未生を部屋に残しひとりでバスルームに入ったものの、シャワーで済ますべきか浴槽に湯を張るべきか尚人は迷った。
ここに来たことを後悔してはいないが、完全に吹っ切れているとまでは言えない。湯船に浸かって心を落ち着けたい反面、下手に時間をかけると迷いが大きくなってしまいそうな気もした。
「……何やってんの?」
突然背後から未生の声がした。服も脱がないまま途方にくれた顔で風呂場に立ちすくんでいる尚人をまじまじと見つめて、怪訝そうな顔をする。
「セン……尚人って、こういうとこ来るの初めて? 使い方教えてやろうか、つっても普通の風呂と変わんないけど」
「初めてっていうか……。君こそ、やたら慣れてるみたいだけど」
ラブホテルに慣れているくらいで偉そうな態度をされるのは納得がいかない。
「だって俺、実家住まいだもん。専業主婦とガキがいる家でやるとか無理でしょ。……あ、外寒かったからお湯張っとこうか」
尚人の皮肉を軽く受け流し、未生はてきぱきと浴槽の準備をはじめた。このホテル自体が未生の「定宿」なのかもしれない。もしかしたらこの部屋の――あのベッドで他の誰かと寝たことすらあるのだろうか――そんなことが頭をよぎり少しだけ気分が悪くなった。
「もしかして、一緒に入りたくて待ってた?」
「ひとりでいいって言っただろ」
嫌な想像の最中に茶化すようなことを言われてむっとした尚人はそっけない返事で未生をバスルームから追い出しにかかる。
「わかってるって、冗談だよ。俺テレビ観てるからごゆっくりどうぞ」
じゃあね、と手を振って未生が姿を消すと、尚人はあわてて衣服を脱ぎはじめた。
広い湯船は気持ち良くて混乱した心はずいぶん落ち着いた。だが体が温まりいざ同性と繋がるための準備をはじめると一年のブランクを思い知り再び尚人は不安に襲われる。自慰行為で後ろを使う習慣のない尚人にとってはそこに触れることさえ久しぶりで、閉じた場所は予想以上にかたくなだった。
できる限り丁寧にやったつもりだが指は二本で精一杯だった。いまでは記憶も薄れつつあるが栄と寝るときは事前に指が三本入るところまでほぐすようにしていた。少しでも痛がる素振りを見せると優しい恋人が遠慮してしまうことを知っていたからだ。
未生は――きっと遠慮はしないだろう。やがて自分を襲うであろう身を裂くような痛みを想像するとまず恐怖が浮かび、しかしその苦痛を期待する自分も存在する。だって尚人は栄を裏切って他の男と寝ようとしているのだから。これまでの自分を変えるような何かや、長い渇きを癒す快楽を求めるのと同時に、半ば無意識に尚人は罰をも求めていた。
しばしの格闘の後に三本目の指を入れることは断念して体を拭き、服を着るべきか少し迷ってからバスローブに袖を通した。
「お先にいただきました」
どんな顔をすれば良いのかわからず、尚人は未生へ軽く頭を下げる。
「何かしこまってるんだよ」
尚人がふざけていると思ったのか、振り向いた未生は面白そうに笑うと立ち上がり、その場でパーカーを脱ぎ捨てようとする。尚人はあわててそれを制止した。
「お湯張り替えてるから、もうちょっと待って」
普段、不経済であることは承知の上で風呂はひとり入るごとに湯を張り直す。広くはないが世帯用マンションなので追い焚き機能は付いているのだが、人と湯を共有することを好まない栄に合わせているのだ。
「いいよ、俺シャワー派だから」
尚人の言葉を無視してそう言うと、未生はグレーのパーカーを投げてよこす。なぜそんなに焦るのか、思い当たる理由など一つしかない。
「別に……いまさら、逃げたりしないから」
「わざわざそういうこと言う方が怪しく聞こえる」
「……そんなっ」
逃げようなんて思っていなかったのに、指摘されると動揺してしまう。完全な失言だった。
ダウンジャケットを着込んでいた未生はTシャツ一枚になりその下の体のラインがうっすら浮かぶ。反論を探しているはずなのに、未生の姿にこのあいだ見た裸の上半身を重ねてしまい尚人はますます居たたまれない気持ちになった。妙な表情を浮かべて黙り込んだ尚人に、未生が吹き出す。
「そんな顔するなよ、冗談だってば。本当にあんたっていじめ甲斐あるよな」
「年上をそんな風にからかうもんじゃ……」
「はいはい、じゃあいい子で待ってろ」
あしらわれた体裁の悪さはあるが、重くなりかけた空気が一掃されて尚人はほっとした。
少し間を置いてバスルームからシャワーの水音が聞こはじめる。テレビはつけっぱなしで、大きな画面の中ではハリウッド俳優が派手なアクションを繰り広げている。興味を引かれず隣にある時計に視線を移すと時刻は八時を回ったところ。。未生はホテルに入るとき迷いなく「休憩」でなく「宿泊」を選んだ。このままいけば今夜は家には帰れないのかもしれない。
尚人はハンガーに掛けたコートのポケットからスマートフォンを取り出した。通話履歴から栄の電話番号を探し、いくらか迷った後でタップする。
栄はきっと出ない。でもほんのわずかな期待はあった。昨日のことを気にしているなら、栄が電話に出て――もちろん尚人がいまどこで何をしようとしているか気づくはずはないのだが――引き止めるようなことを言ってくれれば、いまだったらまだ引き返すことはできる。しかし十回以上呼び出し音を鳴らしても、栄が電話を取ることはなかった。
「彼氏に電話?」
いつの間にかシャワーを終えた未生がバスルームの入り口に立っていた。バスローブの前をしっかり合わせている尚人とは違い、バスタオルを腰に巻いただけの姿に悔しいけれど胸が騒ぐ。電話の現場を押さえられたことへの気まずさがないわけでもないが、尚人は正直に答えることにした。
「一応、帰りが遅くなるって伝えた方がいいのかなと思って。でも、仕事中は電話出ないんだ。わかってるんだけどね」
「仕事ってもう八時だけど。残業?」
荒っぽい仕草で髪を拭きながら未生が聞く。目のやり場に困って尚人は見てもいないテレビの画面に集中するふりをした。
「うん、忙しい仕事で毎日終電かタクシー。……苛々するのも僕の相手をする余裕がないのも、仕方ないってわかってはいるんだけどね」
いまから浮気しようとしているくせに、しかもその浮気相手の男に向かってなぜ自分はこんなことを言っているのだろう。雰囲気を壊すようなことを口にしている自覚はあったが、未生は特に気にする様子を見せない。
「いつか暇になんの?」
「どうだろう。国会がない時期には少しは早く終わったりすることもあるんだけど、そういうときも飲み会とか勉強会とか色々あるみたいでね」
「国会?」
「あ……」
しまったと思うがもう遅い。尚人は口ごもりながら続けた。
「僕の恋人、霞が関の中央省庁で働いてるんだ。国会がある時期は特に忙しそうで」
「へえ、尚人と公務員ってなんかぴったりだな。学級委員カップルみたいな」
未生は妙に楽しそうだが、尚人としては自分だけでなく栄までも退屈な人間だと言われたようで面白くない。自身は何を言われたって仕方ないが、恋人のことまで巻き添えにするのは明らかにやりすぎだ。
「イメージほど固い人ばかりじゃないみたいだよ。彼だって仕事には真面目だけど本来は社交的で人にも好かれるし、僕みたいにつまんない人間じゃないよ」
未生が髪を拭く手を止める。
「僕みたいにって、もしかして気にしてんの? それ」
きょとんとした顔で見つめられるが、驚きたいのはこっちの方だ。これまでさんざん尚人のことを馬鹿にしておきながらいまになって「気にしてんの」とは、どこまで無神経なのだろう。
「多少は気にするさ。君だってさんざんそう言って僕を馬鹿にしたじゃないか」
「まあ確かにそうは言ったけど、俺は別の意味で尚人も面白いと思うけどね。そうじゃなきゃ誘わないし」
「その『面白い』は、すごく不謹慎な意味みたいな気がするよ」
「あ、ばれた?」
ぺろりと舌を出す子どもじみた仕草に緊張感が緩む。まったく、君は――そう言いかけるが未生が手を伸ばしたので尚人は口をつぐんだ。
体を固くしたのはひとまず空振りで、未生の手はテレビのリモコンを握り電源を落とした。急に音のなくなった部屋で、大きくなる鼓動が目の前の男にまで聞こえてしまうことを尚人は恐れた。
並んで座って向き合うと背の高い未生が少しだけ尚人を見下ろす構図になる。思いがけない真剣さで顔を覗き込んできた未生は、軽く首を傾げてからポツリと言う。
「あんまり希望は聞かない方なんだけど、一個だけ。キスは恋人だけとか、そういうタイプ?」
予想外の質問に尚人はとっさに答えを出すことができなかった。
「考えたことない……」
どうだろう。自分は栄以外にキスをされたら嫌悪を感じるだろうか――恋人以外とのキスはセックス以上に罪深いのだろうか。正しい答えを探し視線をさまよわせる尚人の頰に、そっと未生の手のひらが触れた。
「馬鹿だな」
言葉とは裏腹に、そこに揶揄するような響きはない。それどころか未生の声はしっとりと濡れていた。
ゆっくり近づいてくる顔は、避けようと思えば避けられるはずなのに尚人は動くことができない。唇はそっと、一瞬だけ触れて離れた。
「即座に断らないってのは、してもいいって意味だろ」
そして二度目のキスは、一度目よりずっと長くて深かった。