面倒なので夕食まで済ませてしまおうと思いサンドウィッチとコーヒーを注文した。食欲はないが、何も入れないのも体には良くない。
カウンターで数分待って注文品の乗ったトレイを受け取った。運転再開までの暇つぶしの客も多いのか店内の座席は八割程度が埋まっていたが、運良く空いていた窓側のカウンター隅を陣取る。申し訳程度のレタスと塩気のききすぎたパストラミビーフの挟まれたサンドウィッチは温めも不十分でお世辞にも美味とは言えない。コーヒーで無理やり喉の奥へ流し込んだ。
こんなことになるのならば読みさしの本でも持って来れば良かったと思いながら手持ち無沙汰なのでポケットからスマートフォンを取り出す。新着メールは二件でいずれも広告メール、すぐさま削除する。ブラウザでニュースサイトを開き新着順に三ページほど目を通すが興味を引かれる内容のものはなかった。
目的もなく画面を見つめているうちに尚人はふと隠しフォルダに紛れさせてあるアプリのことを思い出した。男同士の後腐れない関係を繋ぐためのマッチングアプリ。そういえば、一年が過ぎればこのアプリに頼ろうなんて考えていたんだった。そっとアイコンをタップすると、数え切れないほどのプロフィールが画面に流れ出す。
未生は、尚人には面白みがないのだと言っていた。相手にどう見られるかを気にしすぎてつまらないセックスしかできないのだと。性生活について指摘した未生と、人間性について指摘した栄。どちらも尚人のことを退屈な人間だと思っていることに変わりはない。
――しがらみのないセックスって楽しいよ。
未生の声が頭の中に蘇った。
正常なときの尚人だったら真に受けることなどない戯言だ。たとえそれでいっときの快楽が得られるにしても、栄を裏切ることにより失うものはもっと大きい。それに尚人が欲しがっているのは肉体の快楽ではなく恋人との愛の行為なのだ。でもいまは――もしかしたら、もうずいぶん前から――尚人は正常ではない。
どうしてこんなにも未生の言葉が気になるのだろう。大学院をやめて以来の尚人はつまらない人間だと――きっと栄はそう言いたかったのだと思う。では、どうすればつまらない人間でなくなれるのか、自分の価値を見つけることができるのか。見えない糸口を探すうちに混乱は深まり奇妙な思考にはまりつつある自覚はあったかもしれないし、なかったかもしれない。
アプリの画面に指をすべらせる。マッチング対象の絞り込みができるようだが、栄しか知らず栄以外を求めたこともない尚人にはどんな条件を入れれば良いのかさっぱりわからない。戯れに希望日時に今日これからの時間を入れてみる。こんな直前にマッチするはずなどないと思っていたのに、意外なほどの人数が表示された。
鼓動が激しくなる。三百六十五日は過ぎた。一晩だけ、一晩だけで長いあいだ悩まされてきた体の渇きが癒されるなら、もしかしてこれまでと違う自分になれるなら。尚人は画面を適当にスクロールして、目についた相手のプロフィールを表示しようとした。
そのとき、すっと背後から伸びてきた腕が尚人のスマートフォンを奪った。
「やめなよ、こういうの」
驚いて振り返る。
「……君っ!」
それは未生だった。昨日と同じダウンジャケットに、一応は学生らしくバックパックを背負っている。帰宅途中なのかもしれない。
あまりの驚きに言葉を失いただぱくぱくと口を開閉する尚人に呆れたようなため息を吐き、未生は隣のスツールに腰掛けた。
「そんな幽霊でも見たような顔するなよ。家で待ちぶせてたわけじゃないんだから約束は守ってるだろ。ていうか今日月曜だっけ? あれ? なんであんたここにいんの?」
それはこっちの台詞だ、と言いたいところだが尚人は不承不承質問に答えた。
「……優馬くんのところに行ってきたんだよ。先週お休みだった分の振り替えで」
「ああ、そういうことか」
未生は納得したようにうなずいた。スマートフォンは握ったまま返してはくれない。体裁の悪い場面を抑えられたせいか尚人も無理やり取り返すような気にはなれなかった。
「君こそなんで、こんなところに」
「電車止まってるからバスでここまで帰ってきたんだよ。で、降りたら目の前にあんたの顔が見えたから」
顎をしゃくってガラス窓の外を示す。尚人の座っている場所は確かにバス停の真ん前だった。つまり、座席選びを完全に誤ったというわけだ。
未生は手にしたままの尚人のスマートフォンをまじまじと眺める。画面にはまだマッチングアプリが表示されたままで、気まずさに尚人はうつむく。
「センセー、こんなアプリ使ってんの?」
「興味本位で見てただけ。使ったことはないよ」
言い訳は虚しい。昨日あれだけ恋人以外との関係は求めていないと言っておきながら、こんなものを真剣に眺めているところを見られてしまったのだ。案の定、未生はさらに突っ込んでくる。
「例の期限が過ぎたら使うかもって妄想しながら見てたの?」
「……うん、まあね」
正直に答えると、不思議と心が落ち着いてきた。それに、未生にはいい加減何もかもバレてしまっているのだから、取り繕ったって限度がある。あきらめは尚人の気持ちを楽にする。
「昨日君に言われたことは、正直図星ばかりだった。ろくに反論もできなくて悔しかったから家に帰ったら恋人を誘うつもりだった。そうすれば君が間違っているって証明できるんだと思って。でも誘うどころかちょっとしたことでけんかみたいになっちゃって――」
「で、めでたくセックスレス連続一年を記録ってわけ。だからこんなものを真剣に見てるんだな」
尚人の言葉を途中でさえぎった未生は、手の中にあるスマートフォンを何やら操作しはじめた。
「おい、何勝手なことやってるんだよ」
あわてて手を伸ばし取り返すと、さっきまで見ていたアプリは跡形もなく削除されていた。呆気にとられる尚人に向かって未生は言う。
「言ったろ、センセーみたいなとろい奴はすぐ騙されるって。こういうとこで探すのは危険すぎる」
「そういうこと、君には言われたくない」
「はあ?」
アプリに未練があるわけではないし、必要ならば再インストールすれば良いだけだ。尚人が不快感を露わにしたのはもっぱら未生の勝手な態度に対してだったが、未生は未生であからさまに不機嫌な顔を見せる。
「あのさあ、俺はあんたに十万渡されても突き返したくらい誠実な人間だぜ。しかも顔も身元もわかってるだろ。あんなアプリで人を釣るような奴と一緒にしないで欲しいよ」
マッチングアプリを使う人間全員が詐欺であると決めつけるような言い方はさすがに失礼なのではないか。もしかしたら差し迫った状況で投稿している人間だっているかもしれないのに――例えばいまの尚人みたいに。そんなことを考えるが口に出すことはできなかった。
確かに未生の言っていることは間違ってはいない。未生は一方的に尚人の性癖や住所やバックグラウンドを調べてきたが、尚人だって未生については様々なことを知っている。もしこの若者から本当にひどい目にあわされたとして、その気になれば尚人の側から未生の生活を壊すことだってできるのかもしれない。もちろん未生がそれを恐れるほど彼のいまの生活に価値を感じているのかは不明なのだが。
「君は口も態度も悪いのに、意外と正論を吐くよね」
口を突いた言葉は思いのほか子どもじみて響いた。未生は少しだけ驚いた表情を浮かべてから、負けじと唇を尖らせる。
「センセーこそ、虫も殺さないような顔してけっこう口悪いよな。彼氏の前でどんだけ猫被ってるんだよ」
尚人に負けず劣らず子どもっぽい口ぶりに、何だか可笑しくなってくる。
「それは、君が僕に嫌がらせばかりするからだろう」
でも確かに――こんな風に不平不満を正直に話せる相手はほとんどいないのかもしれない。
「君さ、本気なの?」
言葉は自然に零れ出た。
「本気って?」
「昨日言ってたこと」
「いろいろ言ったけど」
未生は尚人の言いたいことをわかっているくせに気づかないふりをする。駆け引きというよりはむしろ決定的なことを尚人に言わせたいのだろう。知っていて、あえてその思惑に乗る。
「僕を、口説いてるって言ってた」
わざとらしいほど子どもっぽい表情を浮かべていた未生の顔からすっと笑みが消える。
「それって、乗ってくる気になったってこと?」
「だって、決めていた三百六十五日は超えちゃったし、君はアプリ消しちゃうし」
「うん、……ああ」
その反応は尚人にとっては意外なものだった。これだけしつこく付きまとってくる未生だから、尚人がちょっとその気を見せれば、弱った獲物を見つけた肉食獣さながらにがっついてくるのだと思っていた。だがそんなのはただの自惚れだったのかもしれない。昨日の態度が嘘のように未生の歯切れは悪い。
こんな風にあしらわれると居たたまれない。急に自分の言動が恥ずかしくなり尚人は上着を手に立ち上がろうとした。
「嘘、冗談。気にしないで。もう帰るよ、だいぶバス停の列も短くなったみたいだし」
だが、未生は尚人の手首をつかんで引き止めた。
「待てよ、そういうんじゃなくて」
そういうんじゃなくて、なんだというのだろう。尚人は怪訝な思いでとりあえず座り直した。未生は尚人から手を離さないまま、続ける。
「いや、本気は本気なんだけど、ただ、あんた思ってたよりこじらせてるみたいだから、やるなら一つだけ約束してもらわなきゃ」
「約束?」
ああ、と未生はうなずいた。
「俺、重いのだめだから。本気になられるとか絶対無理なんで」
正直拍子抜けした。尚人が恋人一筋なのは昨日散々伝えたつもりだ。体の渇きを癒すにしたって一夜限りのつもりだということも告げた。しかも未生はさんざん尚人を脅して気に触るとことばかり言ってくる嫌なやつだ。なのにこの若い男は――もしかしたら若さゆえなのかもしれないが、何を思い上がっているのだろう。
「……そんなことあるはずないだろ」
真顔で尚人がそうつぶやくと未生の頰がさっと赤らむ。この不遜な男にも人並みに羞恥心があるのだと思うと不思議な気持ちになった。
「昨日も言ったけど、僕は恋人のこと愛してるから」
「なのに、どうして?」
その理由は昨日嫌というほど聞かされた。しかも他でもない未生の口から。なのにどうしていまそれを訊ねるのだろう。ただ確認したいだけなのだろうか。尚人は目を伏せて答える。
「自分が本当に退屈な人間なのか、確かめたいんだ」
そして空いている方の手で未生の手をぎゅっと握る。温かい、尚人の手よりもずっと温かい体。未生は少しだけ悩むような素振りを見せてから、小さく息を吐いて尚人の手を握り返してきた。
「いいよ、じゃあ場所変えよっか」