人が目ざとく箸を持つ手を止めた。

「あ、僕がやるよ」

「いいって、俺もう食べ終わったから」

 大学院をやめて以来、尚人はまるで関白な亭主に仕える妻のように家事を率先するようになった。それまでも尚人の負担の方が大きかったとはいえ、学会や論文締め切りの前など身動きの取れない尚人の代わりに栄が洗濯機を回すこともあったし、二人とも多忙なタイミングが重なった挙句、部屋が荒れ果てることも年に数度はあった。

 いまはいつだってマンションの部屋は掃除が行き届いているし、洗濯が間に合わず下着や靴下が足りないと焦るようなこともない。圧倒的に生活は快適なはずなのに物足りなさを感じてしまうのは贅沢な悩みなのだろうか。

 ――尚人は本当に、こんな生活に満足しているんだろうか。

 学歴からすれば不当に思える職に就き、主夫のように家を整え、怒りっぽく気難しい恋人の帰りを待つ。栄の知っている尚人はこんな日々に安穏とするような男だっただろうか。おとなしく物静かに見えても内には強い目的意識や競争心を秘めた人間ではなかったか。ついついそんなことを考えてしまう。

「すごく美味しかった、ありがとう。これけっこう高かったんじゃないの?」

 ようやく弁当を空にした尚人がお茶に口を付けながら口を開く。多分にお世辞を含んでいるのかもしれないが自分の選んだものを褒められて悪い気はしなかった。

「お互い普段の食生活が貧しいんだから、たまにはいいだろ。しょせん弁当なんだし、ちょっと良い焼肉食いに行ったらひとり一万はくだらないよ」

「はは、確かに」

 当たり障りのない会話を交わしていると、尚人のスマートフォンが鳴る。

 栄の目には一瞬、恋人の表情がこわばるのがわかった。尚人の目が泳ぎ、そのまま電話をやりすごそうとする。目の前で電話にも出られないほど気を遣われているのかもしれないと思うとやりきれなくて、テーブルの上に置いてあるスマートフォンを顎でしゃくる。

「出たら? もう食い終わったんだし」

「あ、うん。でも多分急ぎじゃないから……」

「いいよ、俺片付けるから出なよ」

 重ねて促すと、尚人は渋々といった様子で着信音を鳴らし続ける端末に手を伸ばす。画面の表示を見た瞬間、安堵の表情を浮かべたような気がしたけれど、考えすぎなのかもしれない。

 尚人が遠慮しないように、さっと空になった弁当や湯飲みを手にしてキッチンに立った。電話の相手を気にするようなことはない。長い付き合いだから尚人の性格はわかっているのだ。栄が決して浮気などしないのと同様に、尚人も浮気をするようなタイプではないことを確信していた。

「……残念だけどその日は仕事だから難しいんだ。でも、お祝いの品には参加させて欲しいから、後で金額と振込先だけ教えてくれる? ……うん、ぜひ次の機会には。じゃあみんなによろしく」

 聞き耳を立てるつもりはないにも関わらず壁のない空間ではどうしても声は聞こえてしまう。少し声を潜めて尚人は飲み会の誘いを断っているようだ。短いやり取りの後、電話はあっけなく終わった。

 栄は弁当の空き容器をゴミ箱に捨て、急須と湯飲みを食洗機に突っ込んでテーブルのそばへ戻る。

「飲み会の誘い?」

 思わず口にしてしまったのは尚人への罪悪感が消えていないからだ。不機嫌を押し付けて我慢ばかりさせているから尚人は自分に遠慮して飲み会すら断っているのではないか――考えはじめると居ても立っても居られない。

 尚人は気まずそうに視線を落とした。

「うん……でも仕事がある日だから」

 栄はその答えを奇妙に思った。小・中学生ばかり相手の家庭教師である尚人の仕事はせいぜい夜の八時には終わる。社会人の飲み会に間に合わない時間ではないはずだ。

「別に遅れてだって参加できるだろ。行けばいいのに。それにお祝いって言ってたじゃん。なんかいいことあったなら、なおさらだ」

 笑顔を浮かべて理解のある恋人を気取ったつもりだった。夜半にしか帰宅しない栄のために飲み会を断って家で待っている必要などない。尚人は尚人の時間や人間関係を楽しんだっていい――そのくらいの方が栄だって息苦しさから解放されるかもしれない――。

 栄の頭の中のシナリオでは尚人は喜ぶはずだった。久しぶりに友人たちと会って懐かしい話でもして気分転換できるのだから、嬉しくないはずがない。しかし栄の言葉に尚人の表情はますます曇った。そして、叱られた子どもがいたずらを告白するときのように小さな声で言った。

「渚ちゃん――塚本さんが大学の常勤決まったんだ。そのお祝い。でも、僕はもうアカデミアでも何でもないし。行ってもみんなに気を遣わせるだけだから」

「……え?」

 思わず聞き返したのは尚人の言葉が理解できなかったわけではない。ただ――尚人がそんなことを気にしているのが意外だったのだ。

 塚本渚のことは知っている。尚人と同じゼミに所属していた女なので広義では栄とも同窓ということになるが、専攻が異なるため大学での接点はない。だが、栄と尚人が「同居している親しい友人」であるため、いつからか顔見知りになった。

 二度目に会ったときに気安く「谷口」と呼び捨てにされてムッとしたのを覚えている。馴れ馴れしい女と気の強そうな女はいずれも栄の嫌いなタイプだが、尚人は渚のことをゼミで一番優秀な学生なのだと褒めていた。

 ――渚ちゃんの研究テーマは虐めに遭った児童の学校への再統合で、学部時代からずっとボランティアを兼ねて小学校でのフィールドワークを続けてるんだ。何年もずっと、毎週。なかなか真似できないよ。

 確かに尚人の見立ては正しかったのだろう。栄の友人にも研究者を目指して大学に残った者は何人もいるが、いくら国内最難関の法学研究科を出ていたところで、このご時世に終身雇用テニュアのポストにありつくのは簡単ではない。生まれ育ちと一切関係のない地方大学に採用されるのはまだ良い方で、非常勤講師の掛け持ちで糊口をしのぐのが当たり前が、なんと塚本渚は都内の有名私大に正規雇用の准教授として採用されたというのだ。

「へー……あいつ、就職決まったんだ」

 栄は渚という人間についてはよく知らない。尚人が優秀だと褒めるのだから、きっと研究者向きの人間だったのだろう。でも、どうしてそれが尚人ではないのだろう。尚人だって研究者になりたがっていた。努力を積み重ねていたことも知っている。しかし尚人は大学をやめて小学生相手に勉強を教えていて、一方の渚は春から准教授の肩書きを持つ。

 胸の奥がざわついた。自分のことではないのに悔しいと思った。

 そして――きっと尚人は栄以上にこの祝福すべき知らせに悔しさを感じている。だからこんな浮かない顔をして、せっかくのお祝い会の誘いを断るのだ。

「……ナオ、悔しいんだ?」

 思わず言葉がこぼれ落ちた。

「やだな、別にそういうんじゃないよ。ただ、僕が気にしなくても周囲が……」

 突然の辛辣な言葉にも必死の笑顔を浮かべる恋人に、やりきれない気持ちが湧き上がる。ずっとずっと栄の心の奥底に溜まっていたもやもやとしたものが一気に浮上する。

「いや、会いたくないって悔しいからだろ。博論あきらめた自分に引け目感じてるからアカデミアで頑張り続けてる人たちと顔合わせたくないんだろ」

「栄……?」

 尚人は困ったような顔で栄を見つめた。これ以上何も言うな、そう訴えるような目をしていた。しかし、気付いてしまった以上栄は黙っていることができない。

「なあナオ、なんでおまえ院やめたの?」

「それは自分には適性がないって思い知ったから……研究もうまくこなせないし博論も書けなくて、これ以上無理だって納得して退学したんだ。前にもそう言っただろう」

 これまで何度も聞いた理由を繰り返す尚人だが、栄はその言葉を信じられなくなりつつある。いや、最初から信じたくなかった。自分の恋人が、自分が選んだ人間が、こんなに簡単に目標をあきらめてつまらない人生に流れてしまうなんて。

 悔しがるならやめるべきじゃなかった。歯を食いしばってでも頑張るべきだった。そうすればいまごろ准教授の肩書きを手に入れていたのは渚ではなく尚人だったかもしれない。それを安易にあきらめて、なのに栄には頑張れなんて――。

「だったらどうして、そんな悔しそうな顔してるんだよ。前々から思ってたけど、院をやめてからのおまえって……」

「栄!」

 ほとんど金切り声に近い叫びに栄の言葉はさえぎられた。出会って十年、付き合って八年、尚人がこんなに大きな声を上げるのを、栄は聞いたことがない。呆気にとられて見つめる恋人の顔は蒼白だった。

「ごめん、そういうの聞きたくない……」

 一転して消えそうなか細い声を尚人は振り絞る。

 栄はそこでようやく自分が尚人にとってのタブーを口にしてしまったことに気付いた。