27. 尚人

 自分から誘うようなことを口にしたものの現実感は伴わない。だが、先に立ち上がった未生はさっと尚人の目の前に置いてあったトレイを取り上げると返却口へ持っていってしまった。尚人には、もたもたとコートを羽織りながらその背中を追うことしかできない。

 場所を変えると言われてもとっさにイメージは湧かなかった。一体どこへ向かうつもりなのだろう。少し考えて、昨日未生が冗談めかしてラブホテルという単語を口にしたことを思い出し心がざわめいた。

 どの程度珍しいのかわからないが、尚人はこの年齢までラブホテルなるものに入ったことがない。栄と暮らすようになってからは言わずもがな、学生時代も地方出身の尚人は大学の近くにアパートを借りていたから、わざわざ二人きりになるために別の場所を探すような必要はなかったのだ。

 カフェを出ると未生は勝手知ったる様子で歩き出す。彼の自宅の近所なので土地勘があるのは当たり前だが、セックスをするための場所を探すのに躊躇なく動ける人間をどう受け止めれば良いのだろう。

「あの、どこへ?」

「あっちでタクシー拾おう。この辺りじゃ場所もないし」

 駅前の乗り場を避けて、大通りを少し歩いたところで未生は流しのタクシーを拾った。気遣いなのか逃げられては困ると思っているのか、先に尚人を押し込んでから自分も後部座席に乗り込むと運転手に行き先を告げた。

「……信号の少し先にコンビニがあるんで、そこで」

 当り障りのない場所を指定したのは、さすがの未生も目指す場所そのものに車をつけることには抵抗があるからなのかもしれない。

 いまどきの若者を絵に描いたような未生とパッとしない自分との組み合わせはどう見てもミスマッチだが、男二人でタクシーに乗ること自体は珍しくもない。なのに尚人は見知らぬ運転手に何もかもを見透かされているような気がして、落ち着きなく窓の外を眺めていた。

 ふと時計に目を落とすと、もう八時を過ぎている。帰宅は何時になるだろうか。そんな疑問が頭をもたげる。万が一、栄が先に帰って家に尚人の姿がないことに気づいたら、心配するだろうか。まさか不貞を疑うようなことがあるだろうか。

 帰りは何時くらいになるかな――喉元まで出かかった質問は飲み込む。

 栄と尚人のセックスは行為だけならば三十分もあれば終わるもので、淡白だという自覚はあった。セックスの所要時間をもし未生に聞こうものなら、きっと笑われるか呆れられるかだ。

タクシーは十分ほど走って緑色の灯りを放つコンビニエンスストアの前で停まった。尚人は財布を出そうとするが、昨日はカフェの飲食代金もカラオケボックスの支払いも押し付けてきたのと同一人物とは思えない素早さで、未生は運転手に紙幣を渡すと、釣銭を断った。

「あ、あのタクシー代」

「ああ、後で全部まとめて割り勘しようぜ」

 後で、というのはおそらくホテル代も含めてということなのだろう。尚人はうなずいて財布をひとまずポケットにしまった。

 少し歩いてたどり着いた目的の建物は、入り口に休憩、宿泊それぞれの金額が記された独特の看板さえなければビジネスホテルと変わらない外観だった。あまり意識したことがなかったけれど、東京のラブホテルとはこういうものなのだろうか。

「何ぽかんとしてるの?」

 未生が聞いた。尚人は足を止めたまま答える。

「いや、僕の田舎ではラブホテルってもっとけばけばしい建物ばかりだった気がして」

 川沿いに並んで建つ奇妙な建物が性的な目的に使われるものだと認識したのはいつだっただろうか。壁がピンク色だったり、安っぽい城のような外観をしていたり、駐車場の入り口がすだれで覆われているのも不思議だった。

「へえ、センセー地方出身なんだ」

「うん。九州」

 てっきり田舎者だとからかわれるだろうと思っていたのに、未生は笑いながら尚人に同調する。

「だよな。田舎だとラブホって大抵が川沿いとか高速沿いに建ってて、名前も妙にメルヘンだったりしてさ」

「そうそう、子どもの頃は何するところか知らないから、親にあれ何って聞いて気まずくなっちゃったりしてさ……」

 そこまで口にして、なぜこの近くに家のある未生がまるで見てきたかのように田舎の話をするのか不思議に思った。でも、もしかしたら祖父母の家が地方にあるのかもしれない。休暇に遊びに行ったときに目にした景色を思い出しているのかもしれないと自分を納得させる。これまで事あるごとに未生が自分の私生活を詮索することに抗議してきた手前もあって、彼の背景に踏み込むことには気がとがめた。

 入り口の前に立ったままの尚人と未生を横目で気にしながら若いカップルがホテルへ入っていく。愛情の有無はそれぞれだとしても、体を重ねるためだけに人はここを訪れるのだろう。当たり前のことなのに、いざ自分もそのひとりになるのだと思うと少しだけ怖くなる。尻込みしていると思われたのか、未生が腕を伸ばしてくる。そして尚人は腕を引かれるままにホテルのロビーへ足を進めた。

 仕組みを知らない尚人がただ未生の後をついていくという意味では昨日のカラオケボックスと同じだ。浅い耳学問できらびやかな内装や円形の回転するベッドがあると聞いていたホテルの部屋は、外装同様意外なほど普通だった。あえてそれらしい点を挙げるならば室内にいわゆる大人のおもちゃの自動販売機が置いてある点、そして興味にかられてまず覗いてみたバスルームが意外なほど広かったことくらいだろうか。

 シーツは真っ白くぴんと張っていてそれなりに清潔に見えるが部屋の中にはどことなく隠微な空気が漂っている。数え切れないほどの男女が性行為をしてきたベッドに横たわるなんて、潔癖気味な栄だったら断固拒否するだろう。

「センセー、先に風呂入る? 自分で準備できるんだよな」

 一足早くダウンジャケットを脱いだ未生はくつろいだ様子でベッドに腰掛けるとリモコンを操作してテレビの電源を入れる。ポルノのチャンネルを飛ばし、洋画が映ったところで手を止めた。

「あのさ、そのセンセーっていうのやめてくれないかな」

 おずおずとコートを脱ぎながら尚人は言った。

 本当はずっとその呼び名のことが気になっていた。先生、なんて呼ばれるとどうしたって自分が本来は未生の弟の家庭教師であるということを思い出す。それは優馬や、尚人を派遣している冨樫に対してもひどい裏切り行為だ。

未生は顔を上げて、思いのほか真剣な表情で尚人を見つめる。

「じゃあ、なんて呼べばいいの? 彼氏はあんたのこと何て呼んでるの?」

「……ナオ」

「じゃあ俺も、そう呼ぼうかな」

 言われた瞬間ぞっと背筋に寒気が走る。だって、もし未生が栄と同じように尚人のことを呼んだならば、「ナオ」と囁きながら抱きしめてきたならば、きっとこれから先、栄に呼ばれるたびに尚人はこの男のことや自身の不貞のことを思い出してしまう。それは今日彼に身を委ねる目的とは違っている。

「駄目だ。栄……恋人以外からそんな風に呼ばれたくない」

 あっけない拒絶に、しかし未生はさして機嫌を損ねた風でもない。

「じゃあ尚人。それでいいだろ」

「うん……」

 年齢差を考えると「さん」付けで呼ばれてもおかしくない気がするが、未生はそんなキャラクターではない。完全にしっくりきたわけではないが尚人は未生の申し出を受け入れた。

 だが話はそこでは終わらず、今度は未生が訊ねる。

「だったら俺も気になってたんだよね。『君』って、別に嫌ってわけじゃないんだけど、ちょっと色気がないよな」

「えっ?」

 言われてみれば尚人はこれまで未生のことを二人称の「君」以外で呼んだことがなかった。親しいわけでもない相手にそれ以外の呼び方は思い浮かばなかった。でも、未生は彼が尚人を名前で呼ぶのと同様の見返りを求めているのだ。

「……笠井くん」

「は?」

 あからさまに不機嫌な声。尚人は眉間にしわを寄せて他の呼び名を考える。そして、いくらかためらいながら言う。

「未生……くん」

 苗字で呼ぶことが受け入れられないならば、名前で呼ぶしかない。だが呼び捨てをするほどの親しさもない。尚人にとってはぎりぎりの妥協策だった。

「うーん。なんか気持ち悪いけど、ま、いいか」

 これは考えあぐねた挙句の回答である――という気持ちが伝わったのか、未生は何度か首を傾げつつも最終的には尚人の案を受け入れた。そして改めて言う。

「じゃあ尚人。自分で準備できる? それとも手伝いが必要?」

 手伝い――の意味に思い当たった尚人は赤面し、首を左右に振って断った。

「だ、大丈夫。自分でできるから」

 相手はひとりだけ、一年間もセックスレスが続いているとはいえ、尚人だってそれなりに経験はある。ここで未生の手を借りる恥ずかしさよりは自分で準備する方が百万倍もましに決まっていた。