25. 尚人

 眠れないまま外が明るくなった。やがて隣の部屋の扉が開く音がして聞きなれた栄の足音がバスルームへと向かう。少し億劫そうな、ゆっくりとした足音。いつも通りの月曜日の朝だ。

 尚人は起き出すことをせず壁越しに聞こえてくる生活音にぼんやりと耳をそばだてていた。いまは栄の顔を見たくない。

 大学院をやめてからのおまえは――。

 感情的になってさえぎってしまったあの言葉の先に、栄は何を言おうとしていたのだろうか。聞きたくなかったし、聞かなくてよかったと考えてしまうこと自体、それが一番言われたくない言葉だったと確信しているようなものだ。

 別に、いまになって初めて気づいたわけではない。尚人が退学を告げたときだって、アルバイト先だった家庭教師事務所に正式に就職したと報告したときだって、いつだって栄は失望をあからさまにした。思い悩んだ挙句に自分の能力と適性を見限ることは、栄のような有能な人間の目にはただの逃げとしか映らないのだろう。

 栄が難しい人間であることは出会った頃からわかっていた。もともと勉学にも運動にも優れているだけでなく意志の強い努力家である栄のことは心底尊敬している。一方で自分に厳しい人間であるからこそ、どこまで自覚的であるのかはわからないが、栄は能力に劣る者や勤勉でない者を見下す態度を見せることがある。友達づきあいをはじめて間もない頃の尚人はそんな栄にしばしば戸惑った。

 自分は栄に対等に付き合うべき人間として見なされているのだろうか、それとも家柄、学力、運動能力、容姿に社交能力まで万事において彼に劣ることで内心では見下されているのだろうか。漠然とした不安は恋人になってからの栄が与えてくれた底なしの優しさでいつしか消え去ったはずだった。だが、忘れたはずの不安は大学院をやめて以来、そしてセックスレスが長引くにつれて再び首をもたげてきた。

 単なる失望だけではない。栄の隣に立っているのが「未来の研究者」ではなく「落伍者のしがない家庭教師」に変わったことは、彼のプライドすら傷つけているのではないだろうか。

 玄関のドアの閉まる音がする。栄が家を出て行ったのを確認してから尚人はようやく体を起こした。普段よりも出勤時間が早いのは、金曜晩から続く質問主意書とやらの対応にまだまだ追われているのかもしれない。

 サイドテーブルには、バツ印で埋め尽くされたカレンダー。

 そういえば昨日はなけなしの勇気を振り絞るつもりだったのだと思い出す。未生にはひどいことばかり言われた。恋人に相手にされず飢えているのが顔に出ているとか、退屈な行為しかできないからセックスレスになるのだとか。どれも図星ではあったが、尚人とて言われっぱなしで悔しくないわけはない。その場でうまく言い返せなかった分、行為で見返してやりたいと思いながら家に戻ったのだ。これまでに口にしたことがないくらい直接的な言葉で栄を誘おうと――そんな決意を胸に秘めて。

 カレンダーを手に取る。寂しい夜は数え切れないほど積み重なり、いつの間にか呪いのように尚人をがんじがらめにしていた。

「あーあ……」

 ため息をひとつ。結局何もできないまま、呪いは成就したのだ。運命へのせめてもの抵抗として、最後のバツ印はつけないまま尚人はカレンダーをゴミ箱に放り込んだ。

 動き出す気力がなくてシャワーすら浴びられないまま時計は十時を回ってしまった。月曜日の午前中にはその週の授業計画について事務所で冨樫と打ち合わせすることになっているが、とても間に合いそうにない。尚人は欠席連絡のために事務所へ電話をかけることにした。

 声に覇気がないのがわかったのか、通話を終えようとした尚人を「ちょっと待ってください」と女性事務員が引き留める。短い保留音の後で冨樫の声が聞こえてきた。

「おい相良、具合悪いのか? 大丈夫か?」

 事務員が大げさに伝えたでもしたのか、その声は本気で心配しているようだった。

「月曜は授業の件数も少ないし、休んでもいいぞ。生徒の家への休講連絡はこっちからやっとくから。病気うつされても困るしな」

「いえ、ちょっと寝坊しちゃっただけなんで授業は大丈夫です。体調は大丈夫です、本当にすみません」

 このご時世、インフルエンザを含む伝染性の病気が疑われる場合無理して授業に出向くことは厳禁だ。だがいまの自分がそういった状態にないことは他の誰より尚人自身がよくわかっている。

 ただの寝坊と聞いて冨樫は拍子抜けしたようだった。

「寝坊だったらいいけど。……あ、そういえば連絡しようと思って忘れてた、毎週火曜の笠井さん。笠井優馬くん」

「えっ……?」

 思わず優馬の名前に反応してしまいそうになった自分をどうにか抑える。優馬の兄である未生が尚人に個人的な連絡を取ってきていることを冨樫は知らない。それに、昨日の別れ際にきっぱりと未生の誘いは断った上で二度と個人的な連絡はやめてくれるよう話して、未生もとりあえずは首を縦に振った。経験上とても信用がおけるとは思わないが、いまわざわざ事を荒立てる必要もないだろう。

「いや、笠井さんところ先週ドタキャンだったじゃん。で、連絡あって、可能なら今日振り替えの授業できないかって。月、火続きになっちゃうけど、あの子、他にも習い事やってて空いてる日が少ないらしいんだよね」

「今日、ですか」

 即答しない尚人に、冨樫はあわてたようにフォローする。

「あ、もちろん都合悪いなら他の日程で調整するから。ただ相良も今日ちょうど夕方のコマ入ってないし、体調さえ問題ないならいいかなって思っただけだから」

「はあ」

 確かに、昨日の今日で笠井家に行くことには抵抗がある。でも普段の未生は帰宅も遅いようだし、定例の授業日ではない月曜に尚人が家を訪れるとは思っていないだろう。いくらか迷ってから尚人は振り替え授業を了承した。家にいても栄とのことを考えてしまいそうで、少しでも気を紛らわせる何かがあるならば、その方がずっとましだ。

「先生、先週はごめんね」

 出迎えた真希絵にもさんざん謝られたにも関わらず、二人きりになると優馬までも改めて謝罪の言葉を口にした。子どもなりに約束を反故にしてしまったことの罪悪感があるのだろう。まったく、あの兄とは正反対の良くできた弟だ。

 小学三年生から低姿勢で謝られると、尚人の方が恐縮してしまう。しかも勝手なわがままで休んだわけではなく、確かあの日の優馬は体育の授業で怪我をしたのだと言っていた。

「謝ることないよ。それより怪我は大丈夫なの?」

「うん、ちょっとたんこぶができただけ。跳び箱で踏切を失敗してぶつかっちゃったんだ。僕、あんまり運動得意じゃなくて」

 優馬は柔らかい前髪をかき上げるとぶつかった場所を見せてきた。小さな額には痛々しい青あざがうっすら残っているものの、腫れは引いていた。

「痛かった?」

「ちょっとね。でも、未生くんには笑われちゃった。未生くんは僕と違って運動得意だから、跳び箱にぶつかるなんてありえないんだって」

「笑うなんて、ひどいな」

 その言葉には意図せず心がこもってしまった。尚人に対する態度がひどいのはともかく、小さな弟にまで意地の悪いことを言っているのだとすれば未生は想像以上にひどい奴だ。しかし優馬の口調は明るく、兄に笑われたことを面白がってすらいるようだった。

 そこでふと聞きたくなる。

「優馬くん、君のお兄さんって……年はいくつなの?」

「えーっと、この前二十歳になったって言ってた。大学生だよ」

「……どんな人?」

「えっと、僕にはすごく優しい」

 僕には、と限定した物言いをするところに優馬の素直さが表れている。真希絵は未生に対して遠慮や警戒をしているように見える。あの暴君が優しくするのは片親違いの弟だけ、そんな気がした。

 七時半に授業を終えて笠井家を出た。今日の予定は終わりであとは家に帰るだけだが、栄と険悪な空気になったままのマンションに帰るのだと思えば気が重い。

 きっと栄の帰りは遅いだろうからさっさと寝てしまえば顔を合わせずにすむ。でも、もし万が一早く帰ってきたら、どんな顔をすればいい。そんなことを考えているうちにどんどん尚人の足取りは重くなった。

 駅に着くと入口あたりに人だかりができている。どうやら車両故障で電車が止まっているらしく、他路線やバスへの振り替え輸送の案内がアナウンスされている。

 電車が止まっているならばバスかタクシーで渋谷まで出なければ尚人は家に帰れない。しかしロータリーに目をやればバス停にもタクシー乗り場にも長蛇の列ができていた。少し待った方が良さそうだと判断した尚人はコーヒーショップで時間をつぶすことにした。